エリクソンのテクニック2

ひとつの事例。

エリクソン:(中略)相手が敵対的な患者なら、あんたは馬鹿かって返してくる。そのとき、もしこっちがこう言ったらどうなるんだろうね? 「あのう、私は自分が馬鹿だって知っているんですけど、あなたがそれを知ってたとは知りませんでした」って(笑)。君たちならどうする?
ヘイリー:これは、喜んでワンダウン・ポジションを取るということ?
エリクソン:でもワンダウンじゃないよ、わかるでしょ?
ヘイリー:ワンダウンであるためには、防衛的である必要があります。
エリクソン:ワンダウンであるためには、防衛的である必要があるよね。こう言うと彼らはすぐにこちらを、相手にとって不足はないとみなしてくれるよね。1時間かけて説明するよりも、よっぽど良くないかい? 彼らは足元からカーペットをグイッと引っぱられたんだ。大の字に倒れる感じがして、全くのお手上げ状態、完全にされるがままなんだけど、でも彼らはこちらに対して攻撃されたと噛み付くことはできないんだ。
ヘイリー:患者がすでにやっていることを取り上げて、それを続けるようにとけしかけて、突然それがなんか違ったことになってるっていうのは、とてもトリッキーですよね。
エリクソン:うーん、でも「あんたは馬鹿か」ていうのを取り上げて、「私は知ってたけど、あなたがそれを知ってたとは知らなかった」って返す。するとね、「あんたは馬鹿か」っていう非難はどうなるんでしょう?
ヘイリー:どうなるのか、わかりません。
エリクソン:もはや非難じゃない、そうでしょ? 彼らからすると、これは、私のことを優位な、ワンアップ・ポジションに押し上げる言葉になってる。言葉は同じ、意味も同じ、でも……
ヘイリー:彼らの理解に対するコンプリメントに変わる。
エリクソン:彼らの理解に対するコンプリメントであり、しかし私をワンアップに置く。(ジェイ・ヘイリー 2001:86-87)

「あんたは馬鹿か」という物言いに対して、「あのう、私は自分が馬鹿だって知っているんですけど、あなたがそれを知ってたとは知りませんでした」と返答することが、相手の理解に対する賛辞になることは理解できる。しかし、このような返答を行う者がどうしてワンアップな立場に置かれることになるのかが分からない。

エリクソンは、相手の言葉が依拠する文脈を、別の文脈にすりかえているのか? お互いにとってより恵みをもたらすような形の文脈の召還。

エリクソンは故意に、クライアントとのやり取りにおいて、「蒟蒻問答的状況」を作り出しているように見える。相手の言動は、様々な文脈上で把握することが可能である。そのように理解したうえで、お互いにとって最も好ましい形態の文脈を導入すべく、相手の言葉に対する返答に工夫をする。ということか?

別の事例。娘に依存的な両親。彼らは、大学生になった娘の週末の過ごし方を監督するだけでなく、娘と結婚するであろう男性のために、自宅に部屋を作り、娘とその夫が住めるようにさえした。そんな過保護な両親へのエリクソンによる対処法。

