自立したホームレスを称賛することの功罪と私達の責任

ここ数日、私は隅田川の鈴木さんを称賛し続けている。

ホームレスと呼びうるような生き方をしている鈴木さんは、会社や国家の制度に全く頼らないという意味において、自立した人間といえそうである。私はまさに鈴木さんのこのような自立状態を称賛の的にしている。「生きる力」という言葉は、都市で狩猟採集生活を営む鈴木さんにこそふさわしい。

しかし、鈴木さんを称賛し、鈴木さんの生き方を過大に評価することは、セーフティネットの充実を国家が怠ることを、容認してしまうことにならないだろうか? 国家主導によるセーフティネットを全く当てにせず、生き生きと生活している鈴木さんを理想像として持ち上げることは、国家主導によるセーフティネットの存在から人々の目を背けさせ、その意義と重要性を等閑視させることにならないだろうか?

先日、湯浅誠氏による下記の演説を拝聴し、「私達が果たすべき責任」について知った。


私達にはセーフティネットを充実させる責任がある。このように湯浅氏は述べる。

同感である。足を踏まれて痛みを感じたら、自分のことだけでなく、足を踏まれて同様に苦しむ他の人々のことも考えて、迷うことなく我々は「痛い!」と声をあげるべきである。そうすることにより足を踏むことを問題化し、世界を、足を踏まれることのない世界、あるいは、足を踏まれてもすぐにその痛みから解放される世界に、変革していくべきなのである。

理由は単純明快である。足を踏まれると痛いから、である。

やや比喩に頼りすぎた。文脈に沿った具体的な話をする。

例えば、派遣切りやリストラに遭い、収入が途絶え、貯金も底をついてしまったとする。家賃も払えなければ、食料も手に入らない。次の仕事が得られるまで生き続けるためには、必要最低限の金がいる。このとき有用となるのが、国家が用意したセーフティネットである。分かりやすく言えば、生活保護制度である。我々はこのセーフティネットを充実させるべきなのである。

理由は簡単である。お金がないと困るからである。

ところで、ここで誤りを正したいと思う。

私は冒頭から、「国家主導によるセーフティネット」あるいは「国家が用意したセーフティネット」という物言いをしている。まるで「国家」なる崇高で思いやりに溢れた高貴なお方が、下々の者に情け心で施してくれる恵みであるかのように、セーフティネットについて私は語っている。

このような構図は完全な誤りである。なぜなら我々自身が、日々税金を納めるという仕方で、セーフティネットが維持されるべく、活動しているからである。「国家」がセーフティネットをお情けで我々のために用意してくれているのではない。「国家」がセーフティネットを準備できるように、我々が「国家」を支えているのである。

だから、「国家」が少しでも怠けたら、迷うことなく声をあげていいのである。文句を言っていいのである。「何のために金払ってると思ってんだ。ちゃんと仕事しやがれこの野郎!」と、怠慢こいている「国家」を我々は責め立てるべきなのである。

どこの会社にも、どこの組織にも、仕事を怠ける人間はいる。そのような人間を我々は、下記のように、遠慮なく怒鳴り散らすべきである。「ちゃんと働け。仕事しろ。」と。

http://montagekijyo.blogspot.com/2008/05/blog-post_24.html

最後に、鈴木さんを称賛し続けることについて。

鈴木さんは自立した個人である。自分で自分の生活の舵を取り、住居や食料を確保するために活動している。しかし我々も、「国家」に税金を納めることにより「国家」を働かせ、自分自身も含めて誰もが平等に生存権を行使できるような世界を実現させるために活動する、自立した個人である。

つまり、国家に頼らない鈴木さんが会社員に比べて、より自立しているというわけではなく、単に自立の仕方について両者ではアプローチの仕方が異なるだけなのである。その意味では、会社員も鈴木さんも変わらない。どちらもこの世界を、知恵を振り絞って試行錯誤して生きていこうとする点において、自立しているといえる。

