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公園で野宿する権利、貧困ビジネスで回る日本経済

 なぜ、野宿者は公園で野宿するのか。人が生きるためには、この地球上の一定面積を起臥寝食に利用せねばならない。この利用機会が奪われれば、人は生存できない。つまり、一定面積を起臥寝食に用いる権利は不可譲の自然権として承認されねばならない。だが、ほとんどの土地が私的に所有され、所有権や賃借権などをもつことができない人々は、誰もが自由に利用できる公共施設を起臥寝食に用いる以外にない。野宿者が公共施設を私物化しているとの非難は、この根本を誤解している。野宿者が、公園にテントを張って生活できているのは、そこが公共施設であるからであり、公共性こそが、野宿者の生存を支えているのである。また、野宿者は、この公共性を否定していない。公園を私物化する発想は彼らにはない。常に、誰でも利用できるから自分も利用しているのであり、自分が他者の利用を制限する権限などもたないことを十分理解している。
 他方、公園を散歩に使うのに野宿者が目障りだから、野宿者は出て行くべきだと言う人々がいる。これは、散歩という私的な目的のために、誰でも利用できるはずの公園を私物化する論理にほかならない。公園からの野宿者強制排除は、公私の論理の転倒に基づいているのだ。(笹沼 2008:19)

 「コモン・センス」を著し、アメリカ独立革命のイデオローグとなったトマス・ペインは、『土地配分の正義』(一七九四―九五年)のなかで、そもそも土地は「人類の共有財産」であり、人類の一員である誰もが平等な利用権を有していたにもかかわらず、土地の私有財産制度が確立したために、住民の多くが自然権的相続権としての土地の利用権を剥奪され、貧困や悲惨がつくりだされたのだと批判する(一六一頁)。そして、「所有権を横奪された人々」の権利を擁護し、彼らの権利を補償するための国民基金の創設を提言する。この基金による給付は「慈善ではなく権利である。つまり博愛ではなく正義である」と断言する(一六八頁)。
 土地私有制度、つまり資本主義秩序の基礎の確立こそが、多くの人々の自然権的権利を剥奪したのだから、彼ら持たざる者への補償は社会、国民全体の責任だというのである。現在ベーシックインカム論の先駆として評価されているペインの主張は、生存権保障の基礎づけとしての意義を有するだけでなく、土地所有制度により居住する自由を奪われた人々の権利とその補償制度の正当化の議論となる。(笹沼 2008:226-227)

 T・ペイン「土地配分の正義」(『近代土地改革思想の源流』御茶の水書房、一九八二年、所収)。ペインの議論は、労働により土地所有を正当化するジョン・ロックへの批判である。ペインの主張を徹底すれば先住民の土地簒奪により成立したアメリカ合衆国の正当性自体が揺らぐのは皮肉な話である。(笹沼 2008:252)

  1. かつては食料の宝庫であった森や川や海などの土地を破壊し、人々を、工場や会社に従属して生きる存在として変えたもの。それがいわゆる資本主義社会であるならば、その趨勢を支援し方向付けた者達は、工場や会社に従属することを拒否する人々が、かつてならば森や川や海から得られた食料を、彼らに補償する責任がある。と言い換えることができそうだ。
  2. しかし、もしも土地の私的所有が全面的に禁止されたら問題も発生するのではないか。赤の他人が自分の家に「おらー。土地は誰のものでもないのだー。」とか言ってどかどかと入ってきたら、それは嫌だ。それとも、「土地の所有」の話と、「プライバシーの権利」の話は別々に考えるべきか。

