旅の報告

旅から帰りました。沖縄で6泊7日、北九州で3泊4日を過ごしてきました。

懐かしい人たちに久しぶりに再会し、話をするのは、それだけで楽しい。いつも一緒にいるよりも、たまに会うほうがいいのかもしれない。いや。いつも一緒にいたからこそ、たまに会うことが楽しいのだろうか。

などという、ややこしい話はさておき。

とにかく今回の旅はなかなか楽しかったので、以下より、今回の旅で見たことや感じたことを簡単に報告。

2008年9月20日

土曜日20:00。羽田空港で妹と待ち合わせて一緒に沖縄へ。搭乗口付近の窓際に、裸足で座っている謎のロングヘアーがいたので、すぐに妹の所在を把握。お互いの仕事の話などをしつつ、飛行機へ。2時半ぐらいであろうか。22:40頃に那覇空港に着いた。空港に迎えに来てくれた両親の車で西原の実家へ移動。そして遅い夕飯にありつく。

うまい。近海マグロ*1はつくづく絶品だと思う。味だけでなく見た目もよい、光沢のあるプリプリとした存在。ちなみに今回食べたのは、ニシティ*2で購入されたもの。このような刺身には東京ではなかなかお目にかかれない。近海マグロは、ニンニクと一緒に食べるとなおGOODである。

もちろん、シークワサーをかけて食べるのも断然アリである*3

私は約18年間、上記のような食物を食べて生きてきた。前からうまいとは思っていたが、やっぱりうまかった。近海マグロ万歳。

近海マグロに満足し、風呂に入ったあと、就寝。

2008年9月21日

朝7:00頃に起床。

父が早朝から筋トレをしていた。腹筋、スクワット、腕立て。それぞれ100回するそうだ。そろそろ還暦に近いのに、相変わらず元気なのに驚く。私は柔軟体操しかしていないので、闘ったらきっと負けると思う。

それにしても、実家で迎える朝はとても清々しい。

太陽は既に昇りはじめていたが、夕陽と並び、沖縄で見る朝焼けも好きな私は、東京から持参してきた旧式デジカメ*4を持ち出し、家のベランダから外を激写。

ツノダシ・ドミノシステムのある風景。

知念半島。

家の前の公園と、与那原の海。

公園は何年か前に木が伐採され、単なる草ボーボーな空間に変化してしまっていた。昔はこの公園は鬱蒼と木が茂り、蝙蝠だの蝉だの様々な生き物が集う*5憩いの場であったのだが、驚くほどの変わりようだ。

しかしそれでも公園には、ランドスケープ好きなヤンキーや、何も知らないカポーがたむろする場所であり続けているという。とはいえその度に、私の父が「お前ら何時だと思ってんだ?あ?」とやんわり警告するので、彼らは深夜には解散を余儀なくされているらしい。

大規模な変化を強いられている公園であるが、御願はそのまま残っていた*6。定期的にここを拝みにくる人はまだいるようだ。きっとユタも来ているのだろう。そういえば、どういう人たちがここの御願を訪れているのかについて私は一度も調べたことがない。家の近所のことに関して、私は全く無知である。

かつて公園には様々なエージェントがいた。蝙蝠、蝉、ユタ、ユタの客、地元の人、ヤンキー、カポー、そして私の父。これらのエージェントが織り成す公園の生態系について、いつか分析をしてみたかった。

家の前の景色を堪能した後、朝食を食べ、急いでとまりんへ移動。

渡嘉敷島に住む友人に会いに、船に乗るためである。

久しぶりのとまりんは、あまり変わっていなかった。とまりんに行くのは、高校2年の夏に渡嘉敷島へ遊びに行って以来であるから、約13年ぶりである。こんなに時が経ったのに、とまりんは、当時と全く変わらない。

9:30発の高速船チケットが売り切れていたため、仕方なくフェリーのチケットを買う。


出発の時間まで、とまりんをうろうろする。何か面白いものがないか物欲しげな目をしつつ。

途中、美しい風景に遭遇。思わずシャッターを切る。

そうこうしているうちに出発の時間。多くの観光客とともに乗船。

渡嘉敷島では、友人が迎えてくれた。車に乗り、友人の家へ。

島に住み着く本土の人間が年々増加していること。島にはとにかくハブが多いこと。観光客が水着姿で島を闊歩するのはいただけないこと。港で釣りをしていたらサメがかかることもあること。

島に関する様々な情報を友人から得る。やがて家に到着。友人が家のドアを、鍵を使わずに開けたので、ここではドアの鍵を閉めない生活が可能であることにやや驚く。都会ではまず考えられない。

荷物を置いた後、友人の車で、ビーチや集団自決跡に連れて行ってもらう。途中、売店でアイスクリームを買う。とにかく太陽の光が眩しい。海人に白内障が多いのは、強烈な太陽の光をまともに浴びてしまうからだと友人。ふーんと頷いていると、サングラスを手渡された。

