脳髄反射的覚書

企業の方には問題はないのだろうか?

中教審:全大学で職業指導 来年度からの導入を目指す

就職後すぐに離職する若者が増えるなど、学生の職業・勤労観形成が課題になっているとして、中央教育審議会大学分科会は、すべての大学や短大で「職業指導(キャリアガイダンス)」の授業を導入する方向で検討を始めた。科目として義務化するか、各大学に努力義務を課すにとどめるかなど、具体的な制度設計を急ぎ、早ければ来年度からの導入を目指す。

就職先の企業に問題はないのだろうか。例えば、パワハラやピンハネや長時間労働などの問題を抱えた企業から人が離れていくことは当然の帰結だと思う。

また、大学や短大に「職業指導(キャリアガイダンス)」の授業を導入するのであれば、パワハラや長時間労働などの被害に遭った際に起こすべきアクションや参照すべき法律的知識や頼りになる労働組内などの組織についても学習できる機会を設けて欲しい。

ついでに、企業の経営者陣に対しても「社員に絶対にしてはいけないこと」を労働基準局あたりが率先して指導する機会を設けて欲しい。

エロスジェネのジェンコロに参加した感想を俳句で表現。


ひとりでも 生きてゆきます 泣きながら*1

そうなのよね。ほんとは、ひとりでも生きられる、のよね。それを認めるのがこわいから、あれこれ廻り道をするだけなのよね。恋愛中毒になってみたり、家族をつくってみたり。しばらくの間は、自分が孤独だと思わずにすむかもしれないけど、最後のさいごになれば、女だって男だって、自分がたったひとりだって気づかずにはいられなくなる。そしてもっとこわいのは、自分がひとりでも、ぞんがい平気だってことに気づいてしまうことかもしれない。
孤独から人間が死ぬことは、めったにない。人間が死を選ぶのは、それより他人との葛藤からだ。関係がうまくいかないことからつらい思いをすることはあるかもしれないが、関係がないことそのこと自体から、苦しんだりはしない。日本の老人自殺率を見ると、奇妙なことに、家族と同居している老人の方がひとり暮らしの老人より自殺率が高い。ほんとはこれは奇妙でもなんでもない。家族との不和や葛藤の方が、老人を絶望に追いこむ。はじめからひとりの人の方が、孤独につよい。
孤独なひとは、たんたんと、ひとりで、生きている。なあーんだ、そうやっても生きられるじゃないの、と気づいてしまえば、孤独はそれほどこわくない。(上野 2000:214)

孤独なひとが、愛に疎遠だというわけではない。わたしの知る限り、孤独なひとは他人にやさしいし、他人から愛されることを、ありがたい恵みのように感じる。他人からの愛って、なくてもともと、あるとうれしいもの。どうしてそんな「有難い仕合せ」を、拒む理由があるだろう。そんな人は、大きな受動性で、他人から愛をひきよせる。
わたしのアメリカ人の友人に、外交官生活の長い夫について世界各地を転々としたあげく、六十代に入ってから突然離婚して、ニュージャージーの田舎で一人で田園生活を始めた母親を持った男がいる。大きな農場の中の粗末な一軒家で、彼女は労働し、書を読み、文章を書くという質素な生活を送っている。いまは隠遁した元外交官の父親は、時々、ダンディななりで、愛情にひもじそうな顔をしてニューヨークに住む息子のもとを訪れる。母親はニュージャージーの田舎を離れない。ときどき彼女のもとを訪れる息子は、母親のことを語るとき、とても誇らしげな顔をする。彼は、父親より母親の方を、ずっと尊敬している。(ibid)


いつの日か しんとすがすがしいものに?*2


発情装置―エロスのシナリオ

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結婚帝国  女の岐れ道

結婚帝国 女の岐れ道

酔っ払いのおっさん?

会社帰り。自宅近くの酒屋の前で、仰向け状態のおっさんを発見。顔を覗き込んでまじまじと見てみると、幸せそうな寝顔だったので、そのまま放置。酔っ払って気持ち良くなって酒屋の前で寝るという経験を、そういえば私は、いまだかつてしたことがない。室内は暑いから、道路に身を任せたほうが良く眠れるのかもしれない。などど考えつつも、もしも死んでたらどうしようとも心配になる。結局何もしないで帰宅をしたが、まだどうしようか迷っている。安らかな寝顔だったから放っておいてOK、ということにする。

*1:他者からの承認を過剰に求める。確かにロストジェネレーションと呼ばれる人々にはこのような傾向があるのかもしれない。。他者からの承認なしでも生きられるタフさは、軽く軽く傷付きながら寂しさを故郷として暮らしていくなかで、自然と身についてゆくものなのだろうか。

*2:孤独が喜ばしいものと思える心境に、いつか辿り着いてみたいものだけれども、孤独を他人に勧めることには、若干抵抗がある。孤独を恐れる人に、「ひとりでも生きられる。」と述べることには、やや抵抗がある。私は、ひとりでは生きられない人を、劣った存在とみなしたくはない。「達成すべき課題をいまだ達成できていない未熟な存在」として、高みから眺めるようなことはしたくない。「ひとりでも生きられる。」という物言いには、人間に本来備わっているであろう生命力や強さに対する素直な信頼が感じられ、非常に好感が持てるのであるが、同時に、説教臭いニュアンスも感じられる。「まーだその地点にいるの?幼いなー。幼児的だなー。」という蔑みが入っているように感じられる。しかし、他者からの承認を過剰に求め、とにかく誰かとつながろうと右往左往し、必死に孤独から逃れようとする人に対しては、「いいかげん他人から卒業して、孤独の楽しさ・快適さを味わってみてもよいものを。」と一言云いたくなるのも確かだ。