ホームレスと自立/排除―路上に“幸福を夢見る権利”はあるか

ホームレスと自立/排除―路上に“幸福を夢見る権利”はあるか

「(中略) いじめは、子供や若者たちのコミュニケーション能力が下がって、人間関係が希薄になったから起こっているのではありません。逆に、コミュニケーション能力がここまで要求されて、何らかの緊張緩和がなされないと場を維持することができないから起こっている。そこで実践されているのは、空気を読んで、相手の出方を先回りし、まわりに配慮しながら場を壊さないようにする、という高度なコミュニケーションです。僕は大学卒業後、フランスに留学して八年ほどパリに住んでいたんですが、日本人がむこうでフランス人と話すと浮くんですよ。どうしてかというと、気を遣い過ぎるからです。たとえば過剰に笑みをたたえていたりとか。「この場の空気はなごやかですよ」ということを演出しようとしたり、場に緊張感やコンフリクトが生まれないよう過剰にまわりに同調したり、相手が不愉快にならないように気を遣い過ぎて、逆に空回りしてしまう。そうやって気を遣い過ぎたり、空気を維持したりするのは、逆にいえば、他人と対立したときにその処理で傷つきたくないから、結局は自分を守ることでもあるんですよね。それは、恥をかきたくないというような意識ともつながっている。」(萱野 2008:31-32)

「空気を読んで、まわりに過剰に同調するというコミュニケーションのあり方って、いいかえるなら、それだけ人びとが他者との関係に依存しないと自分を維持できないってことをあらわしていますよね。他者から否定されたら自分の存在を支えられなくなるからこそ、空気を読んで、まわりに自分の存在を受け入れてもらおうとするわけです。自分の存在が他者からの承認に依存している度合いがとても高い。他者とのあいだにズレやコンフリクトが生まれて、他者からうっとうしがられたり見切られたりすることを極度に恐れて、無理にでも他者に同調してしまうんです。」(萱野 2008:36-37)

「私はずっと他人からの評価でしか自分の価値を確立できないと思っていて、いまもそういうところがあるんですが、そういった他者からの承認とか評価なしで、自分の価値を証明できる回路というのはあるんでしょうかね?」(萱野 2008:37)

「やっぱり、人から認められることが、自分の存在価値を証明する一番の回路だと思いますよ。もともと人間って、自分の存在価値を自分では証明できないから、他者にそれを認めてもらうしかないんです。どうしても他者からの承認を求めてしまうんですよ。ただ、どれぐらい他者からの承認を必要とするかという度合いは、人によっても時代によっても違ってきます。おそらく、高いコミュニケーション能力が要求されるいまの社会って、その度合いが強い社会なんでしょう。そうした社会では、他者とのコミュニケーションのなかでそのつど自分の能力や価値を認めてもらわないといけないという圧力がものすごくあって、そうした社会の圧力にあわせて、個人のほうも「自分の価値を証明しなきゃいけない」、「他者に認められないといけない」っていう衝動に強くかられてしまうんです。」(萱野 2008:37)

「私も、自分病みたいな状態が長く続いて、自分の存在意義を得られなくては生きていけない、生きている意味がないとずっと思ってきました。それを得ようとして、得られなくて、そこにつまずいて自殺した人というのもすごく多い。この呪縛はいったい何ですかね。」(雨宮 2008:37-38)

「社会全体のあり方がそういう方向に突き進んでいますよね。みんながみんな有名になりたいって思うのも、モテることがここまで重視されるのも、そのあらわれですよね。いまや、モテないとすべてがダメみたいな勢いですから。」(萱野 2008:38)

「小さい頃から、好きなことや、やりたいことを仕事にして、それで自己実現しなさいといわれ続けるのも大きいですよね。そうでない生き方はよくない、そうできない人は負け組だ、みたいな空気がすごく強いような気がします。教育のなかでもそういわれてきたし、テレビなど普段接しているメディアにも、そういう圧力が満ちあふれていますよね。」(雨宮 2008:38)

「何らかの共同体に所属し、そのなかで認められたり必要とされたりするというのは、いまのコミュニケーション重視型の社会のなかでは一種のアジール(避難所)としての役割をもっていますよね。たとえば親子という共同体のなかでは、子供は何か特別な能力があったり、他の子供よりすぐれているから、親から認められたり必要とされたりするわけではありません。その親の子供であるという関係そのものが、子供に「無条件に認めてくれる居場所」というのを与えてくれる。共同体というのは、そうした「無条件に認めてくれる居場所」を、所属によって与えてくれるものなんです。これと対極にあるのが、いまのコミュニケーション重視型の社会です。そこでは、流動化した人間関係のなかでそのつど他人から認められる努力しなくてはいけない。流動化した人間関係のなかで他人から承認されるためには、たとえばイケメンだったりキレイだったり、トークが冴えていたり、あるいは他人にアピールできるような特別な能力や資格、ステイタスをもっていないといけません。つまり、最近よくいわれるコミュニケーション能力や人間力というものが備わることで、初めて人は他人から認めてもらえる可能性を手にするわけです。」(萱野 2008:87-88)

