『「自己」なるもののサイバネティックス』メモ

都内某所にてベイトソンのAA論文を酒の肴にして歓談。「分裂生成」「対称型」「相補型」「ダブルバインド」「治療的ダブルバインド」「サイバネティックス」「システム理論」。いくつもの難解な専門用語が登場するが、AA論文のポイントを私なりに要約するならば、以下のようになる。

AA論文のポイント

「自己とそれ以外を明確に区別するデカルト二元論に毒され、「自分はアルコールを制御できる。自分はアルコールに打ち勝つことができる。自分はアルコールを克服できる。」という信念を抱く、「対称型の分裂生成」を引き起こしやすい「傾向・認識の在り方」を備えたアルコール中毒患者が、アルコールに挑戦し、やがて結局は泥酔し、アルコールに敗北してしまうこと。この現象は、アルコール中毒患者が備えている「傾向・認識の在り方」そのものにエラーが含まれていることを意味する。すなわち、「自己制御なるものの無効性を示すアルコール依存者の行動は、「正しい」ということ」であり、依存症に陥っていること自体、世間一般のエピステモロジーの誤りを、身をもって、帰謬法的に、証明していること」に他ならない(ベイトソン 2000:442)。
従ってアルコールへの耽溺を打ち消すために、アルコール中毒者が採用すべき方策は、「アルコールとは戦えない」ことを認め、「オレはできるぞ」というプライドを捨て去ることである。この「底を極める」ことを達成できたアルコール中毒患者は、アルコールに降伏しているため、もはやアルコールに挑戦することはない。このようにしてアルコール中毒患者は、アルコールへの耽溺を回避できるようになる。
自らの認識の在り方における誤りは、その誤りを抱えた認識に基づいた行動のもとでは一切修正されない。誤りが含まれていることが、繰り返し己の行動の結果として示唆されるのみとなる。この状況を打破するには、誤りを抱えているところの自らの認識の在り方のほうを変化させる必要がある。AAの12のステップは、それを成し遂げるにあたり有効に働く。アルコール中毒患者の認識の在り方に確認できる誤りとは、「もっとしっかりしろ。自分をコントロールしろ。」と、「意識された意志(=自己)以外のもの」を絶えず制御できることを是とする西洋特有の強迫観念である。

