メタメッセージの条件

ダブルバインド状況について、ベイトソンは次のような事例を紹介している。

分裂症の強度の発作からかなり回復した若者のところへ、母親が見舞いに来た。喜んだ若者が衝動的に母の肩を抱くと、母親は身体をこわばらせた。彼が手を引っ込めると、彼女は「もうわたしのことが好きじゃないの?」と尋ね、息子が顔を赤らめるのを見て「そんなにまごついちゃいけないわ。自分の気持ちを恐れることなんかないのよ」と言いきかせた。患者はその後ほんの数分しか母親と一緒にいることができず、彼女が帰ったあと病院の清掃夫に襲いかかり、ショック治療室に連れていかれた。(ベイトソン 2000:306)

また一方でベイトソンは、ダブルバインド状況について次のように分析している。

分裂病者の母親は、少なくとも二つの等級にまたがったメッセージを発しつづけている、とわれわれは考える。議論を簡単にするため、ここでは等級を二つだけに限定しておこう。その二つとは、大まかに、次のようにまとめることができるものだ。

a──子供が彼女に近づくたびに生じる敵意に満ちた、あるいは子供から身を遠ざけるような行動。
b──彼女の敵意に満ちた、子供から身を引くような行動を、子供がそのまま受け止めたとき、自分が子供を避けていることを否定するためにとられる、愛の装い、あるいは子供へ近寄っていくそぶり。

(中略)

すなわちここで「愛」のメッセージは、「敵意」のメッセージについて言及するメタメッセージになっている。両者はメッセージの等級を異にする。と同時に、この高次のメッセージは、その言及対象である低次のメッセージ(敵対的に身を引く態度)の存在を否定するものである。(ベイトソン 2000:302)

さて、やや唐突であるが、ここで「bがaに対するメタメッセージと断言できる根拠」について考えてみたい。先の臨床データに沿うならば、「もうわたしのことが好きじゃないの?」というセリフはbに該当し、「身体をこわばらせること」はaに該当する。何故、「もうわたしのことが好きじゃないの?」というセリフは、「身体をこわばらせること」というジェスチャーについて言及するメタメッセージといえるのであろうか?

bはaに対するメタメッセージであると断言できる根拠

そもそもメタメッセージはどのようにして発信できるものなのであろうか?あるいは、どのような条件を揃えたメッセージが、メタメッセージとして特定できるのであろうか?

答えは、メッセージの受け手次第、もしくは、メッセージを第三者的立場から目にする観察者次第であろう。つまり、なんらかのメッセージが、他のメッセージに対するメッセージになっているかどうかを判断するための明確な基準はなく、メタメッセージかどうかの判断はメッセージの受け手や観察者が自由に決めるということである。

母親は、「身体をこわばらせること」を、なかったことにしたい。そのような事実を否定したい。そのようなことを念頭に置いた母親が発する「もうわたしのことが好きじゃないの?」というセリフは、「身体をこわばらせること」及び「身体をこわばらせて咄嗟に手を引っ込めた子供」という出来事と、全く無関係に存在してはいない。母親は、彼女が身体をこわばらせて、子供がそれを正しく認識し手を引っ込めたからこそ、「もうわたしのことが好きじゃないの?」というセリフを発した。このことは疑うべくもない事実である。

このとき、「もうわたしのことが好きじゃないの?」というセリフを、「身体をこわばらせること」というジェスチャーとどのように関係付けるかについてだが、この判断は、母親と子供のコミュニケーションを観察するベイトソンに委ねられていると思われる。おそらく、ラッセルの論理階型理論に依拠し、異なる論理階型の関与した分析を有機体の活動に対して行いたい手前、ベイトソンは、「もうわたしのことが好きじゃないの?」を、「身体をこわばらせること」に対するメッセージ(つまりメタメッセージ)として位置付けたのではないだろうか?

話は変わるが、メッセージに対してメッセージを発する方法として、これまで私は、話の最中にウィンクをする人を目撃したことがある。具体的に言うならば、目の前の相手を騙す際に、傍に偶然居合わせた私を共犯者にするべく、ウィンクが行われたのを見たことがある。

「アメリカの首都はニューヨークだよ。」というセリフを喋ったその人物は、傍でその話を聞いていた私にウィンクをした。「アメリカの首都はニューヨークだよ。」というセリフを聞かされた相手は、地理に関して疎いらしく半信半疑の様子であり、このセリフの正しさを確認するために、このセリフに対する周囲の人々の反応を見ようとした。いきなりウィンクされた私は戸惑ったが、「なるほど。「アメリカの首都はニューヨークだよ。」というセリフに同意するふりをしてくれ。」という意味としてそのウィンクを理解した。つまり私はウィンクを「アメリカの首都はニューヨークだよ。」というセリフに対するメッセージ(このセリフを真に受けたふりをしてくれ)として、すなわちメタメッセージとして受け取ったのである。

ウィンクをメタメッセージとして受け取ったのは私の勝手な判断である。本当は、あのウィンクは「とにかくうなずけ!」という意味のメッセージであり、「アメリカの首都はニューヨークだよ。」というセリフとは切り離して単独で使用できる暗号のようなものであった可能性もある。しかし、月並みな言い方ではあるが、メッセージの意味を決めるのはメッセージの発信者ではなく、メッセージの受け手である。もちろん私もこの例に漏れず、ウィンクを、「アメリカの首都はニューヨークだよ。」というセリフに対するメタメッセージ(このセリフを真に受けてくれ)として勝手に自由に理解した。

ベイトソンによる「もうわたしのことが好きじゃないの?」というセリフの、「身体をこわばらせること」に対するメッセージとしての位置付けも、似たような経緯に起因するものではないだろうか?