「承認してもらえるのは、一番大きかったですね。やはり不安定で貧乏で、明日の生活も知れないような状況で働いていると、なかなか承認は得られないですから。仕事では承認が得られないので、他に求めるしかない。もちろんお金にも求められないですよね。たくさんお金を稼ぐなんて、フリーターにはまず無理ですし。仕事の内容も単純作業で、誰にでもできます。取り替え可能で「おまえじゃなくてもいい」といわれるので、そんなものにアイデンティティなんかをもてません。そういう状況なので、フリーターをやればやるほど承認に飢えるという逆説的な部分がある。それがキツかったですね。」(雨宮 2008:89-90)

「「生きづらさ」って、つねに二つのレベルで生じるものですよね。一つはもちろん物質的なレベル。つまりカネがないということです。カネがないと何をするにも不自由だし、まともな衣食住を確保することだってむずかしくなる。先々の生活に対する不安をつねにかかえて生きなくてはいけません。もう一つはアイデンティティのレベルですね。つまり、社会からまともに扱われない、自分の存在を認めてもらえない、居場所がない、といった状態です。こちらのほうも相当つらいですよね。社会のなかで自分の存在価値をなかなか見いだせないということですから。そうなると、いきおい、自分をまともに扱ってくれない社会をうらんだり、さらには、自分の存在そのものを否定することに向かってしまう。(中略) こうしたアイデンティティのレベルと物質的なレベルがつねに混在しながら、「生きづらさ」がうまれてくるんですよね。」(萱野 2008:149-150)

「私もそう思います。私は九三年に高校を出て大学を二浪して、九四年くらいに十九歳でフリーターになりました。しかも時代は超就職氷河期。そういう境遇じゃなければ、絶対に政治運動や右翼とかにいかなかったと思いますもん。フリーターをやっていても承認されない。どこにも属していないし、どこからも必要とされていないし、どこに何を求めていいのかもわからない。本当におまえは必要とされていないという扱いだったので。アイデンティティや居場所というものに飢えていました。」(雨宮 2008:150-151)

フリーター、とくに日雇い派遣なんかは、基本的に使い捨てで、「おまえの代わりなんていくらでもいる」というメッセージをつねに浴びさせられるわけですよね。いてもいなくてもいいということは、つまり存在そのものが否定されているということです。」(萱野 2008:151)

フリーターは所属がなく不安定だというのがありますが、さらにいまは正社員のほうも、「代わりはいくらでもいる」と脅しをかけられて過酷なノルマを課せられ、ひどい状況なのに文句をいえなくさせられている。私は、大阪のヤマダ電機の研修について、二〇代の女の子から話を聞いたことがあります。彼女は正社員ですが、あまりにも厳しい研修で、その時点で体重が三〇キロ台に減ってしまった。研修が終わって仕事が始まったら、上司に蹴られたり殴られたり革靴で顔を踏まれたりというのが当たり前にあったそうです。同僚にノルマが達成できず、とくにひどい扱いを受けている男の子がいた。彼女が「毎日ボコボコにされているのに、なんで辞めないの?」って男の子に聞いたら、「自分のようなダメな人間を使ってくれるのはここしかない。雇ってくれるのはここしかない」って答えたっていうんです。本当に洗脳されている。」(雨宮 2008:151)

「体重が三〇キロ台になったなんてヤバすぎますね。たとえフリーターじゃなくて正社員だとしても、「おまえはダメなやつだ」というメッセージをつねに与えられることで、自己否定の感情がどんどん植えつけられていくわけですね。で、自己評価を下げてしまい、何にでも従順になってしまう。」(萱野 2008:152)

