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『フリーターズフリーvol.01』の感想

労働問題 雑記

フリーターズフリーvol.01』を読み終える。最も印象に残ったのは、杉田氏による「無能力批評」。とりわけ、「自立」という概念について語る杉田氏によって引用される「釜ヶ崎での夜回り」のエピソードに何ともいえない重苦しい衝撃を受けた。

「なぜこのようなエピソードが挿入される必要があるのだろう?」と思い、何度も何度もこの箇所を読み返してみたのだが、いまいち理解することができない。

そのため今回は、私の頭を整理するためだけに、文章を書いてみることにする。

問題となっている「釜ヶ崎での夜回り」のエピソードとは、以下のようなものである。

三年ほど前、釜ヶ崎で夜回りに参加し、天王寺方面の商店街で路上生活のおっちゃんにお祭りの無料チケットを渡そうとした時、おっちゃんはそれを拒み、「俺はまだ金に余裕があるから。自分で貯めてる。炊き出しに頼る連中はまだ甘えてると思うんだよ。第一、野宿者の中にももっと悲惨な人達がいてさ、障害者だよね、それと広島で被爆した在日の人とかさ、いるんだよね、ああいう人がほんとに犠牲者なんだよね」と、聞き取り辛い声で、不気味な迫力で訥々と俺達に語り続けた。俺はその声の低い淡々とした調子を「野宿者には自己責任論に囚われた人も少なくない」という一般論に切り詰められるとは思わない。今もこの国のどこかでおっちゃんは呟き続けているのかもしれん、自分がこうなったのは自分のせいであり誰のせいでもない、だからこれ以上何も言いたくない、いやはっきりいえば、このわたしを助けたがる善意の手こそが最後にわたしの尊厳と魂を殺すのだ、路上で苦しみ餓死していくわたしの最後の沈黙と自由を君たちは絶対に汚すな、と。

form 『フリーターズフリーvol.01』P-49

杉田氏は「路上生活者のおっちゃん」の語りを、「自己責任」という言葉に回収されるべきではないものとする。では一体杉田氏はこのエピソードを持ち出して何が言いたいのだろうか? 「「自分の生き死にを自分で決めたい」という個人の意思を尊重しよう」などという、当たり前すぎることをわざわざ言うために、このエピソードが持ち出されているとは考えにくい。

分からない。このエピソードの前後の文章を何度も読み返すが、分からない。この「分からなさ」を押し殺してページをめくっていくと、やがて次のような文章に遭遇する。

尊敬の気持をもって餓死していく他者の自由を見守ること。死にゆくわたしをどうか見捨てて、と親密な他人たちをすら最後の愛で突き放すこと。その切断=永久凍土の激痛を通過しないままで語られる分配やら贈与やらのオシャベリには、俺は我慢がならない。

form 『フリーターズフリーvol.01』P-52

もしかしたら杉田氏は、生活保護に代表される福祉制度の整備拡充以前に、我々が満たさなければならない条件としての「自立」について思考しており、単なる「ちょうだいちょうだい」という受身的な態度を戒めているのであろうか?

杉田氏の文章は私にとって非常に難解である。言い回しが難しすぎるのである。杉田氏が言わんとしていることを私は正確に受信できているのかどうかあまり自信がない。

しかし、『フリーターズフリーvol.01』の巻頭セッションにおいて、杉田氏は下記のように平易に語ってもいるので、「無能力批評」における「釜ヶ崎での夜回り」のエピソードを、私が上記で行ったように解釈しても、問題はないのではないかと思う。

杉田氏は、リバタリアニズムの思想を巡る生田氏との会話において、次のように応答する。

生田:でも、政治思想としてのリバタリアニズムは、最低限の生活保障は否定しないし、救急車もいらないとか、そういうことはいわないでしょう。

杉田:ただ、極端な人はそう言いますよね。リバタリアニズムを本気で徹底していけば、そうなると思うんですよ。年金ばかりか医療制度保証もいらないと。救急車も自己責任ですよと。例えば餓死寸前の状態に置かれたとして、同じく飢えた他者が自分の力で食料を手に入れるんだけど、その人から食べ物を分けてやると言われてもその手をはねのけるような、そういう極端な感覚の人ですよね。僕はそういう奴はすごい、自立のリミットがそこにある、とやっぱり思う。餓死する自分を頼むから見捨ててくれ、と

form 『フリーターズフリーvol.01』P-37

上記における太字は、この箇所を強調するために私が勝手に設定したものである。この箇所から私は、「杉田氏は「自立」を、傍から見れば過剰としか思えない形態のものとして捉えていること」を理解した。理由は単純である。杉田氏が「すごい」という言葉を用いているからである。この感嘆の言葉に、杉田氏がリバタリアニズムという思想を徹底するような人間に、憧れを抱いていることが見て取れる。

