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『「ホームレス」襲撃事件と子どもたち』の要約と感想

ホームレスを襲撃する子どもたちの特徴

『「ホームレス」襲撃事件と子どもたち』では、ホームレスを襲撃する子どもたちの特徴として、以下の2つが見て取られている。これらのいずれかの特徴を備えた子どもたちは自尊感情が希薄であり、「そのままの自分」を認められる経験をしたことのない「ホーム」レスな存在とされる。

1、いじめの被害者。強者に逆らえない「弱い自分」に対する苛立ちを、より弱い存在であるホームレスにぶつける。

「(中略)もしかしたらゼロは、からかってもホームレスの人がやり返してこないのが、よけい腹立ったんかもしれん。ゼロは、自分がずっといじめられてたことにたいして、腹立ってたから。そのとき何もいい返せん、やり返せへんかった自分に、腹が立ってたんやと思う。」(北村 2009:53)

ゼロの「ホームレスいじめ」の背景に、みずからの「いじめられ」体験があったことはまちがいない。そしてゼロは藤本さんを、固有の人格や顔をもつ「一個の人間」として見ていたのではなく、あくまで「浮浪者」として嫌悪し、「乞食」と見て、いらだっていた。(中略) 強いものに服従を誓い、傍観者に助けを期待することもあきらめたゼロは、自分の受けた痛みを、いじめっ子たちへの「正当な怒り」として表すことのできないまま、その抑圧された怒りのほこ先を、自分自身の弱さにむけ、より弱いものへとむけた。(中略) 「弱者」による「弱者いじめ」が、なぜ起こりつづけるのか。かぎりなく「弱さ」を否定し、攻撃していくその連鎖を絶ち、いじめ社会を超えていくための手がかりを、私はあらためてゼロの「弱さ」に向きあい、その「弱さ」をどうとらえていくのか、まず私自身の価値観を問いなおすところからはじめなければならない。(北村 2009:139-140)

その「いじめる側」の心の叫びに、私はあらためて気づかされた。”自分に価値がある”と思えない気持ちから、自分より弱く低い位置にだれかを置き、他者の価値を否定し、攻撃することで、「自分の価値」を確かめ、保障し、奪われた”自尊心”を取り戻そうとする行為──それこそが「いじめ」なのだと──。(中略) ただ存在しているだけで価値がある、生きているだけで素晴らしい──そんな「あるがままの自分」の価値を、いま、どれだけの子どもたちが、他者から認められ、自分に認めることができているだろう。そして彼らのなかで見えなくなっている自己の存在への「価値」と「権利」の意識、その基盤となる「自尊感情」をこんなにも子どもたちから奪ってきたものは何なのか?(北村 2009:186-187)

「いじめ」という不当な暴力から自分を守れず、自尊心を奪われ、自分の価値を認めることができなくなった自己評価の低い心は、自分を否定する「自分いじめ」のなかで、さらなる「弱者いじめ」を生みだしていく。より弱いだれかを見つけ、他者の自尊心を奪うことで、自分の価値を取り戻そうとするか、あるいは、弱い自分をさらに否定し、自分のいのちそのものを傷つけ、その手で抹消していく。他者をいじめて殺すか、自分をいじめて抹殺するか。どこまでも再生産されていくいじめの連鎖は、そんな深い闇の谷底に、いま、子どもたちを追いこんでいる。(北村 2009:187-188)

2、学校や家庭において常に努力することを強いられている存在。自分には許されない自由を満喫しているように見えるホームレスに嫉妬し、彼らに暴力を振るう。

子どもたちにとって「ホームレス」は、日ごろ自分たちが親や教師からけっして「許されないこと」を、すべて体現している姿でもあるにちがいない。しかも、自分たちが遊びたい公園や川原で、のんびり休み、自由に暮らしているように見えるかもしれない。
野宿者襲撃事件を追う私のもとに、三十代の男性からこんな意見が寄せられたことがあった。
「子どもたちは、ホームレスがうらやましいんじゃないでしょうか。自分たちは抑圧されているのに、野宿者たちは自由そうに社会から離れているように見える。なのに、なんで自分たちは、毎日大人にガミガミいわれ、塾やテストに追いたてられ、こんなに苦労しなくちゃいけないんだろうって……」
人は自分に許せないものを、他者に許すことはできない。許された子どもは、また人を許す。おれだって休みたい、私だって遊びたい。もしもあんな生き方が許され、社会に通用するなら、ボクたちだてしたくないこと無理してやって、大人の期待に応えて努力して、イイ学校・イイ会社に入るためにがんばる必要なんてないじゃないか!──そんな子どもたちの心の叫びが聞こえてくる。
うらやましさ、ねたみ、嫉妬、羨望……そうした願望をはらんだ憎悪が、子どもたちの「ホームレスいじめ」につながっているのだとしたら──。なによりもいま、子どもたちの心身がほんとうに求め、渇望しているものが何であるか、それを受けとめ、理解し、満たしていける環境をつくりだしていくことこそが、私たち大人の側の最大の急務ではないのか。(北村 2009:295-296)

