『TOKYO 0円ハウス 0円生活』に感動

読書をして興奮したのは随分久しぶりのことである。

ついさきほど、私は下記の本を読み終えた。

TOKYO 0円ハウス0円生活

TOKYO 0円ハウス0円生活

「ホームレスの住居に関するフィールドワーク報告書」と言ったらいいのだろうか。いや。「都市の狩猟採集民の民族誌」と言ったほうが適切かもしれない。

本書では、所謂「ホームレス」と呼ばれるような人々が、「住居」と「仕事」と「生きるために必要な思考能力」を兼ね備えた十全な存在として描かれている。隅田川、多摩川、名古屋、大阪。筆者の坂口氏は様々な地域の「ホームレス」を訪ね歩き、機能的かつ合理的な彼らの住居と、彼らの「豊かな生活」を、次々に発見していく。

たとえば、隅田川に住む鈴木さんは、坂口氏に最も影響を与えた人物である。

鈴木さんは、釘を一切使わずに、ありあわせの拾い物で作った家に、妻のミーコさんと一緒に住んでいる。彼らの住居は、定期的に実施される国土交通省による清掃業務に備え、無駄を極限まで削ぎ落とし、短時間で分解と組み立てが可能な住居ではあるが、自転車等を上から放り投げてくる少年達の攻撃に耐えられるぐらいに、屋根の造りは丈夫である。また、部外者が容易に入り込めないドア、風呂、寒さ対策等、数え切れない程の様々な知恵が彼らの住居には詰まっている。

そして彼はとにかく人に好かれる。海外出張で日本を去る会社員から高級自転車を譲り受け、転倒したところをたまたま助けた服屋の社長から定期的に服をもらい、民家やホテルの住人と直接交渉し、アルミ缶そのものを袋ごといただく。

堂々と他者と交渉し、培った人脈をフルに生かし、自分の家のこと(改造の余地や部品のスペア)について常に思考を巡らせながら、鈴木さんは生きているのである。

また、実験を繰り返し、自動車の廃棄されたバッテリーから電気を確保することに成功した鈴木さんは、テレビやライト等の電化製品はもちろん、炊飯器や真空保温調理器等を駆使し、「豊かな生活」を実現させている。食べることの大好きな鈴木さんの月々の食費は3万円を超える。

鈴木さんだけでなく、本書には、他にも、魅力的な「ホームレス」が登場する。

元カメラ職人で、ソーラーパネル完備の、大雨の際には船に変化する非常に軽い住居在住のソーラーオジさん。栽培した無農薬の野菜(トマトやナスやキュウリ)を近所の主婦と物々交換して楽しく暮らしている多摩川在住のホンマちゃんとクボちゃん。等がそうである。

確かに、彼らは「豊か」といえそうである。「悠々自適」という言葉は彼らのためにあるのではないかとさえ思う。

また、彼らは確かにとてもクリエイティブである。考えることがやたら実用的で、かつ面白いのだ。たとえば、ソーラーオジさんによる発想には度肝を抜かれる。「今欲しいものは何か?」と尋ねる坂口氏と、ソーラーオジさんによる下記の会話を見て欲しい。

「オジさん、今何か欲しいものとかあるんですか?」
あまりにも軽い家に住んでいるソーラーオジさんに僕は聞いてみた。
「欲しいもの? あるよ」
なんにもない、と言うと思っていたので、びっくりした。
「なんですか?」
「コンピューターだね」
ウソでしょ。
「何をしたいんですか?」
「あれを今の人は、情報を得るものとしてばかり使うでしょう」
「はー」
「私は、それをですね、もっと本質的に使いたいんです」
「と、言いますと……」
「まず、ソーラーパネルで発電した電気を使ってコンピューターを動かします。コンピューターも12ボルトなので十分使えるのです。そして、コンピューターで、電気量の確認や、ソーラーパネルの角度調整、周りの天候、気温などの調査、とまぁ、この家の脳味噌のような感じで使いたいのです」
もうこっちは完全にペースを握られ、思考停止となってしまっているのだった。
「それで、最終的には人間の脳とも接続して、家と人間の両方をコンピューターで制御したりしてみたいんだよねー」