他に遊ぶ場所がないということで、友人の勧めにより某施設にて、バスケと卓球とスパーリングをする。急激に体を動かしたので、すぐにばてた。気付けば16:00。疲れたので早々に夕食の準備をすることにする。途中、港のすぐそばを歩いていると、汽水域と呼ばれる領域に、なんと小型のサメが泳いでいるのを確認。驚いた。サメ本当にいたよ。水深30センチの深さをサメがのんきにぼやっと泳いでいる。1メートルぐらいの大きさであろうか。驚いている私に「だからいるんだってば。」と友人。「あのサメは人を襲わないのか?」と訊いた私に友人は「多分襲わない。大人しい種類のサメだろう。」と回答。本当だろうか。

興奮冷めやらぬまま、港の近くの売店で食材を購入し、家に戻って夕食の準備。

友人が料理を作っている間に、手塚治虫の『どろろ』を読み終える。なんとなくベルセルクを想起。気付くと、ソーミンチャンプルーとお好み焼きとサラダが食卓に並んでいた。準備が整ったので、買ってきたチューハイで乾杯。いつしかテレビでは、サラリーマンNEOという番組が始まっていた。NHKの番組をネタにするNHKの番組というのがあることを知り、軽くショックを受ける。

お互いの近況を話し合い、うまいうまいと言いつつ飯を食べる。友人は明日は仕事で朝早いということだったため、早めに宴会を終え、1:00頃に就寝。

2008年9月22日

8:00に友人と家を出る。港まで車で送ってもらう。

本島行きの高速船チケットを買い、時間を潰す。私と同じような観光客がぽつぽつと集まりだした。

大学生だろうか。若い男女の集団が群れをなして歩いてきた。話し言葉とそのアクセントから判断するに、関西から来た人たちのようである。なにかのサークルの合宿だろうか。年齢は18歳から20代前半。思えば、私にもあのように若い時代があった。今年で30になる私は、大学生の頃から数えて、既に10年近くの時が流れてしまっていることを、なんとなく悲しく思った。

船に乗り、本島に着いたのは10:00頃であった。急に雨が降り出したので、船の中でしばらく雨宿りをする。かなりの大雨である。

雨がやんだ。船から降りて、とぼとぼと、とまりんに戻る。

さて、次はどこへ行こう。

案内所の隣に設置されているチラシ置き場には、各種の民宿の広告が並べられていた。だいたい一泊1500円である。このところ、安宿が那覇近辺に増えている。観光客のフリをして、試しに安宿に泊まってみようか。沖縄は全く初めてのような顔をして。

まるで私は沖縄人のようである。沖縄人のくせに沖縄人ではないふりをする存在として、私は自分自身を捉えていた。そのことに気付いた途端、なんともいえない罪悪感を感じた。沖縄人ではないのに自分を沖縄人としてちゃっかり自覚している人間が、沖縄人ではないふりをして安宿に泊まる。なんて不健康なことだろうか。

沖縄は初めてではない。18年間住んでいたのだから、私は沖縄のことについて、ある程度は知っているはずである。しかし、実際のところ、私は沖縄にあまり詳しくない。行ったことのない場所だらけである。知らないことだらけである。観光客のほうが私よりも断然沖縄に詳しいだろう。

観光客が体験する沖縄と、私が体験する沖縄には、隔たりがあるように感じる。「沖縄に行ったと言いつつ、観光客は、実は別の場所に行っているのではないか?」と疑いたくなるほど、私は、沖縄から切り離されている自分を、強く感じることがある。

そんな私が帰省する度に感じるのは、「私は沖縄にいるが、沖縄を体験し損ねているのではないか?」という不安である。沖縄にいるが、沖縄がしっくりこない。「今・ここ」に馴染めずに、終始体が浮いているような感覚。

この感覚とは、かれこれ20年ぐらいの、長い付き合いである。

これはよくある病気である。いわゆる沖縄病の亜種だと考えられる。珍しいことではない。この病気をいかにして楽しもうか。

こんなことを片隅で考えつつ、「とにかく沖縄に帰ってきているのだから、沖縄でしか経験できないことをしよう。」と性懲りもなく表向きポジティブに思い直した私は、とまりんの横に併設されている沖縄料理屋に入った。

メニューを手にするや否や、「あぐー」という文字が目に飛び込んできた。「あぐー」とは、沖縄の特産品として近年急に脚光を浴びだしたブランド豚のことである。私は以前、渋谷のどこかの百貨店で開催されていた沖縄フェア会場で売られていた、那覇の公設市場で調査を行った人類学者による本を読み、この存在について知ってはいた。しかし、商品としてメニューに掲載された「あぐー」の文字を実際に目の当たりにするのはこれが初めてであった。

私は確かに沖縄にいるのだろう。しかし、やはり足が地に着いていない。沖縄にいながら、沖縄を感受できていない。入りきれていない。3センチぐらい浮いているような、そんな浮遊感がある。