分析・考察

どの子も、いちばん求め願っていたものは、傷つき、弱っている自分を、否定することなく、ただ受けとめてくれる存在だった。もうこれ以上、「がんばれ」と追いつめないでほしい、「なんでできないんだ」と責めないでほしい、期待に応えられる「いい子」を求めないでほしい、と。
いまそのままの自分を受けとめられ、安心して、居場所(ホーム)を得られた子どもたちはかならず、生きる力を回復していく。逆に、いつまでも「こうあってほしい」と期待をかけられ、そうなれない自分を許せない自己否定感のなかでは、子どもたちの心はさらに傷つき、追いつめられ、内向していく。
(中略)子どもをほめて育てよと推奨されるなか、親たち・大人たちがほめるつもりでかけている常套句は、「いい子ね」「上手にできたね」「よくがんばった」。母親たちへのアンケートでも、いつもこの三つが、もっとも多く子どもにかけているほめ言葉としてあげられる。しかし、安易で表面的な決まり文句を連発していれば、「心がすくすく育つ」わけでもない。いい子とはつまり、大人にとってコントロールしやすい「都合のいい子」でもある。さらに、まちがえないで「上手にできる」こと、期待に応えて「がんばり」成果を上げることに価値を求め、優秀さや完璧さをつねに高く評価する価値観のなかで、子どもたちは、うまくやれない自分やがんばれない自分、期待に応えられない自分を、許せず、否定し、失敗を恐れ、意欲や自信をなくしていく。
そして、そのがんばれない、うまくやれない、許されない存在の、最大「最低」の象徴として、「ホームレス」の人びとの姿を嫌悪し、憎悪する。
「ホームレス」の人たちの背景を知り、野宿者を生みだす社会構造を学習し、知識のうえで理解するだけでは、その「許せない」感情を消し去ることも、憎悪をとかすこともできない。「ホームレス」の人びとを忌み嫌う、この社会の競争原理の絶対的な価値観を、根本から見直し、負けることやつまずくことを「許しあえる」価値観へと変容していかないかぎり、「ホームレス襲撃」も「弱者いじめ」もなくならない。(北村 2009:372-373)

処方箋(のひとつ)

・「ホームレス問題の授業づくり全国ネット

襲撃問題の解決のために、そして野宿者をはじめ、子どもたちや若者たちが、安心して生きていける社会の実現のために、「ホームレス問題」への理解と共感、あらゆる命・人権を尊重するための「授業の実践」を、至急、教育現場で展開していくことが必要です。(北村 2009:377)

子どもたちの心の声に耳を傾け、抑圧されたその感情を、まず安心して表せる場、いまそのままの自分を受けいれてくれる「ホーム」となる人とのつながりを、この社会につくりだしていくこと。親であろうとなかろうと、教師であってもなくても、私たち一人ひとりが、町で、路上で、教室で、いまここで出会う、子どもの心を受けとめ、力を信じ、見守り慈しむ「心のホーム」になること。「ホームレス問題の授業づくり」がめざす光の先にあるものは、そんな私たち一人ひとりの「ホームづくり」であるにちがいない。(北村 2009:398)

「ホームレス」襲撃事件と子どもたち

「ホームレス」襲撃事件と子どもたち

疑問点・コメント(日々増殖予定)