  1. 承認を必要としないですむような人間は、どのようにしたら育てることができるのだろうか? 承認など得られなくとも、堂々と淡々と生きていけるような存在。人間は承認を求めるという語り口には違和感がある。確かにそうなのかもしれないけれど、承認が得られなくても平気な人も、どこかにいるような気もする。もともと承認など得られなくても生きていられた人間を、承認を必要とするような人間に加工したものが存在するという可能性はないだろうか?
  2. 蹴られたり殴られたりしても会社を辞めないのは、自己評価が低いからだけではなく、「能力の低さを努力で補えない者は死ぬべきである」という努力至上主義がその個人に強固に内面化されているからではないか? 幼い頃から、優秀であることを期待され、努力してその期待にこたえ続けて育ってきたことにより、「いざ期待にこたえられなくなったときには、努力を怠った自分を責める」という思考回路が成立してしまっているのではないか? 努力型の真面目な人間は、人権侵害としか思えない職場に居続けてしまうという構図。
  3. もしも私が上司に蹴られたり殴られたりしたら、遠慮なく殴り返す。おそらく上司は上司で「もっと業績を上げねば!」と強迫的になっている可能性があるので、その洗脳を解いてあげる必要がある。しかし、入社一年目の頃は、このように考えることができなかった。私は努力型の真面目な人間であったから、自分に落ち度があると考えて、いくら理不尽なことをされても、文句が言えなかった。

「ただ疑問に思うのは、その結果、貧困層が増えて、結婚もできず、子供も産めず、消費もできなくなったら、内需拡大という点でも、税収アップという点でも、ぜったい国家は損をするんじゃないかということです。生活保護費の負担だって増えるだろうし。そのあたりは国家としてどう考えているんでしょうね?」(雨宮 2008:196)

「(中略) 町の商店や工場にお金を貸していた銀行は、バブル経済が崩壊すると、一転して貸し渋ったり、貸しはがしをするようになりました。不良債権がふくらんだ銀行はリスクを取るのをいやがるようになり、中小企業や自営業者など、信用度の低いところには貸さなくなったのです。で、銀行はそのお金をサラ金商工ローンに出資したんですね。そして、今度はサラ金商工ローンが、銀行に見放された相手に高金利でお金を貸す。銀行は出資するだけでリスクをとらない。(中略) 事業者は資金がないと商売できませんから、銀行が貸してくれなければ、商工ローンから借りざるをえない。そして、金利が高いからなかなか返済できず、借金が雪だるま式に増えていく。金利のせいで多重債務者にもなりやすい。さらに、サラ金からも借りられなくなった人は、もと金利の高い闇金から借りることになる。その過程で、厳しい取り立てにあって、一家心中や夜逃げをするまでに追い詰められてしまう人も少なくない。(中略) そうやってお金のない個人を借金漬けにして、消費や内需を支えたわけです。典型的な貧困ビジネスです。」(萱野 2008:199-200)

「銀行は税金をバンバン投入してもらって立ち直っているけれど、サラ金から借りた人たちはどんどん自殺しているわけですからね。お金のない人ほど金利の高いところで借りざるをえないですし。(中略)」(雨宮 2008:200-201)

「(中略) おそらく、先ほどの雨宮さんの疑問に対する答えの一つがここにありますよね。つまり、いまみたいに貧困層を増やす政策を実施しても、必ずしも経済は停滞するわけではなく、貧困層が増えてこそ成りたつビジネスもある。貧困ビジネス貧困層からどんどんお金を吸い上げてくれるから、全体として経済は維持されるし、逆に資本として回せるお金も増えることになるんです。」(萱野 2008:201)

  1. 萱野さんはなぜ貧困ビジネスに詳しいのだろうか。数字的な裏付けは示されていないが、おそらく事実ではないかと思う。
  2. バブルを引き起こした銀行員や不動産業者は今頃何をしているのだろう。責任とれと思う。構造的な殺人を犯しているのに、なぜ罰せられないのだろうか。無期懲役を科せられてもおかしくないぐらいの重い罪ではないだろうか。

「生きづらさ」について (光文社新書)

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