どうしてか「あぐー」に、形容しがたき妙な疎外感を感じながら、私は沖縄そばを注文した。沖縄と言えば沖縄そば。頭の固い私にはそのような発想しか浮かばない。

沖縄そばを食べた後、ふと、県立博物館へ行くことにした。理由は単純。まだ行ったことがないからである。

また雨が降り出したので、思い切ってタクシーに乗ることにした。学生の頃とは大違いである。私はリッチャー*7と呼ばれかねない自分を強く意識した。

タクシーの運転手は、あからさまに沖縄という感じの、目や鼻や口といった細部のパーツが大きな、白髪のおじさんであった。ヤクザ映画に出てきそうな貫禄がある。「博物館までお願いします。」と言うと、「はい。」と小気味よく答えてくれた。

車からあらためて見る沖縄は、新しい建物が確実に増えているように見えた。なかでも特に目に付くのはパチンコ屋だ。大型のパチンコ・スロット屋が増えているような気がする。

「あれ?今日閉まっているんじゃないの?」

運転手のおじさんが声をあげた。県立博物館は白くて平たいお墓のようであった。雨に濡れた駐車場は見事にガランとしている。心配そうな顔をして私を降ろすおじさんに料金を払う。念のため博物館の入口へ行ってみて確認。

県立博物館は、月曜日は定休日であった。

しょうがないので、モノレールに乗って、パレットくもじに行き、本屋で本を物色することにした。

「上地ゆうすけ」という俳優の自伝のような本や、小林よしのりと沖縄大学の教授の共著っぽい青い本や、読谷村史編集室による『三人の元日本兵と沖縄』を立ち読みする。

以下、理解できたこと及び感想。

  1. 上地は、「かみじ」と読むらしい。「うえち」ではないらしい。どうして苗字の読み方を変えたのかなんとなく想像はできる。
  2. 集団自決について議論するならば、「何が実際に起きたのかを特定するための「科学的方法」」をまず徹底的に明らかにするべきではないだろうか。証言の位置づけはその「科学的方法」との兼ね合いで決まってくるに違いない。
  3. 読谷村史編集室は非常に意味のある仕事をしている。立場も思想も異なる3人の元日本兵が、かつての沖縄の戦場を訪ねながら、当時のことを淡々と話していく姿はリアルである。「日本大好き。日本兵大好き。大日本帝国万歳。」と心から叫びたい人にとっては非常に迷惑な証言をする元日本兵の方々は、彼らにとってのリアルを正直に伝えているだけのように思える。これらの証言をどのようにしたら「事実」に関する正確な報告として採用できるのだろうか。この方法を私は知りたいと思う。証言を「過去に実際に起きた出来事」を特定するための手がかりとして適切に吟味する方法。証言を、しかるべく否定し、しかるべく「事実」として採用する。これを可能にする方法が知りたい。

立ち読みにかなりの時間をかけてしまった。

せっかくだから、パレットくもじから、安里まで歩いてみる。観光客が多い。肌の色が白くて、キョロキョロした人が多い*8

気が付くと17:00になっていた。

首里駅までモノレールで移動し、仕事帰りの母の車を首里駅付近で待つことにする。

ここもだいぶ変わった。首里駅のそばの首里中側の大きな壁にもたれつつ思う。モノレールは便利だが、空が見えない。自分の知っている沖縄が見れない。

しかし、背後の壁に、次のようなポスターを見かけて、若干ホッとする。

飲酒運転をするシーサー。

このポスターを見て、どうしてホッできたのかよく分からない。しかし、なんとなく私は、ちゃんと沖縄に来ているような気分になれた。

夕方、施設に入っている祖母に家族全員で会いに行った。

祖母は今年で84歳。食欲もあり頭もしっかりしているが、足腰が弱くなってきていたため、実家の近所にある介護施設に今年から入居している。

開口一番、「あっさ。まーちゃん。大きくなったねえ。髭も生えて、あんたイチローに似ちょーさ。」と祖母に言われる。祖母は普段は沖縄口で母と話すことが多いが、私や父の前では、標準語に近い沖縄口を話す。その日の私は髭を剃っていなかったので、祖母にイチローに似ていると言われてしまった。

施設の料理が美味しいこと。施設で催されるレクリエーションが楽しいこと。祖母の口から直接これらのことが確認できたので嬉しかった。

また、昔の話についても祖母から貴重な話が聞けたのも嬉しいことであった。戦後間もない頃、現在の沖縄県庁の向かい辺りに『喜舎場万年筆』という店があったそうである。その店は、祖母の叔父(祖母の父の弟)が経営しており、私の母はその叔父の奥さんを、「県庁のおばさん」と呼んで慕っていたのだそうだ。

「県庁のおばさん」という呼称に問題はない。よくあるあだ名である。しかし、親族関係の話をよくよく聞いてみると、なかには「にーぶやー*9おばさん」という呼称で呼ばれていた人物も出てきて、かなり爆笑した。

