浴びるように

通勤途中に立ち寄った郵便局で、懸案事項であった「もやい」への振込みを済ませた重森さんは、『フリーターズフリーVol1』をポケットに忍ばせ、今日も日比谷線に乗り込んだ。

このところ重森さんは、湯浅誠氏の著作と、フリーターズフリーの皆様による著作ばかりを浴びるように読んでいる。『反貧困─「すべり台社会」からの脱出』、『働けません』、『もうガマンできない!広がる貧困』、『フリーター論争2.0』。これらの著作から重森さんは、生活保護や失業保険、そして、労働現場における様々な問題とその解決策(の糸口)について、実用的な知識を貪欲に吸収し続けている。

読めば読むほど危機感が募る。そして、もっと知りたいと思う。昔のように、時間を気にせず、嫌という程、図書館にこもりたい。重森さんは最近、このような気分である。

下記のような記述に付箋を貼っては、自らが生きる現実の労働現場について重森さんは、何事か思いを巡らす。

健全な社会とは、自己責任論の適用領域について、線引きできる社会のはずである。ここまでは自己責任かもしれないが、ここからは自己責任ではないだろうと正しく判断できるのが、健全な社会というものだろう。

from 『反貧困─「すべり台社会」からの脱出』P-83

どうしてもっと早く相談しなかったのか、と言うのは簡単だ。しかし、ほとんどの人が自己責任論を内面化してしまっているので、生活が厳しくても「人の世話になってはいけない。なんとか自分でがんばらなければいけない」と思い込み、相談メールにあるような状態になるまでSOSを発信してこない。彼/彼女らは、よく言われるように「自助努力が足りない」のではなく、自助努力にしがみつきすぎたのだ。自助努力をしても結果が出ないことはあるのだから、過度の自助努力とそれを求める世間一般の無言の圧力がこうした結果をもたらすことは、いわば理の当然である。自己責任論の弊害は、貧困を生み出すだけでなく、貧困当事者本人を呪縛し、問題解決から遠ざける点にある。

from 『反貧困─「すべり台社会」からの脱出』P-132

追い詰められた人の精神には、「あなたは悪くない」と言ってくれる誰かへの依存と盲従が生じる。たしかに、イラクの人質事件以来の自己責任論はむちゃくちゃで、弱い立場に置かれた他者に責任を押し付けるためのロジックでしかない。それは分かったうえで、しかし、やっぱりたとえば自立や個人の責任というものには、ポジティブな何かがありませんか。マンガ版の『ナウシカ』じゃないけど、自立的かつ他者とともに「生きねば」という自分を律する感覚は、稀有なものだと思う。しかも、生活に余裕のある人の自立ではなく、負け組の自立、経済的貧困のなかでの精神的自立ということを考えざるを得ない。つまり、外側の貧困と同時に内なる貧困とも戦うべきじゃないか。もしかしたらこの感覚自体がある種の恩恵や余裕の産物、思い上がりかもしれませんから、そこは正してほしいですけど。ただ、「おまえは悪くない」だけで片付けられないものもあると思う。

from 杉田氏による発言 『フリーター論争2.0』P-46

本当の成果主義とは、簡単に言えば、年齢給の完全廃止です。理想は職能給ではなく職務給に一本化することです。日本の企業ではリクルートなんかがそうですね。本人ができる仕事で給料を決める。年俸制です。リクルートは面白いですよ。二○代の部長が普通にいますからね。普通は四○代でしょう。もっと面白いのが、採用なんです。職務給だから、入社試験時に年齢・学歴・前職を一切問われません。(中略) 今まで一番面白い人はどんな人でしたか、と人事部長に聞いたら、四○代のフリーターがいたそうです。採用されました。普通の企業は絶対に採用しないですよ(笑)。四○代のフリーターでも、私はこれだけ仕事ができますよとアピールすれば、本当はそれでいいわけです。でも普通の日本の企業じゃ、絶対にありえません。なぜかというと、年齢給がひっかかるんですね。四○歳だと、自動的に年収八○○万払わなきゃならない。仮に能力が十分あっても、年齢で引っかかるから、採れない。年功序列は平和だと言う人がいるんだけれども、実際はものすごく人の生き方を型にはめてしまう。一回レールを外れると戻れない。そういう負の面があります。