ホームレス襲撃の加害者に対する北村さんの分析について
  1. ホームレス襲撃の加害者に体当たりで関わることにより、「ホームレス襲撃事件が引き起こされる仕組み」を明らかにせんとする北村さんの姿勢には尊敬の念を抱かざるを得ない。何十年にも及ぶ取材活動は並大抵の仕事ではない。
  2. しかし、いくつか疑問がある。まず第一に、「北村さんが作り出した「ホームレス襲撃事件の物語」に、加害者の少年が巻き込まれてはいないか?」という疑問がある。加害者の少年は北村さんの語りを取り込む形で、自らの動機の説明を行っている可能性はないだろうか? 北村さんが加害者の少年に深く関与することにより、ホームレス襲撃の「もっともらしい動機」が後付的に作り上げられている可能性はないだろうか? 『ホームレス襲撃事件と子どもたち』において、ホームレスを襲撃した加害者の少年は、襲撃の動機をうまく語ることができない存在として描写される。それがやがて北村さんと交流していくにつれ、襲撃の動機を明確に語るようになっていく。例えば、ゼロの場合、「いじめ」に関する本(北村 2009:158)や北村さんの著書『少女宣言』(北村 2009:158)や「北村さんが書いた記事(北村 2009:118)」の差し入れや、手紙や面会等の「北村さんによる積極的な働きかけ」を経ることにより、ゼロは犯行動機を明確に語るようになっていくように見える*1。つまり、ゼロの「本心」や「本当の犯行動機」なるものを、北村さんが引き出しているのではなく、意図せざるして北村さんが本や記事の差し入れや手紙や面会を通してゼロを誘導してしまい、犯行動機をゼロとともに作り上げているという可能性が考えられる*2
  3. 第二の疑問。ゼロの場合に限らず、加害者の少年の語りに対して頻繁に北村さんは「心の奥底から発せられた言葉ではない。」という評価を行い、深く反省すれば必ずや到達することのできる「本当の犯行動機、心の声(p-329)」があるかのように、加害者の少年にひたすら反省を促す。しかし、反省すれば「本当の犯行動機、心の声」なるものに到達できるものなのだろうか? そもそも、加害者の少年による語りが、「本当の犯行動機、心の声」なのかどうかを、北村さんはどのようにして判断しているのだろうか? 第一の疑問と内容が重なるが、北村さんが作り出した「ホームレス襲撃の物語」と合致しない語りは、北村さんにより排除されてしまい、北村さんの作り出した「ホームレス襲撃の物語」に合致する語りだけが、「本当の犯行動機、心の声」として北村さんによって採用されてはいないだろうか? ホームレス襲撃事件の防止に役立つ処方箋を提出したいと願うからこそ、北村さんは加害者の少年の「本当の犯行動機、心の声」に拘っていると思われる。しかし、「本当の犯行動機、心の声」を確定する方法が明らかではないため*3、北村さんの試みは成功しているとは言い難いのではないか?*4
  4. だからといって、一切のパターンや法則性なしに加害者の少年たちがホームレスを襲撃しているとも思えない。解明すべきメカニズムは確かに存在していると思われる。何をどのようにすればメカニズムを解明できるのだろうか?*5
  5. 北村さんはホームレス襲撃事件の加害者に注目する。しかし、ホームレス襲撃事件を防止するために、別のアプローチを採用するのも手ではないだろうか? 例えば次のようなアプローチはどうだろう。北村さんは、「いじめの被害者」もしくは/かつ「努力することを常に強いられる存在」が、ホームレス襲撃の加害者になりうると示唆する。そのため北村さんは、いじめを発生させ、人々に過剰に努力することを強いる「努力主義の蔓延する能力主義的な競争社会」の変革を訴える。しかし、「努力主義の蔓延する能力主義的な競争社会」に既に生きている我々には、過去を遡れば「いじめ」に遭った経験などいくらでも確認できるかもしれないし、また、競争のストレスに晒されていることも常に確認できる事実であるかもしれない。そのため、ホームレス襲撃の加害者に見て取られた背景は、なにも彼らだけに確認できる特殊な背景ではなく、誰もに確認できる共通の背景といえる。であれば、ホームレス襲撃の加害者ではなく、ホームレス襲撃をしないで済んでいる「努力主義の蔓延する能力主義的な競争社会」に生きる人々に注目し、なぜホームレス襲撃をしないで済んでいるのかについて分析するのもひとつの方法ではないだろうか? ホームレスについてよく知らず、かつ、いじめの被害者であり、競争のストレスに日々晒されている人は日本中にいくらでもいるはずである。しかし彼ら全員がホームレスを襲撃するわけではない。その一部がホームレスを襲撃する。両者には特に違いがあるわけでもなさそうである。であるならば、殺す理由ではなく、殺さない理由を調査するというアプローチもあるのではないか?
「ホームレス問題の授業」について
  1. 「ホームレス問題の授業」を大人は受けることができない。ホームレスに対する大人の差別意識はどのようにしたら解消できるのだろうか? → ホームレスが主人公のドラマを製作して人気タレントを多数起用し、テレビで放送したらどうだろうか? テレビの影響を受けやすい人が多く住む国では、とにかくメディア戦で勝たなくてはならない。
  2. 「ホームレス問題の授業」の実施は、子どもたちによるホームレス襲撃件数を実際に減らす効果があるのだろうか? → 「ホームレス問題」の授業が95年10月以降に実施された川崎市では、95年夏には54件であったホームレス襲撃件数が、授業導入後の96年夏には10件に減少した(北村 2009:300)。北村さんはこの減少を「このかんの取りくみの「成果」とよべるものかどうかは、まだわからない。」と述べている。