また、再度確認してみたのだが、祖母の祖先を辿ると、「喜舎場朝賢」という人物に行き着くとのことであった。この人物の名は何度か耳にしたことがある。琉球国王の側近として有名な学者である。

しかし、私の祖母はまた同時に、更に先祖を辿っていくと、源氏に行き着くとも言う。

一方では「祖先は琉球国王の側近」と述べながら、他方では「祖先は源氏」と述べる祖母の話を、私はどう受け取ればいいのか非常に迷うことがある。祖母の述べることは事実なのかどうか、いまいち確信が持てないからだ。調べる方法も分からないため、「へえ〜そうなんだ。。。」としか言えない。

とはいえ、自分が何らかの偉業をなした人物、あるいは集団の成員の血を引いているという物語は、それを聞く者の世界観に大きな影響を与えると思われる。簡単に言うならば、「妙な自信」が湧き起こってしまう。連綿と続く人間と人間の時系列的な系譜の中に、自分自身を位置づけることにより、おそらく人間という生き物は、妙な安心感に包まれてしまうという性質を備えているのであろう。

「あなたの祖先は喜舎場朝賢である。」*10 

こんな話を聞いてしまったならば、喜ばないほうが難しい。「おお。やっぱ自分は自分を沖縄人として提示してもおかしくないのではないか?」と思わないほうが難しい。

この場合、「あなたの祖先は源氏である。」という言説の立場が問題となる。源氏は日本人、大和人を意味する。であるならば、「祖先は琉球国王の側近の沖縄人」と「祖先は源氏」という言説は真っ向から対立する。しかし、私の祖母はこの矛盾を一向に気にしていない様子である。今風に言うならば、私の祖母は、「ハイブリッドな存在」となろうか。1つの機種の中に、異なるOSが2つ入っているが、互いに干渉することはなく、システムは全体として滞りなく動いている状態。

とにもかくにも、祖母の言葉は、私の沖縄病を刺激する。

2時間ぐらい祖母の部屋でユンタク*11したあと、家族でSOUTHERN PLEXに行く。思えば、帰省する度に、私は家族で映画を見ている。

映画を見る前に、カプリチョーザで食事をする。妹の誕生日だったので、誕生日特典を店員にねだってみる。証明するものが必要だと店員に言われるが、そういうものが一切手許になく、一瞬困る。しかし、なんとかじゃんけん勝負に持ち込み、妹の誕生日特典をゲットできることに。妹、店員にじゃんけんで勝つ。

美味しいパスタを堪能したあと、『崖の上のポニョ』を家族で鑑賞。

賛否両論あるだけのことはある内容であった。

この映画に対する私の解釈は以下のようになる。

  1. ポニョ=良くも悪くも大自然そのもの。
  2. 宗助=人間代表(「風の谷のナウシカ」におけるナウシカのような存在。「もののけ姫」におけるアシタカのような存在。)。
  3. フジモト=「世界をデボン紀にしてしまえ計画」を企む自然大好き人間大嫌いなマッドサイエンティスト(「風の谷のナウシカ」におけるクシャナを思想の点において反転させたような存在。「もののけ姫」におけるエボシを思想の点において反転させたような存在。要するに極端な存在。自然と人間の相克を描くには、このような極端な存在がうってつけだと思われる。)。
  4. ポニョの母=よく分からない。
  5. ポニョが宗助に恋をし禁断の魔法の水をこぼしまくって「世界をデボン紀にしてしまえ計画」を勝手に始動。デボン紀にするどころではなく、地球の引力にも変化が生じ、人口衛星落ちるほどの危機的状況到来。「どんな姿であってもポニョ(=自然)をそのまま受け入れる覚悟はあるか?」という問いに宗助はYESと返答。危機回避成功。

2008年9月23日

家族で県立博物館に行く。

父も母も教職員であるため、生徒の引率などで博物館に足を運ぶことは多いのだが、生徒の面倒を見ることで忙しく、ゆっくり展示物を見て回ったことはないのだそうだ。それに、私も博物館に行ったことがまだないため、妹を空港に送る途中に、家族全員で博物館に寄った。

かなり凝っている。「お金がかけられている」という印象を受けた。

私は琉球処分に関する展示コーナーに行き、そこでどのような解説文が掲載されているかを確認した。「明治政府側は警察と軍隊を率いて首里城に乗り込んだ。」という内容の解説文を確認することができた。隣の英語による解説文にも「police and military」という訳語が使用されており、「日本に侵略された琉球王国」という解説がなされていることは明白であった。

琉球処分に関する解説文にはさまざまなバリエーションがあり、「日本に組み入れられた。」という穏やかな表現から、「日本に侵略され、その支配下に置かれた。」という激しい表現までといろいろある。博物館における琉球処分の解説は、どちらかというと、「琉球って日本に軍事的に占領されたんだ。」とその解説文を見る者に思わせるようなつくりになっているといえる。

博物館の展示物を作成する人々は、命懸けの仕事をしているのではないかという考えが頭をよぎった。展示物の内容に反対する人々による嫌がらせなどもあるのではないだろうか? 

