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『フリーターズフリーvol.02』の感想

労働問題 雑記

フリーターズフリーvol.01』に引き続き、『フリーターズフリーvol.02』を読み終える。

今の私にとって最も重要だと思われる箇所を、下記に引用する。

行政権力が貧困の当事者を支援の対象と見做すとき、それまでの生業や努力の在り方が徹底的に否定あるいは無視されることがある。行政権力は、貧困の中で”非正規”の営みにより生活することを「自立」と呼ばずに、貧困から脱出することを「自立」と呼ぶ。(中略)
しかし、貧困の裏側には大抵必ず”非正規”の自立がある。”非正規労働”を継続しようとする意志の背景には、何らかの非経済的な動機が存在する場合がある。それは社会正義の追求かもしれないし、自己の尊厳を保とうとするギリギリの選択かも知れない。支援以前の問題として、今まで行政権力が認知しようとしてこなかった、現時点までにおける生業や努力の在り方そのものを絶対的に肯定することなしに、その当事者個人の人格を尊重することはできない。
いつも優しい笑顔で私にヤシ酒を飲ませてくれ、私のカメラを見るとカラフルなサリーでお洒落し始めるチャランパーレムのあるお茶目な村人が、そのときだけは険しい顔で断言した。「政府なんか信用できない。私たちは森がなければ死んでしまう」。実は、村や周辺の森林は巨大ダム建設計画の水没予定地に入れられていて、州政府は貧困緩和施策とセットで移住場所を用意していると広報したときのことだ。一方、今は亡き、ある公園野宿者が繰り返し訴えていた。「われわれ一人一人が廃品回収業社の社長なんだ」。いずれも現時点での自分自身の在り方を肯定した言葉である。何という気高さだろうか。
このように私が考えるのは、大阪市長居公園で野宿者たちが建設したテント村で、そこに起居したり出入りしたりする仲間たちと交流した経験によるところが大きい。テント村に出入りする非野宿者は、一般的に「支援者」と呼ばれることが多いが、「野宿を強いられている現状を何とかするために何か支援できることはないだろうか」などと考えて出入りしていたのではない。ただ単にテント村に遊びに来て仲間入りしていただけである。この「支援者」たちは、無前提に野宿は脱却すべきものであるなどという価値観を持っていなかった。無前提に畳の上に上がるための支援をしようなどとは全く考えていなかった。ただ単に、目の前にいる人間の存在を、ありのままに絶対的に肯定していた。この姿勢こそが、貧困問題に取り組む上で最も重要でありながら、行政権力には完全に欠落している。(綱島 2008:245-246)

上記文章の筆者である綱島氏は、少数民族のコヤ族が多く住む南インドのチャランパーレム村に滞在したことがあるという。この人物についてネットで検索してみたところ、人類学者を多く輩出している某大学院に在籍していることが分かった。おそらくこの方は人類学関係者と思われる。

これまで人類学が研究の対象としてきた「民族」の人々と、現代日本の都市における公園や河原で生活する「野宿者」の人々を、「彼ら独自の生き方・自立の仕方を否定される存在」として併記している点に、私は可能性を感じた。可能性とは、「野宿者」の存在の在り方を、「文化」という超極力なマジックワードで擁護できるかもしれないという可能性である。

私の知り合いの野宿労働者には、ゴミ捨て場に捨てられた物品を夜間に回収し修繕したり分別したりして販売している人たちがいる。決して楽な仕事ではないが、社会的な意義のある仕事だと思う。しかし、このような廃品回収業を行政権力は認知しようとしないし、世間一般は労働とすらみなさない。いわば究極の”非正規労働”である。都市における廃品回収業以外にも、このような”非正規労働”で生計を立てている人びとは世界各地にいる。日本の野宿労働者と同様、かれらの生業の実態は見えにくいために、しばしば誤解され、貧困緩和施策に依存している無気力な存在などという烙印を押される。
本稿で紹介するインドの少数民族もそのような扱いを受けてきた。かれらの大部分が狩猟採集や小規模農業、日雇農業労働などの”非正規労働”で生計を立てている。(綱島 2008:235-236)

「民族」の人々の在り方を、「文化」という言葉*1を用いて擁護する人類学的な作法を、「野宿者」の人々の在り方を擁護する際に、利用できないだろうか?*2


フリーターズフリー vol.2 (2)

フリーターズフリー vol.2 (2)

*1:■この「文化」という言葉はいかがわしい言葉のひとつである。「文化って何ですか?」とひとたび素朴に問われたならば、納得をもたらすに足るそれなりの量の情報を開示しなければならなくなること必至である(「文化」という言葉のいかがわしさとその説明の面倒くささについては、M・はまによる右記の論考を参照のこと。http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/fragmentary/culture.html http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/fragmentary/obculture.html http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/fragmentary/culture2.html ) 「文化」なる概念について解説することは、できれば避けたい作業であるため、「文化」という言葉をむやみに用いることは避けたほうがよいと考えられる。■しかし、である。「文化」という言葉は人口に膾炙しており、その使用方法・言い回しは既に市民権を得ている。なので、「文化」という言葉は、その場にいる人間の思考レベルに合わせて利用していけばよいと私は考えている。使い勝手の良い万能の呪文を徒に手放すのは不毛な行為である。■ところで、「文化」という怪しげな言葉と似たようなものとして、他にも「宗教」や「愛」、「リアリティ」や「自立」という言葉がある。自明なものとして頻繁に使用されるわりには、あらためて考えてみると、一体何を意味しているのかよく分からない言葉は多い。■とはいえ、違和感を感じながらも日常生活において使用しているうちに、だんだんとその違和感は減じられていくものである。「思考停止」として批判されかねない状態であるが、いちいち自分が使用する言葉の意味を厳密に定義しながら会話する人間は、不自然で病的である。研究者と呼ばれる人間の多くは、あえて不自然で病的な行為に手を染めるが、彼らとて彼ら自身が使用する全ての言葉を厳密にチェックしているわけではない。日常生活や論文生産活動に差し障りの出ない程度に、適度に手を抜いているはずである。例えば、「愛とは何か?」というような問いを研究においてだけでなく、日常生活上でも頻繁に立ててしまう人間は、不幸な人間である。いつも難しそうな顔をして過ごさなければならない。■何事も適当が大事である。バランス感覚が重要である。「言葉の意味のチェック作業」は、場に応じて適度に行えばよいと思われる。

*2:例えば、沖縄在住もしくは北海道在住の「野宿者」についてであれば、彼らをそれぞれ「沖縄先住民」「琉球民族」、「アイヌ」という集団の成員と捉えて、その生活形態を「彼らの文化」として擁護することができるかもしれない。いわゆる戦略的本質主義的に、「先住民」や「民族」という言葉を用いて、彼らの生き方を正当化できるかもしれない。しかし、それ以外の地域における「野宿者」については、このような戦略的本質主義的な擁護を行うことは難しいと思われる。それ以外の地域においても、「先住民」や「民族」という言葉を付与することを認めざるを得ないような、「はるか昔からそこでそのように存在していた人々」に関するリアリティを、立ち上げることができない限り。