疑問・コメント

  1. サイバネティックスという言葉の定義が『精神の生態学』には見られないように思う。『精神と自然』には、「制御と回帰性と情報の問題を扱う数学の一分野」とある(ベイトソン 2001:310)。
  2. わざわざ「対称型」「相補型」という用語を持ち出す必要はないのではないか? アルコール中毒患者がアルコールへの耽溺から逃れることができるようになるメカニズムの説明において、これらは余計な言葉であるように思える。これらの言葉がなくとも、上記メカニズムの説明は可能ではないだろうか? 「アルコール中毒患者の持つ認識の在り方は、「対称型」の「分裂生成」を生じさせやすいものである。」という記述を削除し、「アルコール中毒患者は、「「意識された意志」とそれ以外を分離し、前者が後者をコントロールすることが可能であり、かつ、そうすべきである。」というデカルト二元論に基づいた認識の持ち主である」という内容の記述で十分ではないだろうか? なぜ「対称型」「相補型」という用語を持ち出す必要があるのか分からない。もしかしたら「何かに打ち勝とうとする。目の前の対象を克服しようとする。」というアルコール中毒患者の性向をより詳しく指し示すために、「対称型」という用語を用いているのだろうか?
  3. 「底を極める」ことができるためには、どのような条件が必要なのだろうか? この点をもっと掘り下げて欲しかった。「AAの言うところによれば、どんなかたちで「底」がくるかは、人によってまちまちである。そこまで行きつかないうちに死に至るケースも多いとされる。」(ベイトソン 2000:445)とあるが、「底」が来る前に死に至るようでは、「底を極める」こと自体が、非常に困難な作業であることが伺える。あらゆる人々が安全かつ確実に「底」を極められる方法。これについて詳細に分析して欲しかった。
  4. 「「対称」と「相補」とを、なんらかのかたちで生理的にコード化した、中枢神経の対照的な状態が存在するという可能性」(ベイトソン 2000:439)という物言いが気になる。これはつまり、遺伝子レベルで有機体に内在している「対象型分裂生成」あるいは「相補型分裂生成」的な行動様式があるかもしれないということだろうか? 「生物界では、それまで分裂生成の上昇を続けていたプロセスが、クライマックスに行きあたり、そこを境に急激に逆転するという現象」の例として、「いじめっ子が、反撃を受けたとたんにおじけづくこと」「対称的な闘争で劣勢にまわったオオカミが、突然「降参」のシグナルを出して、それ以上の攻撃を止めさせること」が挙げられている。これは、「いじめっ子」の脳に、「相補型」の傾向が遺伝的に備わっているということか? あるいは、「闘争で優勢に立ったオオカミ」の脳に、「対称型」の傾向が遺伝的に備わっているということか? つまり、これまで自らが備えた「相補型」の傾向に基づいて、相手の攻撃を誘発するような「媚びた・弱そうな・下手な」態度を示す「いじめられっ子」に対し、容赦ない攻撃を浴びせ続けていた「いじめっ子」が、突如「いじめられっ子」に攻撃を受け、それまで稼動させていた「相補型」の行動をストップせざるを得なくなった。あるいは、これまで対等に「対称型」の遺伝的に決定された傾向に従って争っていたAとBの二匹のオオカミのうち、劣勢になったBのほうが「降参」のシグナルを出して(おそらくお腹でも見せたのだろうか)、Aの攻撃を誘発することをストップさせた。ということだろうか。確かに、遺伝的にプログラミングされた傾向というのは、生物に必ず備わっていると考えられる。生まれた後で後天的に身に付ける行動様式とは別に、「本能」という言葉で言い表すことが適切な行動様式もあると考えられる。しかし、「対称型分裂生成」あるいは「相補型分裂生成」を引き起こしやすい遺伝的傾向なるものは、果たして存在するのだろうか?*1
  5. 斧で木を切るきこりの話(ベイトソン 2000:431)や、「"自己"と呼ばれるものは、この広大な運動プロセスのごく一部を切りとってきて、偽りの物象化を施したものにすぎない。」という言明を私は理解することができる。しかし、「自己」なるものを、これらの話や言明において語られているものとして体感することは難しい。というか怖い。自己と他者の境界や、自己と動物との境界、自己とそれ以外の境界が不明確になることに漠然とした不安を感じる。なぜか「お前のものは俺のもの。俺のものは俺のもの」という邪悪な言葉が頭に浮かぶ。自分の臓器の所有権を、他人に主張されるような恐怖がある。

参照文献

精神の生態学

精神の生態学

精神と自然―生きた世界の認識論

精神と自然―生きた世界の認識論

*1:いずれにせよ、争いが頂点に達して破滅を迎えることを回避するためにも、自分が対峙している相手が、「対称型」の傾向を持っているのか、「相補型」の傾向を持っているのかを早めに見極めることが肝要だ。「対称型」の傾向を持っている人に反抗しても不毛だし、「相補型」の傾向を持っている人に服従のシグナルを示しても不毛だ。何回か実験的に「反抗」と「服従」の態度を示すことにより、相手の傾向を見極めて、その判断に従ってこちらの言動を相手によって適宜変化させなければならないことには変わりはない。「文化」だろうと、「本能」だろうと、とにかく相手の行動様式を見極めることは生きていくうえで重要だ。例:反抗しない部下のみに対してやたら厳しいことを言ってくるように見える上司がいた場合、試みに反抗したり服従したりして様子を見て、上司の傾向が「対称型」か「相補型」かを見極め、争いが頂点に達しシステムが崩壊する「分裂生成」を回避するために、適切に「反抗」や「服従」の態度を使い分ける。