  3. 「ホームレス問題の授業」でホームレスを「(空き缶集めやダンボール集め等の過酷な作業に従事している)努力する存在」として紹介することにより、子どもたちはホームレスを「自分たちと同じ「努力する存在」」として見直し、ホームレスを襲撃しなくなるかもしれない。しかし、「努力する存在」という形でホームレスを紹介することは、努力主義*6を認めることにつながる。努力しないホームレスは、相変わらず襲撃対象になりかねない。努力主義自体を完全に否定するには、どのような方法があるだろうか?
  4. 北村さんの著書では、「いじめの被害者」もしくは/かつ「努力することを常に強いられる存在」が、ホームレス襲撃の加害者になりうることが示唆されている。そのため北村さんは、いじめを発生させ、人々に過剰に努力することを強いる「努力主義の蔓延する能力主義的な競争社会」の変革を訴え、変革の第一歩として「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」を立ち上げる。「ホームレス問題の授業」では、北村さんによる「ホームレス襲撃の背景説明」や、「当事者であるホームレスによる体験談」や、「人がホームレスとなるメカニズム」に関する生田さんの講義などが子どもたちに用意されている。しかし私は思う。子どもたちの「自らの欲望や、快・不快の感覚に対する感受性」を研ぎ澄まし、さらに「生きることに対する貪欲さ」を彼らの中に醸成させるほうが手っ取り早いのではないか? いじめに遭ったら「学校はやだ!いじめる奴もやだ!知らないふりをする先生もやだ!」と大声で叫び、学校という場に「絶対に無視できない問題」があることを全力で知らせるような子ども。あるいは「なんで私があんな刑務所みたいなとこにいなければならないのだ。アホくさ。」と、とっとと見切りをつけて学校をサボるような子ども。もしくは「学校や会社に依存しないでも生きていける方法を見つけよう」と自ら考えて行動するような個人事業主的な子ども。その時その瞬間の自らの感情にひたすら敏感で、さらに、ちゃんとくるのか分からない明日よりも確実にきている今日を最も重要視し、そのくせ自らの生活を自ら創造的にデザインしようとするような、より良く生きていくことにひたすら貪欲な子ども。このような子どもを育てる方法を洗練させたほうが、手っ取り早いのではないか? 「努力主義の蔓延する能力主義的な競争社会」を変革することは、「ホームレス問題の授業」を展開するだけでは不可能と思われる。経団連国会議員文部科学省や企業の人事部の人々を説得しなければ到底無理である。したがって、「努力主義の蔓延する能力主義的な競争社会」を変革することよりも、個人が持ち前の野性性と創造性を発揮して、独自の生活スタイルを作り上げていくことを動機付けるほうが、現実的かつ効率的な戦略とは言えないないだろうか? たとえば、いちむらみさこさんや小川てつオさんや隅田川の鈴木さんがどのようにして育ったのかを明らかにし、そのプロセスを生かした教育を、親や周囲の者が子どもに施すという方策はどうだろうか? この作戦が成功すれば、社会がいくら「努力主義の蔓延する能力主義的な競争社会」であろうと、誰も襲撃することなく、独自の仕方で楽しく豊かに生きていけるのではないか?
「「労働*7」を完全に拒否するタイプのホームレス」あるいは「労働」について
  1. 本書では、「とにかくなんでもいいから働きたい」と心から願うホームレスが多数登場する。あらゆる雇用契約と労働を嫌い、公園や河原で生活することを自らの意思で選択した人々の存在については、本書では言及がなされていない。このような「働くことを断固拒否するホームレス」について、北村さんはどのように考えているのだろうか? → そもそも「労働」や「仕事」って何であろうか? たとえばドキュメンタリー映画『ブライアンと仲間たち』において平和運動家のブライアンは、「平和運動は骨の折れる仕事」と語った。ブライアンにとって、イギリスの国会議事堂の前で8年以上もテント生活をしながら行っている戦争反対のデモ活動はあくまで仕事なのである。日本では平和活動はお金に余裕があり生活にゆとりのある人が行う道楽的なものと思われているふしがある。平和運動は仕事や労働とはけしてみなされない。「変なことしているね」「頭おかしいんじゃないの?」「暇だからやってんでしょ?」と言わんばかりの冷たい視線が投げかけられる。しかし、このような見方は異常ではないだろうか? ホームレスについて考える際には、現代日本における労働観・仕事観を第一に見直す必要があると思われる。
  2. 北村さんの言うように、「努力主義の蔓延する競争社会」が、子どもたちによるホームレス襲撃を引き起こしているのであれば、「努力主義の蔓延する競争社会」自体を根底から変える必要がある。すなわち日本を「努力しなくても生きていける」と皆が思えるような社会に変える必要がある。しかし、努力しなくても生きていける社会は実現可能なのだろうか? 努力しなくてもよいのであれば、働く人間が減り、税収が激減して、生活保護や福祉の財源が底をつき、努力しない人々は結局困るのではないだろうか? → ベーシックインカムをめぐる議論*8を私は参照すべきか。
ホームレス襲撃に関する各国の研究状況について
  1. ホームレス襲撃の発生率を国別で比較したらどうなるだろうか? 最も発生率の高い国と、最も発生率の低い国の違いは何であろうか? 「ホームレス」と「襲撃」の定義を明確に行ったうえで実施された、このような比較研究がどこかにないだろうか? あったら読んでみたい。 → 私は次のコンテンツを参照すべき。http://www.nationalhomeless.org/factsheets/index.html