博物館を訪れる子どもたちが、そこで目にすることのできた情報を素直に吸収することを鑑みると、博物館とは、あからさまに政治的な空間である。いい意味でも悪い意味でも洗脳ルームといえよう。

私は、博物館で展示されている情報を、鵜呑みにはしない。どうやって調べたのかが一切明らかになっていないからである。証拠品として展示されている文書類などの年代が、適切な装置で測定されているのかどうかさえ分からない。そこで展示されている写真も、その解説文の内容とは文脈上相容れないものかもしれないし、更に疑うのであれば、政治的な意図に基づいて作成された合成写真である可能性もある。

事実なるものをどーんといきなり提示するのではなく、事実なるものをどのようにして突き止めたのかということについて、情報を開示して欲しいと、欲張りな私は思ってしまう。

一通り、展示物を見終えた後、博物館内にあるショップで、本を物色する。

怪しげな本を発見する。

目からウロコの琉球・沖縄史―最新歴史コラム

目からウロコの琉球・沖縄史―最新歴史コラム

この本によると、現在では自明のことされている「琉球・沖縄のイメージ」は、近年の研究結果により、幾分修正を迫られているようである。

たとえば、昔の琉球人の中には、ターバンを巻いていた人々もいたという。また、カタカシラ*12は、今現在想像されている場所とは異なる場所に位置していたという*13

博物館に展示されている内容とは明白に異なる琉球・沖縄像を提示する本書が、博物館内のショップにどんと置かれている状況が、なによりも面白いと思う。

  1. 空港食堂で沖縄そばを食べる。
  2. 一足先に東京に帰る妹を空港まで送る。
  3. 母が、ビーチでウォーキングをするというので、お供することに。
  4. いつのまにか実家の近所の海はリゾートと化していた。

それこそ、リゾートと化してしまった地帯は以前は、どぶげぇ*14から流れ込む汚水の匂いが充満しているような地域であったのだが、埋め立てと下水処理場の整備により見違えるほど綺麗になっていた。

バーベキューを楽しむ若い男女や、ウォーキングに勤しむ年配の方々、釣り人、水着姿で遊ぶ子ども達。まさかこの地域が、このような人々で賑わう場所になろうとはまったく予想していなかった。

喜ばしいことだと思う。

しかし、なんだかとても沖縄らしい風景になってしまって、現実感が持てない。「ここほんとに俺の故郷?」と言いたくなる。




左側の遠くに見える建物は琉球大学医学部。

リゾートと化した与那原の海から、運玉森や夕陽等を撮る。














2008年9月24日

西原町図書館で『西原町史』を読む。特に、『第四巻 西原の民俗』を集中的に読む。私はスケベなので、まず「男女の出会い」という項目に目がいく。昔の西原は「毛遊び」が盛んだったらしい。健康的で良いと思う。

次に「子育て」。「毛遊び」で出会った男女を待つのは妊娠と出産と子育てである。驚いたことに、学校や職場に子どもを連れてくる人々の様子が記述されていた。学校や職場が託児所化しているという状態である。「西原は、昔のほうが進んでいたのか!?」と目を疑う。

最後に、私はスケベなだけでなく、オカルトチックな不思議な話も好きなので、「西原の怪談」という項目を読む。「かつて一般に親しまれた話」として、下記の「あひるゆうれい」シリーズが興味深かった。

「あひるゆうれい(その1)」

 ある人が夜道を歩いていると、一羽の白いあひるが道をさえぎったので、そのあひるを蹴とばした。すると、たちまちたくさんのあひるにとりまかれた。はじめて幽霊と知って、一目散に逃げ帰った。(西原町史編纂委員会 平成元年:1126)

「あひるゆうれい(その2)」

 二人の青年が、夜おそく、隣り村から帰るとき、役場の前の暗渠から、二羽の白いあひるが現れた。度胸のあった二人は、このあひるを捕えようと追っかけまわした。村の中の古い井戸の前まで来ると、あひるは、井戸の中へ入り込んだ。二人は、びっくり仰天。飛んで帰った。(ibid:1126-1127)

「あひるゆうれい」に関する考察

なぜ「あひる」はこうまで幽霊と結び付けられて語られていたのだろうか。

どうして「あひる」が幽霊とされるのかがよく分からない。幽霊という言葉を持ち出すのは余計ではないか。例えば、「あひるゆうれい(その1)」は、単に無数のあひるに取り囲まれた話であって、ことさら幽霊という言葉を持ち出さなくても語ることは可能であろう。なぜ、わざわざ「あひる」と「幽霊」を結び付けて、当時の西原の住民は語っていたのだろうか。非常に不思議である。もしかすると、当時の「あひる」は、西原の住民にとって、例えば西欧における黒猫のような位置付けを与えられた、不吉な生き物であったのかもしれない。