(坂口 2008:227-228)

まるで、攻殻機動隊における電脳化のようなアイディアである。脳が外部環境と接続された状態。ソーラーオジさんは、「住むこと」と「生活すること」を文字通り直結した結果、すべからく導出されるであろう「究極の結論」を、彼自身の生き様に基づいて、素直に語っているのである。

多摩川のブルーシートの家で、電脳化について思考しているこの人物は、存在自体が奇跡である。ソーラーオジさんの発言にビビった坂口氏は、当時のことを次のように回想している。

人間は、直観に従って家を作り、生活を続けると、ここまで思考するものなのかと衝撃を受け、愕然としながら僕は家に帰った。(坂口 2008:228)

言うまでもなく本書の魅力は、鈴木さんのような「ホームレス」の方々に関する生き生きとした記述である。「こんな風にして生きている人がいるのか!」と単純に驚かされる。「世の中なんとかなるもんだ」と思わずにいられない。

しかし私が本書に惹かれるのは、建築学を専攻していた坂口氏が、これらの「ホームレス」との出会いにより、現代の建築と、それを自明のごとく受け入れて成り立っているこの社会に対して疑問を強くし、オルタナティブな生き方は可能なんだ!と次第に確信していく過程が詳細に記述されているからに他ならない。

従来の建築に対してもともと坂口氏は違和感を覚えていたのだが、調査を進めていくにつれ、その思いはどんどん研ぎ澄まされていく。フィールドで「ホームレス」と遭遇するたびに坂口氏が発する感嘆の声あるいは思索の声に、そのことが見て取れる。

普通だったらソーラーパネルというのは家の屋根に設置されていて、そんなに触ったりするもんじゃないのに、この家では屋根もパネルも人間と近いから、容易にパネルを動かすことができる。この距離は、今の住宅ではありえない。オジさんは、太陽を見ながら、パネルを動かしながら、見えない電気を感じながら、テレビを見ている。僕は、その人間と電気の関係にゾクッと鳥肌が立ってしまった。木を擦って火をおこしているのとそんなに変わらないんじゃないと考えたからだ。ナマナマしいのである。
「未来的であり、原始的」
そんな家である。もう、路上生活者の家を調べているということなんか完全に吹っ飛んでしまい、そんなことどうでもよくなって、ただただその家自体に僕は惹かれていった。(坂口 2008:213)

僕たちが考えている「家」というものが、どれぐらい人間に必要なのか。お金もそうだ。仕事もそうだ。色々なことが頭を駆け巡っている。すべてをもう1度考え直している。
このオジさんは本当に実行している。自分の「生活の尺度」というものを見つけ出している。(中略) もう、はっきり言ったら、建築とかそういう問題ではなかった。(中略) 人間の体と、建築と、生活とが渾然一体となって、しかもその人独自のもので、どれにも似ていない。その時、その人にとっては、空間すべてが家となりうる。(坂口 2008:248-249)

何かを作ることが建築ではないのかもしれない。そこを自分の場所と感じられたら、それはもう紛れもない「建築」なのではないかと思った。(坂口 2008:251)

お金を持っている人たちが土地を購入し建築家に依頼して建築物が建っていく。なんで訳の分からない高さの建築物がいるのだろうか? (中略) 僕たちはお金を稼いでデカイ家を建てることを夢見るのではなく、自分にしか作ることができない家に住んで、自分にしかできない生活の方法を見つけることをまずはやらなくてはならない。(坂口 2008:268-269)

隅田川に家を建てるという行為は許されているものではない。しかし鈴木さんの家を調べれば調べるほど、なぜこの生活が許されず、周りには巨大な建造物が建っていくのか、正直分からなくなっていった。なんだろう、この矛盾は。どうにかならんものか。新しい視点はありえないのか。(坂口 2008:276)

現在の建築学と、それが依拠する我々の社会の在り方。これに対する坂口氏の疑問・批判を私なりに要約すると、次のようになる。

やたら金のかかる割には、決して居心地が良いとはいえない建物。しかし、そこに住むことがあらかじめ前提され、そこに住むために過剰に労働しなければならないこの社会。あなたはこの状況に息苦しさを感じないか? 硬い壁により外部から完全に遮断され、他者と結び付きにくい閉じた世界。これらに固執せずに、もっと気持ちよく楽しく豊かに生きる方法があるのではないか? 