*1:北村さんは「…ゼロへの手紙にも、面会でも、私から事件の核心にふれる意見や質問をストレートに投げかけることは、あえてひかえてきた。公判中、ゼロが自分で考え、自分で答えを見出そうとするまえに、一方的に意見をおしつけ、彼の法廷での発言を左右するようなことがあってはならないと、私は自分に課していた。」(北村 2009:208)と述べている。しかし、北村さんがゼロに差し入れた「いじめ」に関する本(北村 2009:158)や北村さんの著書『少女宣言』(北村 2009:158)や「北村さんが書いた記事(北村 2009:118)」からゼロが影響を受けた可能性はある。残念ながらこれらの差し入れ物の内容を私は現時点では把握できていない。そのため、これらの内容を知りたいと強く思う。

*2:たとえ、北村さんの影響を加害者が受けていたとしても、北村さんが提示するところの「ホームレス襲撃事件発生のメカニズム」が正鵠を射たものであれば、何の問題もないのではないか? 重要なのは、ホームレス襲撃事件を防止できるか否かであり、加害者が北村さんの影響を受けたか否かではないはずである。

*3:そもそも「本当の犯行動機、心の声」が全くないという可能性もあるのではないか?

*4:ホームレス襲撃の場、ホームレス襲撃の最中に、加害者の脳裏をよぎった本音や、加害者が感じたリアルな感情は必ず存在しているはずではないだろうか。何も考えず無の境地で加害者がホームレスを襲撃しているとはむしろ考え難い。

*5:何をどうすればホームレス襲撃事件が発生しないようになるのか?

*6:「努力しない者は人にあらず。怠け者は餓死するべきである。」という考え方

*7:厳密に定義する必要あり。

*8:http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080507/p1 http://www.mojimoji.org/adiary/note/041 http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/e/df9729ff82024e97dd3447d08d9c5f27 http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10178349619.html http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10308808731.html http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10309923304.html 元社長による「実は社会全体の富を増やす労働ではなく、社会全体の富を食いつぶしている負の労働があるのではないか」という問い掛けは、非常に的を射た問いだと思う。「能力が低く、かつ、本当は仕事を全くしたくない人」が、会社などの組織でプロジェクトの足を引っ張る光景を私は何度も見てきた。「能力が高く、かつ、仕事をしたい人」で、わーっといっきに取り組んだほうが、「早く・正確に・効率的に」プロジェクトを達成できるのではないかと常々思う。「能力が低く、かつ、本当は仕事を全くしたくない人」が、「働かざるもの食うべからず」の風潮におされて、嫌々ながら就職しなくても生きていけるように、誰もがベーシックインカムをもらって生活できる社会になれば、会社の売上げは上がり、税収も増えるのではないだろうか? また、ベーシックインカムがあれば、所属先の会社が非合法な行いをしていることが分かったときに、躊躇することなく堂々と内部告発することができるため、社会全体の利益にも寄与できる。