とあるシンポジウムの反省会にて

「国家は必要です。いくら否定したいものだとしても、複数の人間が集い、意思決定を行って生活し、身を守りながら生きていくのだとしたら、彼らは結局は国家の形態を採用せざるを得ない。もちろん、国家においては、マイノリティへの差別等の問題はなくしていくべき。」

国家論を専門分野のひとつにしている社会哲学者の言葉に耳を澄ませたあの反省会から、約1週間が過ぎた。

とあるシンポジウムの主催者達が催した酒の席に、たまたま居合わすことができた私は、議論には全く参加せず、ひたすら聞き耳を立てていた。そして、「違和感を感じる箇所はないか」と、目の前で展開される語りをひとり静かに吟味していた。

国家の重要性を繰り返し強調する社会哲学者の話に、「本当にそうか?国家などという大仰な機構を作らずとも、熱帯雨林を移動して生活しているピグミーの人々や、国家に所属せずに海上で独自の生活を続けている人々もいるのではないか? 徴兵制とは関係ない生活を現に生きている人たちは考慮に入っていないのではないか? 「国家は必要だ」という主張は、彼らには当てはまらないような気がする。」と心の中で勝手に応答する。

しかし、同席していたキュレーターが挙げたユーゴの事例には、暴力あるいは武力を備えた国家というものの必要性を、感じずにはいられなかった。キュレーターは次のように語った。

「クーデターの成功による国家の消滅後、マフィアへの献金が市民によって盛んに行われました。人々は、身の安全を確保するために、マフィアを頼らざるを得なかったのです。確かに国家には、治安を守るという側面があって、国家がないと困るという言明には同意できます。国家がなくなった場合、その代替物が必ず必要になってきます。」

「分かります。つまり、国家なきあとの世界は、『マッドマックス』とか『北斗の拳』のような世界になるということですよね。」

社会哲学者とキュレーターの話を分かりやすく要約するようにして、アメリカ帰りの人類学者が発言した。

「そうです。暴力を制御するために国家は、個々人から暴力を奪い、自ら暴力をもって平和を実現させる。人間は暴力の問題を避けては生きてゆけない。その暴力を制御する最も優れた仕組みが国家ということ。」

相槌を打ちつつ、社会哲学者は再び持論を繰り返した。

「なるほどそうかもしれない。国家がないと困るかもしれない。常に戦争状態が続いているような、万人による万人の闘争状態は嫌だ。暴力を個々人から奪い、その行使権限を国家に独占させることにより、国家内における暴力を抑圧し、万人による万人の闘争状態を回避する。この仕組み自体には文句はない。」

頭を整理しつつ私は、上記のように納得した。

しかし、いまひとつ腑に落ちない点もある。具体的には以下のような疑問がある。

「では、実際にマイノリティへの差別はどのようにして解決されていくのだろうか? そもそも、そのビジョンは、国家にあるのだろうか?」

例えば、沖縄の米軍基地は、日本という国家の安全を確保するために存在している*1。日本本土が米軍の武力で守られる代わりに、沖縄では米軍がらみの様々な事件が発生している。女児のレイプやヘリの墜落など、そのような事件は枚挙に暇がない。日本という国家が、今後も沖縄という犠牲を前提にして成り立つものであるなら、「国家などいらない」と考える沖縄の人々がいても、全く不思議なことではない。国家の必要性を訴える人間は、国家に疑問を持つこのような人々を、どのように説得するつもりなのだろうか?

今後また会う機会があれば、社会哲学者に質問してみようと思う。

*1:しかし、そもそもこのような見方に問題があるとも言えないだろうか? 米軍基地がもたらしたものは、沖縄にとって、マイナスとなるものばかりなのであろうか? 沖縄も、それなりの犠牲を払いつつではあるが、米軍に守られているとはいえないだろうか? もしも米軍基地が日本から全て撤去され、憲法9条通りの世界が現実化すれば、たちまち日本と沖縄は他国に攻められ、占領されてしまうのではないか? それに、米軍なきあとの沖縄に、たとえ日本軍が代わりに駐留することになっても、結局女児のレイプ事件やヘリの墜落事件は発生するのではないか? 仮に、沖縄が独立して、独自の軍隊を持つことができたとしても、兵士による女児のレイプ事件やヘリの墜落事件は起きるのではないか? 米軍基地が一方的に悪いのではなく、暴力から身を守るために身につけた暴力は、必然的に他の暴力の問題を引き起こすということではないのか?