from 城氏による発言 『フリーター論争2.0』P-93

最近、社会学研究で日本に来ているオックスフォード大の中国人の女の子と知り合いました。彼女は日本企業はおかしい、と言う。残業が非常に多い。普通は契約書に九時から一七時とあったら、それしか働かない。なのに、デフォルトで二一時まで残れとか、平気で命令される。(中略) 滅私奉公して働くなら生活は保障してやると。そのバーターとして、あれだけの過酷な労働条件を甘受している。だから男性サラリーマンは、会社の外での人間関係がすごく希薄だしね。四○過ぎると、もう他の生き方はできません。そうなってから会社に存在を否定されると、そりゃあ壊れちゃいますよ。他の選択肢やロールモデルが全然ないんだから。

from 城氏による発言 『フリーター論争2.0』P-95〜P-96

先日あるイベントで、ある鬱病の女性が、フリーター労組の人に会場からこういう質問をしていました。自分はこういう事情で今の職場を退職させられたけど、不当解雇じゃないですかって。その時会場は、それはもちろん不当解雇だから色々要求できます、という雰囲気で一体化していった。でも、そこでは大事な問題がスキップされている気もした。ぼくの職場の実経験から言うと、ある種の鬱病の人と一緒に働いていたんですが、とてもヘヴィだったんですよ。鬱については一般論ではもちろん語れません。でも、そういう現実が他方にあることを忘れると、まずい。特に零細で人員も寡少な職場だと、時間追加とか、自分たちの身を削って、なおその人の分を補っていくわけです。だからその人を不当解雇していい、という意味ではまったくありません。でも、過剰な労働で燃え尽きていく人のリアリティと、生きづらくて働くのも難しい人のリアリティが、すり合わせられない限りは、難しい感じがしますね。(中略) ぼくの今の職場みたいな、協働重視のNPO法人だと、法定雇用率が適用されるわけではないんですが、自然に、身体や精神に障害がある人が仕事を求めて来るんですね。ある程度採用するわけですが、受け入れていくと、だんだん内部がもたなくなってくる。そうすると本来はガンガン働ける人間も燃え尽きていく。そういう悪循環はありますから。

from 杉田氏による発言 『フリーター論争2.0』P-102〜P-103 

九○年の釜ヶ崎越冬のときは、女性差別と沖縄差別が問題になりました。前者は日雇いとやっている人が女性の支援者を襲いました。それで、ものすごい問題になったんです。支援に来ていたのは学生だったので、まず学生からこういうことがあったと報告を受けたのですが、活動家は大体男性なんですけど、通り一遍のことを言うだけでほとんど対応できなかった。もう一つの沖縄差別は、沖縄日雇労働組合が来てたんだけど、釜ヶ崎での対応が非常に悪くて怒らせてしまったということがあった。それは単に態度が悪かったということではなくて、根本に沖縄と大和の関係に対する無知があった。そんな中で自分たち自身の姿勢がまったく考えられていなかったんじゃないかって声が上がって、それから一週間に一回、一年間ずっと総括討議をやったんです。最初はみんな来てたんだけど、だんだん抜けて行き、最後は一○人くらいしかいなくなってた。それ以後にも、今度は西成署による支援女性への性的暴行事件があって、それをきっかけに活動家の間で大きな議論が起こりました。ぼく自身、きちんと関われないということがあって、「自分はなにもしてるんだろう」と完全に落ち込みました。 (中略) そもそも、差別と戦うという自分たち自身が、他の立場の人を無自覚に差別しているとしたら、そんなの信用できるわけないじゃないですか。

from 生田氏による発言 『フリーター論争2.0』P-144〜P-145