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怒るべき時の見極め方

労働問題

http://www.labornetjp.org/news/2009/1237550745898staff01/

若者が感じている生きづらさが、じっさいにはさまざまな社会的要因からくるものだったとしても、「器用に生きなければいけない」という規範が社会的に過剰に強制されているために、「自分が不器用だからわるいのだ」と思い込まされ、自分自身の感情を押し殺してしまうことになる。であるから、「声をあげたり、怒ったりするのはフツーではない」という雰囲気が若者のあいだに蔓延するのである。このことによって、結果として、下層の若者が、その生きづらさを社会的な怒りとして表出する回路が見事に遮断されることになる。下層が怒りの声をあげない状況とは、下層の存在が不可視化され、社会的に抹殺される状況でもある。

いつも迷う。「どのような事態に陥った時に私は怒っていいのだろうか?」と考える。怒るべき時を判断する方法について考えてしまう。

しかし考える必要は全くないのかもしれない。「なにかおかしい。なぜか不快だ。」と思ったら即座に、そのことを口にしたほうがいいのかもしれない。

しかしこの考えにも違和感がある。違和感や不快感に忠実になるあまり、赤ん坊のようにむやみに泣き喚いてしまうのはいかがなものかとも思う。わがままと権利の境界。この見極めが難しい。バランスを取ることが大切ということだろうか。

しかしバランスを取るには、必ず一度は、どちらか一方の極に極端に揺れてみる必要があるとはいえまいか。どのような存在の仕方が可能なのかが分からない状態で、必死にバランスを取ることに努めても、限定された狭い領域をせせこましく移動するだけで、全然バランスを取ることにならないかもしれない。

それに、極だと思われていた地点が、長年の抵抗の末、次第に極ではなくなることも考えられる*1

だから、とにかく極端に揺れてみることにする。周囲との調整と交渉の末、わがままと権利の境界がやがて定まっていくのであろう。定まるといっても、これは常に暫定的なものである。正しい落とし所とやらがどこかに用意されているわけではない。交渉は、永遠に続けていくべき運動だと思われる。