満月と祭りと帰省予告

今日は、満月でした。満月を見ると、最近は下記の曲が頭をループします。


そんな満月の今日、私の住む町ではお祭りが行われました。

神社に集結し、ワイワイガヤガヤと活動している地元の人たちは、とてもイキイキして見えます。「この方たちにとっての故郷とはここなのだな。ちゃんと故郷がこの人たちにはあるのだな。」と思うと、なんとも羨ましくなってしまいます。

故郷には、故郷なりの面倒くささや鬱陶しさがあるのかもしれませんが、ないよりあったほうがいい。故郷について私は素朴にこのようなことを考えています。

いや。故郷という言葉よりも、コミュニティという言葉を使ったほうが適切かもしれません。あるいはもっと分かり易く、集団という言葉を使ったほうが適切かもしれません。

コミュニティ、集団。要するに、人と人のつながり。そして、そこに確認可能な自分の居場所、ポジション、役割。人間という生き物には、このようなものが必要なのだと私は常々感じています。

先週購入したBIG ISSUEに、中島岳志さんの記事が掲載されていました。「日本の若者の貧困よりも、インドの貧困のほうが過酷。だから日本の若者は、インドの人々よりも恵まれていることに感謝して、その程度の貧困には我慢しろ。」という語りが、新自由主義者と呼ばれる人々からなされることがあるそうです。これに対し、長年インドの都市部のスラムで調査をしてきた中島さんは次のように述べていました。

 スラムの人たちの暮らしは、確かに貧しい。4畳半ほどのスペースで5、6人が生活し、失業者があふれている。衛生状態も悪い。
 しかし、彼らにはしっかりとしたコミュニティがある。日々の生活で極端な孤独に陥ることはなく、家族や近所、友人などの人間関係が濃密な社会状況の中で暮らしている。彼らには自分の居場所があり、苦楽をともにする身近な他者が存在する。
 一方で、現代日本の若者で、貧困の中にいる人たちは、このような人間関係までも喪失していることが多い。ネットカフェで寝泊りし、明日の仕事があるかどうかもわからない不安定で不安な毎日を送る彼らには、自己のアイデンティティを確認する居場所がない。
 このどちらが、本当につらい現実なのだろうか?

どちらもつらいと私は思います。どちらがつらいかどうかという議論には意味がなく、どちらもつらいからなんとかしなければならない。このように私は思います。

そのうえで、「なんらかの役割や仕事が自分に与えられており、かつ、自分の名前を呼んでくれる他者が傍にいる」という事実に救われることは多々あると考えている私は、現代日本の若者たちが置かれている孤立貧の状況*1に、悲しさを覚えます。

神社にて、忙しそうにイキイキと祭りに従事する人々の傍らに、「八紘一宇」と刻まれた古い石碑が立っていたのがかなり気掛かりだったのですが、コミュニティは、あるいは集団は、人間にとって欠くことのできないもので、それをどのようにして好ましい形で創造していくかが、私を含め、これからこの世界で生きていく人々の、早急に取り組むべき課題ではないかと思います。

以上、故郷あるいはコミュニティなるものについて、お祭りの風景を見かけた際に感じたことをつらつらと書いて参りました。

故郷保持者と思しきお祭り当事者の方々に羨望感を抱きつつ、かくいう私も、9/20に故郷沖縄に帰省致します。

そして9/26に福岡に飛び、その日の夜に第二の故郷である北九州へ移動します。北九大近辺に出現したあと、9/29に東京に戻ります。

懐かしい人たちに会えるのが、今から非常に楽しみです。

*1:例えば、http://jp.youtube.com/watch?v=zmlUnIigXpQ&feature=related を参照のこと。