エリクソン:彼らは本当に、彼女が連れてきた夫の人生も含めて、娘の人生を管理しようとしたのです。予想される娘の恋愛、予想される婚約、予想される結婚に備えて、彼らが部屋を作り家具を入れ始めたとき、私はアプローチしました。その線で行くというアプローチ。私は娘の妊娠を予想してあげました。そして娘の出産。孫の泣き声。孫が歩き始めること。そして、来たるべきおばあちゃんに向かって、おじいちゃんは孫に対する理解が乏しいだろうという私の予想を提示しました。そして来たるべきおじいちゃんに向かって、おばあちゃんの理解不足を私は予想しました。結局のところ、実際に娘が結婚したとき、二人は、娘はツーソンで暮らしたほうがいいんじゃないかって言い出したんですよ。(中略)
ウィークランド:お互いをコントロールするようにされたのですね。
エリクソン:そして彼らの孫と娘と娘の夫に対して、大きな喜びを感じるようにね。そういうふうにもっていったんです。(中略)
ウィークランド:繰り返しますが、先生は同じ線で行って、その線を乗っ取ったんですね。
エリクソン:はい。私は彼ら以上に掘り下げてそのことを考え、過度に心配性のおじいちゃんおばあちゃんに必要なものを建てられるように、綿密に援助してあげたのです。
ヘイリー:でも本当は、先生はある種の置き換えをしてるわけでしょ? 「父や母」から「祖父母」という考えへの。
エリクソン:その通り。でも筋の通った置き換えじゃない?
ヘイリー:ええ。
エリクソン:だって親は永遠に親でいることはできないんだから。新米の母親は、どんどんどんどん歳とった母親に変わっていかなきゃいけない。でも彼女に、あなたは変わらなくちゃいけないとは言えないでしょう。
ヘイリー:で、母親がある日道を歩いていて、「私はこの娘を抱え込んでいて、私がこの娘を手離さなかったんだ」と気づくことは、全く先生の目標じゃないんですね?
エリクソン:うーん、それは嫌な考え方ですねぇ。それは彼女の罪を大きくしてしまうことですよ。
(中略)
エリクソン:(中略)家を増築したことに関して、彼らは罪悪感を感じなければいけないのか? これによって彼らが歳をとって祖父母になったとき、二つの選択肢ができたんですよ。一つは、娘やその夫や孫がしばらくこっちに来たいと言ってきたときのためにとっておく。あるいは、その部屋を貸して収入を得、娘や孫のために財産を残す。だからどうして増築したことに、彼らはそんなにひどい罪悪感を持たなくちゃいけないの? これは全く健全なことじゃない。実際彼らは今それを貸しています。そのことを罪に感じなくちゃいけないの? 君も私も、その増築された家を見に行けますよ。そして、この親はなんて恐ろしいことをしでかしたんだろうと考えることもできますよ。この娘はなんて無力な付属物なんだろう、権利も特権もない、その未来は完全に指定されている。そしてその明白な証拠がここにあるっていうふうに想像たくましくすることもできますよ。われわれは、それをひどいものと見ることができます。でもこの両親は、それをとても素敵な収入源と見ることができるんです。そのおかげで貯金が増え、そのお金はたぶん孫の教育費に充てられるんでしょう。さて、どっちがいいですか? 罪悪感を持つことは必要ですか? 私は、救済というのは苦痛を通してのみなされるものだとは思いません。(ibid 57-59)

娘を管理したがる両親に、「祖父母」という役割を受け入れさせたうえで、「あなたがたのうちの一方は、孫に対する理解が乏しいだろう。」という情報をそれぞれに与え(おそらく別々に)、お互いが孫に関しては対立するようにあらかじめ仕組んでおく。

娘とその夫だけなら彼らの自宅に住まわせようと考えていた両親は、エリクソンの仕業により、孫という予想だにしなかった要因を考慮して思考せざるをえなくなり、結局、娘夫婦を自宅に住まわせるという考えを自発的に放棄する(「孫に関しては相手は理解が乏しい」というエリクソンによる先行情報が、もしかしたら両親のうちのどちらかから提示されたであろう「孫も一緒にあの部屋に住まわせよう」という提案に対する反対意見を、引き出したのかもしれない。)。

両親の思考を彼等よりも正確に深く把握し、それを極端に敷衍して、孫という要因を導入することにより、「孫中心の祖父母的思考」への移行を両親に促し、まんまと娘を過保護な両親から脱出させることにエリクソンは成功している。そしてそれを、両親に罪悪感を一切感じさせずに成し遂げている。

かなり胡散臭くてよく出来すぎの話であるが、素晴らしいテクニックだと素直に思う。