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イキガミ

会社から帰宅がてら、近所のブックオフで『イキガミ』を立ち読みした。1巻〜6巻まで1時間かけていっきに読み通した。

「死」の意識化により輝きを取り戻す「生」。いわゆる「生命の尊さ」を知らしめ、精一杯生きることを国民に促し、結果として国家を繁栄させるために成立した「国家繁栄維持法」により、20代前後の年齢時に心臓付近で爆発するカプセルが1000分の1の確率で含まれた注射の接種を国民に義務付ける世界。そしてカプセルが注射された人物に届けられる「死亡予告証」。この、通称「イキガミ(逝紙)」と呼ばれる通知書を巡り、様々なエピソードが展開される。

最も印象深かったものは「介護士の話」であった。

「介護士の話」では、「イキガミ」と「赤紙」との類似性があからさまに描かれている。「イキガミ」を受け取り、24時間以内に死亡することが判明した介護士と、本当は歩行可能であるにも関わらず自ら歩くことを拒否してしまった老婆との交流。若い頃に赤紙で召集され、生き別れとなった夫を、老婆は介護士に重ね合わせ、そして慕う。そのことを利用して介護士は老婆に「ひとりで歩く」ように諭す。介護士は今まさに戦地に赴かんとする若い頃の夫として老婆に映る。死を目前に控えた介護士による一種のトラウマ療法だったのであろうか。老婆は再び歩き始める。

「介護士の話」においては、国家を守るために戦場に向かう兵士の姿が、美しく描写される。介護士を前にした老婆の目に映ったのは、愛する家族や恋人を守るため、すなわち国を守るために出兵しようとする夫の姿であった。

確かに、そういう人々もいたのであろう。愛する者を守るために自らが犠牲となる。あの頃確かに、そのような献身的なあり方を体現した青年達もいたに違いない。彼らの姿は非常に感動的である。自分よりも他者を思いやるその姿は誠に神々しい。

しかし、あまりにも悲しいとは言えまいか。戦争に協力しなければ、非国民と罵られ、村八分状態にされる状況が成立していたこと。たとえ自己犠牲的な志を持った兵士が一部に確実に存在していたとしても、このような「有無を言わさず戦争に協力させようとする空気」が醸成されていたならば、手放しには感動できない。

「この戦争は、本当に命をかけるべき戦争なのだろうか? そもそも戦争する必要はあるのだろうか? 大東亜共栄圏八紘一宇などのスローガンは非常に聞こえは良いが、本当に日本は戦争をする必要があるのであろうか?」と疑い、このことを口にしようものなら、即刻逮捕されるような状況は異常である。冷静に議論が行える状態とは言い難い。

しかし国家とは、結局のところ、異常な空間なのであろう。誰がどのように美化しようとも、学校とは国民を養成する機関であり、国民は将来、国家に税金を納める労働者になることを要請される。そして、しばらく前までは、戦争に参加することを国家は国民に強制さえもした。国民とは常に国家によって働かされる存在であり、働くことを自発的に選択するように誘導される存在である。

何かのために自己犠牲的に動く国民を国家は求める。働くのは誰のためか? 愛する家族や友人のためであれば、国家は喜ぶ。無理やり強制されてそのように発言させられているなどとは、口が裂けても言ってはいけない。国家はこのようなわがままな人間を最も嫌う。自分のことしか考えていない利己的な人間として軽蔑する。

現在の日本という国家は非常に特殊だ。まず、徴兵制がない。国家の安全を他国の軍隊に保障*1してもらっている妙な国である。その代わり、他国の軍隊は特権的な身分を与えられる。南の島でやりたい放題である。多少犯罪行為を犯したり、事故を起こしたりしても大目に見られる。南の島の人々にとっては迷惑な話である。おそらく国家としては、南の島の人々が自己犠牲精神を発揮してくれると好都合なのだろう。

とはいえ、たとえ自国の軍隊だけで国の安全を守る体制が日本に整ったとしても、全然安心できない。またあの大戦時のような思想統制状態が復活する可能性が高いからである。

つまりどっちみち、お先真っ黒である。

国家とは、死ぬことを国民に要請する。我々は当分、このような仕組みのもとで生きなければならない。このような国家のもとで幸せに生きるためには、どうすればいいのだろうか。

もしかしたら心の底から、自己犠牲的な精神の持ち主になれたならば、幸せなのかもしれない。死が快楽になるような境地があるのかもしれない。傍から見れば騙されている、のせられているとしか思えないような在り方を体現できたほうが幸福なのかもしれない。

そうであれば国家は、このような国民を首尾よく作るべく、思想統制や洗脳の技術を磨くべきではないだろうか? 国民の幸せを実現させることが国家の務めであるならば、中途半端に夢から覚めた人間が出現しないように、国家は徹底して情報操作を行うべきではないか? すなわち、外部の視点やメタな視点が持てないような環境を、意図的に作り出す努力を国家は行うべきではないのか? 「自分は騙されているのではないか?」「周囲は思想統制されているのではないか?」「我々は洗脳されているのではないか?」という疑いがまったくわかないぐらいに周到に、国家は国民作りに精を出すべきではないだろうか?

「愛する者のために私は死にに行く」という記述のもとで己の言動を捉えることのできた兵士は、おそらく幸せだったに違いない。周囲は悲しんだかもしれないが。

イキガミ』を読んで、このようなことを考えた。

*1:守ってくれるかどうか実はかなり怪しいのであるが。。