西原町史」を読んだ後、統計の勉強をする。会社で定期的に開催している自主的な統計勉強会の宿題を解く。今日は、対数正規分布について勉強。測定値を対数変換したり、指数変換して元に戻したり。

昼飯時になったので、ニシティまで歩いていき、めん屋という店で沖縄そばを食べる。むきになって、沖縄そばばかり食べている。まるで、自分の中の沖縄度を高めようとするかのごとくである。

「この時分にニシティに来ている若者は一体どのような境遇の人たちなのだろう?あやしい。」と考えながら食べる。自分のことは棚に上げて。

2008年9月25日

  1. 図書館で統計の勉強。
  2. 家で昼食。
  3. 池上さんのテンペストについてラジオで情報を得る。
  4. 公園を突っ切り、介護施設の祖母のところへ。






  1. 介護施設の祖母を訪問。昔のことや近況についてゆっくり話す。
  2. 三平で味噌ラーメンと餃子を堪能。

2008年9月26日

  1. 午前中、県立博物館。
  2. 空港食堂で沖縄そば
  3. 15:00の便で福岡空港へ。
  4. ソニックで小倉へ移動。
  5. 東急インにチェックイン。
  6. 初めての角打ち。

2008年9月27日

  1. 東急インを出る。天気は快晴。





  1. 門司の別荘に荷物を置きに行く。
  2. タクシーで門司から北方へ。

友人と会って話し込む。

私は小倉を訪れるたびに友人の家でご馳走をいただいている。

友人の前で私は、語るべき手持ちの物語が少ないことを恥じた。今はいわゆるサラリーマンとして都内で働く私には、学生の頃は擁していた覇気・禍々しさ・爆発性が明らかに失われてしまっている。そのことにも同時に申し訳なさを感じた。

友人と会ったのは今から約10年前。「世界の見え方」を変えることに躍起になっていた当時の私は、「世界そのもの」を変えようとしたことのある(そして現在も変えようとしている)友人に、半ば保護される形で、4年間の危うい時代を生きてきた。

今も昔も私は友人から何かを期待されているような気がする。しかし、その期待に応えることができないであろうことに、申し訳なさを勝手に感じる。「私は真面目に生きているのだろうか?私は真摯に生きているのだろうか?なんか世界と自分の間に膜を張らせた生き方をして、それに甘んじていないだろうか?」という言葉が浮かぶ。この友人の前では私は、「なにかしなければ。己の生を余すことなく遠慮することなく咲き乱れさせるような生き方をしなければ。」とひたすら己の行動を反省してしまう傾向がある。

会社で働くことにほとんどの精力を費やし、かつて横溢させていた様々な事柄に対する欲望を忘れてしまったこと。そのことに対する後ろめたさのようなものをひしひしと私は勝手に感じる。この友人の前では。

考えすぎなのかもしれないが、このようなことを考えさせるほど、この友人の存在は大きく、私に影響を及ぼしまくりなのである。

友人から昔撮った映画の納められたDVDを3枚プレゼントされた。これらは、ゼネストという今では考えられない規模でのストに関するドキュメンタリーである。人生経験豊富すぎる友人の話にひたすら驚き、自分の小ささを痛感しまくった夜であった。

マルクスについても、夏目漱石についても、民俗学についても、政治についても、文学についても、芸術についても、舞踏についても、音楽についても、私は基本的な教養を欠いているために、私はこの友人と本当の意味で、意見を交換できていない。友人の話を聞き取るので精一杯である。こちらから新しい情報を全く提供できていない。

何年かかるか分からないが、世界に関する基礎的な知識を頭にいれて、いつかこれらの話題について、ガチンコでディープに徹底的にしっかりと、友人と語り合ってみたい。

  1. 民俗学研究会の部室でモンチと会う。
  2. 寝袋を借りて、そこで寝る。

2008年9月28日

お昼に、魚町のお洒落なイタリヤ料理屋にてKOBOの同窓会が開催された。

今回、私が北九州に現れるということで、小倉在住のKOBOのメンバーが同窓会を企画してくれた。KOBOとは、こくら情報工房の略であり、大学時代に私と仲間達とで立ち上げたサークルである。*15その主な任務は「北九大ネット」の管理・運営であった。*16

北九大ネット」とは、北九大の学生や受験生や大学周辺に住む人々が、皆で一緒に楽しめる「北九大ポータルサイト」である。これは当時としては全国的にも珍しい「学生主体による大学ポータルサイト」であった。掲示板の情報を電子化した「休講掲示板」をいち早く導入しただけでなく、北九大に存在する全サークルにサーバーのスペースを無料で提供したり、大学関連の各種イベントを紹介したりと、刻一刻と変化していく北九大関連情報をリアルタイムに網羅しかつ発信する、革新的なサイトであった。