さらに私は、杉田氏自身のブログにおいて、次のような発言を発見した。

杉田のベーシックな感覚は

《人は自立しなければ生きる価値がない」(自由の課題)。「人はたんに生きているだけでよい」(生命の価値)。前者は正しい。後者も正しい。しかし両者は矛盾する。どういうことだろう》

というアンチノミー(矛盾)をいかに螺旋状に深化していくか、にあり、ぼくの中には極端な内なる自立欲望(自己批判)があると同時に、「自分がある幸運な状況のなかに生きているということを、基本的に肯定的に考えている」という感覚もまた、深く根付いているようなのだった。*1ウーマンリブ田中美津はそれを「取り乱し」と呼んだのだと思う。

1:追記。知的障害児者とその家族に関わるlessorさんのスタンスもそうだけど、あるべき理想的な「支援者」の態度とは、絶対に次のようなものだ、とぼくは思う。《私は、あなたがダメな人間かどうか知らない。どれだけ努力してきたかも知らない。しかしどんな人であろうとも、「生活困窮状態」に放置されるべきではない。どんな人間であろうとも、生きているだけであなたにはそれだけの価値がある。それが「人権」ということだ》(湯浅誠生活保護申請マニュアル』76頁)。このような絶対的信念を言い切ることが、今のぼくには出来ない。以前、パルクのイベントで湯浅さんとご一緒させて頂いた時、ぼくは自分が恥ずかしくて仕方なかった。今もトラウマになっている。

from http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070718

杉田氏は「ぼくの中には極端な内なる自立欲望(自己批判)がある」と明確に記している。

そしてそのうえで追記において、「あるべき理想的な「支援者」」として湯浅氏に言及し、彼の発言である「私は、あなたがダメな人間かどうか知らない。どれだけ努力してきたかも知らない。しかしどんな人であろうとも、「生活困窮状態」に放置されるべきではない。どんな人間であろうとも、生きているだけであなたにはそれだけの価値がある。それが「人権」ということだ」を取り上げ、これを自分は言い切ることができない、と述べている。

杉田氏は、自分をも含めて人は「自立」しなければならないと考えており、彼が念頭にしている「自立」の形態は、「リバタリアニズムの徹底された極端な形のもの」と言えそうである。

このような感想を述べることは杉田氏を侮辱することになるのかもしれないが、私はこのような「自立」の在り方は、悲しくおこがましいと思う。

この「自立」は、「自己責任」とは明確に異なる。前者は猛々しく能動的な精神を想像させる。一方後者は弱々しく受動的な精神を想像させる。しかし、私はどちらも否定したい。どちらも、窮屈で偏屈で、「全てを自分一人でコントロールできるものとする誤った認識」に基づいている。世界を、自分とそれ以外に分断しすぎである。そのうえ、自分の力をあまりにも過信しすぎである。

この「自立」と「自己責任」が共に行きつく先は、餓死ではないだろうか。

釜ヶ崎での夜回り」のエピソードに対する「分からなさ」を解消するつもりで書いてきたエントリーだが、なんとなく分かったような気になってきた。

しかし私は本当に分かることができたのだろうか。心配である。

引用・参考文献

追記

「この「自立」と「自己責任」が共に行きつく先は、餓死ではないだろうか。」と書いてみたのだが、やはりこの形態の「自立」には、私も「すごい」と憧れてしまうものがある。悲しくおこがましいが、孤高で格好いいとも思う。

しかし実践はしたくない。この「自立」の精神には学ぶべきところが多々あるのだけれど、自分の力だけではどうにもならない時には、私は他人に助けを求めたい。なぜなら私は弱いから。