ただ、鈴木さんのような自立した精神、すなわち、「自分で考えて工夫して試して行動して、この世界をしぶとく楽しく生き抜いてやる」というスタンスに基づいた、創造性と実験精神に溢れた生き方ができている人は、この日本という「国家」において、数は少なさそうである。ホームレスにも、会社員にも、このような創造的楽観的行動的人物*1は稀であろう。

追記:「自立」という言葉についてつらつらと

上記の文章中に登場する「自立」という言葉の意味内容にはブレがある。前半の方では、会社や国家と直接的な関係を持たずに生きている状態に、私は「自立」という言葉をあてている。しかし、後半においては、「知恵を振り絞って試行錯誤して生きていこうとする」様に対して、「自立」という言葉をあてている。

以下に、その理由を説明したい。

「自立」という言葉は胡散臭い。この言葉には、どこか説教めいた、押し付けがましいところがある。「自立しろ」という言い回しは、まるで、自分と他者の関係をなかったことにするために、あるいは、自分と他者を完全に切り離して、他者を徹底的に無視することを正当化するために編み出された、邪悪で無責任で冷淡な言い回しであるように思える。昨今頻繁に耳にする「自己責任」という言葉。これと非常によく似たニュアンスが感じられる。

試しにGoogleで「自立」という言葉を検索してみた。すると「自立」に関する某社会学者の次のような意見を見つけることができた。

「自立」という言葉についても、定義の転換を図る必要がある。自立とは、依存のない状態を意味するのだろうか。そうした自立の定義自体、強者が行ったものである。誰かに依存していても、そのことを負い目に感じる必要はない。誰かに依存しなければ生きていけないならば、そのことを権利として主張できるように、自らを解放することが必要である。

http://demosnorte.kitaguni.tv/e538103.html

全く同感である。

思えば、10年前の私は、「自立」という言葉に病的に囚われていた。正確に言うならば、「自立」の対概念である「依存」という言葉に囚われていた。「依存」を「忌避すべき悪いこと。なんらかの存在なしでは生きてゆけない状態。」と捉え、「自立」を「依存から脱した状態であり、望ましいあり方。」と理解していた。この悪しき定義を備えたこれらの言葉を用いて思考した結果、私は自分と他者をむやみに切り離し、ひたすら孤立することを徒に志向し、自分にとって重要な他者を失ってしまった。

今でも私は「依存」という言葉で表現される状態よりも、「自立」という言葉で表現される状態をより好ましいものとして素朴に理解している。しかし、これらの言葉を用いて思考することに対して懐疑的にならねばとも考えている。具体的には、「私は酸素に依存している。自立しなければ。」という言い回しに滑稽さを感じるように、「○○に依存している。自立しなければ。」という形式の、すべての言い回しについても、同様の滑稽さを感じることができるようになりたいと考えている。

これらの言葉を一切用いないで、世界について語りたいと思うこともあるが、その一方で、「もったいない。それなりに利用価値のありそうな言葉であるのに。」という未練もある。いや。正直に白状すると私は「自立」という言葉が、もうどうにもとまらないほど大好きなのである。だから、「自立」という言葉を、ポジティブかつ素敵な言葉としてこの手に取り戻したいという思いが私にはある。この言葉はもっと格好良くて痺れるような、魅力的な響きを本来は持っていたはずだ。決して自分と他者を徒に切断することを促すような破滅的で悲しい言葉ではなかったはずだ。

以上が、私が「自立」という言葉に対して持つ葛藤の内容である。

私は「自立」という言葉に関して上記のような混乱・葛藤を抱えている。このような経緯により、私による「自立」という言葉の使用方法にはブレが見られるのである。

今回のエントリーの前半における「自立」は、悪しき定義であるところの「自立」に近い。そして後半における「自立」には、この言葉に本来の輝きを取り戻させたいと性急に願うあまりに、「知恵を振り絞って試行錯誤して生きていこうとする」様が、その意味として唐突に導入されている。

なんだかとっても「やれやれ」な感じである*2

*1:私見では、フランスや北欧の国々には、このような人間が多いように思える。

*2:私が「自立」という言葉から「自立」できるのは一体いつの日か…。