その「北九大ネット」において私は、「重森の逆相談室」という非常に暗いコンテンツを担当していた。このコンテンツは、「人が怖い。どうしたらこれを治せるのでしょうか?」「愛と依存はどのようにしたら区別できるのでしょうか?」というような悩みを実名で書き、視聴者から激しい突っ込み&助言をいただくという、いい意味でも悪い意味でも問題含みなコンテンツであった。「自らの悩みをコンテンツに昇華する」という私のスタイルが確立されたのもちょうどこの頃であった。何も考えずに連載を開始した「重森の逆相談室」であるが、何故かかなりの反響を呼んでしまい、このコンテンツは、黎明期の「北九大ネット」の人寄せパンダのような役割を果たしたといえる。

自分の担当したコンテンツについて長々と語ってしまったが、このように「北九大ネット」は、大学主導では実現不可能な、面白くて役に立つ北九大生御用達のサイトであったのである。

KOBOのメンバーは、現役の北九大生だけでなく、生協の職員、大学教授*17、小倉在住の怪しい社会人で構成されていた。残念ながら同窓会に参加できない遠方のメンバーも何人かいたが、初期のメンバーも合わせて10人以上*18も人が集まり、HTMLやCGIフォトショップイラストレーターを独学で勉強し、徹夜してコンテンツを作り上げた日々を懐かしく思い出した。メンバーのなかには、サークル内で出会って結婚した人々もいる。このような出来事も非常に感慨深かった。

その後、同期の家で二次会を行った。

二次会の場で、大学時代に非常にお世話になった謎のシステム屋さんと4年ぶりぐらいに再会した。

昔と変わらず、素敵に飄々としていて、元気そうであった。おそらく還暦に近いはずなのに、見た目も発想も、最初にお会いした時とほとんど同じである。

確か、酒の席で初めてこの方とお会いした時に私は、このような質問を行った。

「愛とは何ですか?」

するとこの人物は次のように応えた。

「愛とはうんこである。」

当時の私はその本旨をすぐには理解できないでいたが、段々と、「愛なる観念をやたら崇高に持ち上げてそれなしでは生きる価値なしとする世間に対して、愛なる観念の嘘くささ・虚構性に目を向けさせんとする気概」を理解するに至った。

愛という言葉を当たり前のように使用して物を考えていた18歳の頃の私は、「愛とはうんこである。」という返答に、過剰に憤慨したのを覚えている。

この人物から私は、それ以来4年間、北九大ネットの立ち上げから、逆相談室といった私のコンテンツ作成に関して、技術的なものから人間的なものまで様々なサポートを受けてきたのであるが、実は私は、この人物についてよく知らない。

学生時代は演劇をしていて、その後米屋を営み、最終的にはIT関連会社の社長をしているらしいことは分かるのだが、依然として多くの謎に包まれた人物なのである。

ふらっと旅に出ては旅行記を書いたり、なぜかルーマンフォーラムに一枚噛んでいたり、この日の再会の直前にも、若い演劇人の女性達とわいわい飲んでいたりと、本当にこの人物は、社会人らしからぬ社会人である。一言で言えば、遊び人。とても楽しく働いている*19ように思える、羨ましい人物なのである。

「こんな風に面白く生きれたらいいな」という印象をかつて私に抱かせた人物が、そのままの姿で現れたので、かなり嬉しかった。

私もこんな風な遊び人になりたいものだ。

2008年9月29日

大学時代の指導教官竹川大介を研究室に訪ねる。

一ヶ月前に私が指導教官宛に送った訪問予告メールが、到着していないことが発覚。

googleのスパム対策機能により、私からのメールはスパムに分類されてしまっていた模様。なんでだろう。私のメールアドレスが、マイクロソフトhotmailサービスから提供されたものだからだろうか。googleマイクロソフトは相性が悪いのだろうか。

ゼミ室を覗く。ものが増えて、以前よりも狭くなった感じ。




お昼を、大学の近くのイタリヤ料理屋カサートでとる。美味しい。

料理を食べた後、指導教官に「で、今何やってんの?」と聞かれる。「会社で解析の仕事を続けていて、当分は、生物統計を極めるために勉強したいと思う。」と答えると、とりあえず納得したような顔を見せた。

つい先週まで、沖縄に滞在していたことを伝えると、「なんだ。だったらシゲも石垣島に来れば良かったのに! 石垣は面白いぞ!! 来ればグナンという、シゲがいたら絶対感動するような人物に会えたのに!」と返してきた。

そして、「どこの社会にも、天才ってのはいて、グナンはその部類に入る。もったいない。シゲが石垣に来てグナンに会えば、それこそ人類学にまた興味が湧いてきただろうに。」とも述べた。