上記の要約は間違っているかもしれない。坂口氏は「過剰な労働」や「他者と結び付きにくい閉じた世界」とは、一言も言っていないからである。

とにもかくにも、非常に考えさせられ、そして引き込まれた本であった。

基本的に私は本書を絶賛する立場である。本書を読み、「ホームレス」と呼ばれる人々の生き方に対して、ますます憧れを持ってしまったことを、ここに明記しておきたい。

しかし、いくつか疑問も抱いてる。それらを以下に記述する。

  1. 「豊かな」生活を営める「ホームレス」もいれば、そうではない「ホームレス」も存在していると考えられる。つまり、「ホームレス」間にも、「能力の格差」があると思われる。たとえば、鈴木さんのような交渉に長けた人間は、稀な存在ではないだろうか。また、鈴木さんが持つ「モノを他人からもらう能力」を持つ人間も非常に少ないと思われる。また、「体の丈夫さ」といったリソースにも恵まれていないと、長時間自転車をこいでアルミ缶を拾うことは困難である。どのような「ホームレス」でも十分に生きていけるような生活・労働モデルはないのだろうか?
  2. 1と関連するが、坂口氏が紹介する0円ハウスについて、多くの人間が、「本当は私もこういう生活がしてみたい」と口にしつつも、「でもできない」と述べるのは、住所がないところに住むということに抵抗があるからではなく、「「鈴木さんのような成功した「ホームレス」」になれるほど、自分には能力が備わっているのだろうか?」という不安があるからではないだろうか? 鈴木さんのようなクリエイティブな人材は、会社員の中でも稀な存在だと思われる。つまり、鈴木さんの生き方は、一つの会社を経営する立場である社長のそれと同じであり、会社員の多くは、そのようなバイタリティーと能力を持ち合わせていないと考えられるのである。鈴木さんのようには、選ばれた人しかなれないのではないか?
  3. 2と関連するが、「ホームレス」の人々は、医療制度を十分に利用できるのだろうか? 虫歯やインフルエンザ、盲腸や癌など、「ホームレス」の人々も病気に罹るに違いない。そのとき、彼らはこれらの障害に対してどのように対処しているのだろうか? この点に関する不安も、いわゆる「普通の人」が、気軽に「ホームレス」生活に参与できない原因となっていると思われる。
  4. これも2と関連するが、「ホームレス」の住居は、防犯設備が整っているとは言い難く、安全とは言い難い。そのため、いわゆる「普通の人」は、「ホームレス」生活を躊躇するのではないか? ブルーシートのみで外と隔てられた住居に住むには、勇気が必要だと思われる。「ホームレス」生活に参入する人を増やすには、防犯設備の充実が必要不可欠と思われる。
  5. 鈴木さんの「豊かな」生活は、東京のような大都市があるからこそ、可能になっている。東京が、大量のアルミ缶や、使用可能な電化製品が拾える場所だからこそ、「ホームレス」は生活できている。皆が過剰な消費を控え、鈴木さんのような生活を行えば、鈴木さんをはじめ、多くの「ホームレス」達が路頭に迷うのではないか? これまで維持していた生活レベルを、下げなければならなくなるのではないか? 「ホームレス」に憧れを抱く人をなるべく少数に留めるために、都市の狩猟採集生活に関する情報は、秘密にしておいたほうがよいのではないか?

追記

どうやら年明けに、トークイベントがあるらしい。なんと、隅田川の鈴木さんも出演するっぽい。これは是非とも参加したい。

http://tcc.nifty.com/cs/catalog/tcc_schedule/catalog_081210201034_1.htm