「論理階型」と「学習」の関係

論理階型理論の復習

例:大学というクラスとそのメンバー

大学
 ├体育館
 ├図書館
 ├グラウンド
 ├講義棟
 └学生寮

上記の図において、クラスの名前は「大学」である。また、「大学」というクラスのメンバーは、「体育館」「図書館」「グラウンド」「講義棟」「学生寮」である。

このとき、「大学」と、「体育館」「図書館」「グラウンド」「講義棟」「学生寮」は、異なる論理階型に属するといえる。

以上が、ラッセルによる論理階型理論の概要である。ラッセルはクラスとメンバーを明確に区別することの重要性を強調した。

学習と論理階型の関係

このラッセルの論理階型理論が、学習という出来事(とりわけベイトソンによる学習2と学習3という考え方)に、どのように関与しているのかを見ていきたい。例として、イルカの調教を挙げる。

古い動作というクラスとそのメンバー

古い動作
 ├水面上に顔を出す
 └尾ビレで水面を叩く

上記の図において、クラスの名前は「古い動作」である。また、「古い動作」というクラスのメンバーは、「水面上に顔を出す」「尾ビレで水面を叩く」である。

このとき、「古い動作」と、「「水面上に顔を出す」と「尾ビレで水面を叩く」」は、異なる論理階型に属するといえる。

ここでやや唐突であるが、コンテクストという概念を導入したい。コンテクストは、論理階型そのものではない。しかし、各論理階型において「毛細血管上に張り巡らされた情報のネットワーク」という意味で、各論理階型上に位置するものであるため、論理階型とほぼ同じものと捉えてよいものである。

「古い動作」と「水面上に顔を出す」と「尾ビレで水面を叩く」は、それぞれが独自のコンテクストを形成しているといえる*1

「水面上に顔を出す」を例として考える。観客の前に登場し、「水面上に顔を出す」という動作を行えるようになったイルカは、「水面上に顔を出す」と「笛の音」と「餌」と「水槽」と「調教師」という事物の連関(コンテクスト)を学習したといえる(いわゆる学習2の達成。)。

また、このイルカが、観客の前に登場し、「尾ビレで水面を叩く」という動作も行えるのであれば、「尾ビレで水面を叩く」と「笛の音」と「餌」と「水槽」と「調教師」という事物の連関(コンテクスト)も、このイルカは学習しているといえる(いわゆる学習2の達成。)。

しかし、イルカはこの時点においては、これらのコンテクストの上位に存在する「古い動作」というコンテクストに気付くことができていない。「水面上に顔を出す」や「尾ビレで水面を叩く」といった行為を、単独に学習しているだけである。

やがてイルカは、「水面上に顔を出す」や「尾ビレで水面を叩く」という動作を行ったとしても、「笛の音」も鳴らず、「餌」も登場しない状況を何度か経験する。イルカは当初、この状況に戸惑う。しかし、やがて、「水面上に顔を出す」や「尾ビレで水面を叩く」の上位に位置する「古い動作」というコンテクストの存在を認識するに至る。また、同時にイルカは、「古い動作」と対立し、かつ、同じ論理階型に位置する「新しい動作」というコンテクストの存在をも認識する。

これがいわゆる学習3と呼ばれる現象である。学習2の結果として学習されたところの「水面上に顔を出す」や「尾ビレで水面を叩く」というコンテクストの上位に位置する「古い動作」と「新しい動作」という2つのコンテクストの学習が達成されたのである。ここでは、「水面上に顔を出す」や「尾ビレで水面を叩く」といったコンテクストが位置する論理階型よりも上位の論理階型に存在する「古い動作」というコンテクストの存在と、「新しい動作」というコンテクスト*2が、イルカに学習されたといえる。

この学習3の達成には苦労が伴う。自らの動作が自らの期待を裏切るような状況に立たされたイルカは、このことに起因する不快感や苦痛に耐えながら、とにかく試行錯誤を繰り返さざるを得ない。しかしこの状況に「耐え抜いた動物にあっては、創造性が促進される。」(ベイトソン 2000:380)

イルカが学習3を成し遂げた瞬間。これを生き生きと描写するベイトソンの文章は、いつ読んでも感動的である。

演技の初回から14回目までは、不毛な結果が続いたということ。そのあいだ中イルカは前回強化された行動をやみくもに繰り返すだけだった。その間にとられた別の行動は「偶然」の産物と判断される。ところが14回目が終わった中休みのあいだ、イルカは明らかに興奮のようすを示した。そして15回目の舞台に現れるや、八種類の際立った行動を含む精妙な演技を披露したのである。そのうち四つはまったく新しいもので、この種のイルカにはそれまで観察されたことのないものだった。(ベイトソン 2000:380)

精神の生態学

精神の生態学

追記:素朴な疑問

  1. どのようにしてイルカは「古しい動作」というコンテクストと「新しい動作」というコンテクストを知ることができたのか? どうしてイルカは学習3を達成することができたのだろうか? 今まさに学習3を成し遂げようとするイルカの頭において、どのような情報がどのようにして処理され整理されたのか。このメカニズムが知りたい。
  2. そもそもラッセルやベイトソンは、論理階型理論の正しさをどのように確認しているのだろうか? クラスとメンバーを明確に区別して思考する際に、クラスとメンバーはどのようにして明確に区別されえるのだろうか? 例えば、私が取り上げた「大学」というクラスと、そのメンバーの図は、どのような根拠のもと設定可能となっているのだろうか? なんらかのクラスとメンバーのありかたが、ある特定のありかたにおさまることを、彼らは(そして私自身も)どのように積極的に保証することができるのだろうか? ベイトソンは、論文「クジラ目と他の哺乳動物のコミュニケーションの問題点」において、「仮説作りの基盤となった認識論epistemology自体は、検証の対象になりえない。ホワイトヘッドとラッセルの『数理哲学』から引き出されたこの認識論は、われわれのガイドとなるものであって、それ自体の正しさは、研究が実り多いものであったという事実からすら、ごく弱い確証が得られる性格のものにすぎない。」(ベイトソン 2000:498-499)と述べているが、これは要するに、「論理階型理論については一切疑問を挟まず、これを暗黙の前提として受け入れる。また、クラスとメンバーがある特定のありかたをしていることを、積極的に根拠付ける方法についても一切考慮しない。」ということであろうか? だとしたら、やや不満である。(←「大学」は「体育館」や「図書館」とは異なる位相にあるものとして現に既に実際に我々に使用されている概念であるので、わざわざその使用方法のありかたに疑問を持つ必要はないのではないだろうか? 「お前の指は何本ある?」と聞かれて、素直に自分の指を見て、「5本あります。」と素朴に簡単に答えられるように、「大学」というクラスとそのメンバーとの関係は、これらの言葉が使用されている現場において、これらの言葉の使用方法を観察することによって素直に明示することのできる関係であるため、何らかの特別な方法を用いて、この関係が成り立つことを、ことさら積極的に証明する必要はないのではないか?)

*1:ベイトソンはコンテクストをエピソードとも呼んでいる(ベイトソン 2000:379)

*2:この時、「古い動作」というコンテクストと「新しい動作」というコンテクストを識別するためのマーカーもイルカに学習されているはずである。しかし、これが何であるのかは現時点では不明である。おそらく、「何らかの動作を行ったとしても笛の音がならないこと」や「何らかの動作を行ったとしても餌がもらえなくなったこと」等が、己の行為が「古い動作」と「新しい動作」のどちらのコンテクストに位置する行為であるかを識別するためのマーカーになっているのではないかと考えられる。