お腹いっぱいになった後、指導教官に誘われて、大學堂に行く。

大學堂とは、北九州の台所旦過市場に突如出現した多目的スペースである。お喋りをしたければお喋りをしてよく、休みたければ休んでよく、物を売りたい人がいればここで売ってよく、教室を開きたい人がいれば開いてよく、コンサートを開催したい人がいれば自由に開催してよい。大學堂とは、このようなことが全て可能な、自由空間なのである。

この施設は市場の中に存在しており、昭和を彷彿とさせるその畳の間は、見る者を思わず立ち止まらせる。誰もが自由に使えるこの異色の空間は、大学時代の指導教官がプロデュースした。





畳に座り、指導教官は、石垣島で出会ったグナンという人物について熱く語りはじめた。時折、人類学者以上に、現地における事象について卓越した分析を披露することのできる現地人がいる。指導教官が石垣島で出会ったグナンとは、まさにそのような人物であった。

私は、一生懸命グナンの話をする指導教官に、「ムチョナと出会えたターナー」を重ね合わせた。

「人類学することは確かに楽しそうだ。正直言って羨ましいと思う。この楽しさのみに酔い痴れることができなかったことが、私の能力の限界だったのかもしれない。」という言葉が私の頭をよぎる。

しかし悔しいので、「だけど、人類学はどこでも実践可能なはず。「今・ここ」におけるあらゆる事象に対する、他者との交歓を内在させたメタ認知的な分析は、自らを人類学者として自覚するのであれば、どこにいても常に可能なはず。」と思い直す。

ひとしきり談笑した後、私は20:00の便で北九州空港から羽田へ帰った。

*1:近海というが、どの漁港から出ている船が、どのあたりで獲った魚なのだろう。

*2:コープ首里の近海マグロも非常に良い。

*3:右に見えるのは三枚肉。

*4:7年前に購入。

*5:噂ではハブも集っていたらしい。抜け殻を見たことはあるが、私は、この公園ではハブの姿を見たことはない。

*6:あらためて写真をよく見ると、トイレのそばにあった御願がなくなっていることに気付いた(もはやそのトイレの姿さえ見えない。いつのまにか取り壊されてしまったようだ。)。公園には2つの御願が存在していたが、トイレの横にあった小さめの御願は撤去されてしまったようだ。これはおおごとではないだろうか?そう簡単に信仰の対象が消滅してしまえるのだろうか。この重要な問題に今、私は東京で気付いた。

*7:沖縄口で金持ちのこと。たぶん。しかし、こうやって沖縄方言をしれっと使いこなして「な?俺は本当は沖縄人なんだってば!ほらその証拠に地元の人しか使えない沖縄口を自由自在に使っているでしょ?でしょでしょ?」と暗にアピールしている自分もむかつく。「きもっ!」と思う。しかし、「暗にアピールしている」と感じてしまい、「きもっ!」と自分を自分で断罪してしまう自分を最も悲しく思う。沖縄人でもそうでなくてもいいではないか。どっちでもいいではないか。どっちでなくともいいではないか。このように頭では分かっているものの、実際に沖縄と対峙すると、このような「あれれ?」な状態に私は陥る。ネタではなく、マジで精神的に良くない心境になる。沖縄は、昔付き合っていて別れて、今でも忘れられない恋人のような存在で、とにかく面倒くさくて問題含みで、いかんともしがたい存在である。ということも散々理解できているし、とっくの昔にてなずけた精神状態であるから、きっと本当はどうでもいいのだ。

*8:観光客に対する偏見炸裂である。

*9:ねむたげな。居眠りが常習的な。

*10:「あなたは○○である」「あなたの祖先は○○である」「あなたの前世は○○である」という語り口には、共通点がある。これらの語り口は、なんらかの偉大なものとしてイメージされる存在と、自分自身を同一視させる(もしくは関連付ける)。○○にあたる言葉が、「良きもの。素晴らしいもの。優れているもの。強いもの。」として想像される限りにおいて、これらの語りは、どうしてか、その語りを耳にした者の精神を高揚させてしまう効果を持つようである。自分自身をなんらかの存在になぞらえるような語り。自分自身をなんらかの存在と同一視するような語り。「私は東大生である」「私はイーグルである。」「私は沖縄人である。」「私はM87星雲から来たウルトラマンである。」「私は魔界の王子である。」といった語りが人に及ぼす作用について、トーテムに関する人類学的論考を読んで、考えてみたい。メタファーだのメトニミーだのシネクドキだの、そういった専門用語に多数出くわすことになりそう。

*11:おしゃべり。

*12:いわゆるマゲ。

*13:検索してみると、ちょうどこの話題に関する、著者によるブログ記事を見つけることができた。http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2005/04/post_8610.html 非常に面白いと思う。文献調査によりここまで明らかにできるものなのだろうかと驚く。

*14:めっちゃ汚いどぶ。

*15:今はもうないけど。

*16:北九大ネット」に関する詳細については、http://www.apa-apa.net/kok/news/kok111.htm を参照下さい。

*17:大学時代の指導教官。

*18:3歳未満の2人含む。

*19:生きている