はじっこから東京を考える

10/17(土)は、坂口さんと萱野さんのトークを聞きに、代官山へ。会場はAITというNPO組織関連の建物。インディペンデントキュレーターと前嵩西さんに会場で遭遇して驚く。

お二人の言葉で印象に残ったのは以下の通り。

坂口さんの言葉
  1. オルタナティブな生活ができるようになることを目指して、あるいは、クリエイティブになることを目指して、外国に行ったり、哲学的な思索に耽らなくてもよい。定住しながらも、思考の解像度を上げていくようにすればよい。隅田川の鈴木さんは定住しているが、そこは常に振動し続けていて、非常にクリエイティブだ。」
  2. 「ヒッピーや学生運動のように、単に資本主義社会にアンチを唱えるのではなく、それとは別の次元で抵抗をしたほうがよい。その方法は至るところに転がっているはずなのだけど、解像度の低い目では捉えることができない。だから我々はもっと解像度を上げなければならない。」
  3. 「テレビ局から声をかけられることは多く、はやくこいこいトップランナーといつも思っているのだが、「ホームレスの生活は豊かだ」という話をするとテレビ局は逃げていく。どうやら「ホームレスは豊かであってはならない」という前提が彼らにはあるらしい。」
  4. 「銀座に、狭すぎるために売り物にならない二畳半ぐらいの土地が、建物と建物の間に存在しているらしい。東京都の所有のようだが、看板が立っているところもあり、誰かが私的に使用している雰囲気でもある。このような土地に0円ハウスを建てて住んでもてみよいのではないか? もしもそれで問題が生じたら、交渉すればいい。とにかくやってみたほうがいい。」
萱野さんの言葉
  1. 「大雑把に世界を把握できたらチャンス。なぜならそこに隙間を見つけて新しい仕事をすることができるから。」


イベントでは、他の論者の発話数よりも、坂口さんの発話数が群を抜いて多かったため、坂口さんの発言が私の印象に多く残ってしまったようである。坂口さんは非常に情熱的な人だ。マイクを口に持っていくことを忘れるぐらい話すことに熱中してしまい、何度か周囲から「マイクマイク」と注意されていた。

それにしても、思考の解像度とは何であろうか? そしてそれはどのようすれば上げられるものなのだろうか?

坂口さんが紹介した貴金属拾いの名人にとっては、目の前に見える白い袋の山は、「ゴミ袋」ではなく、「プラチナの指輪が埋まっているかもしれない宝の山」に見えるのだという。隅田川の鈴木さんにとっては、道に落ちている様々なモノは「ゴミ」ではなく、家の修繕に役立つ「都市の天然素材」に見えるのだろう。モノを一意的に把握するのではなく、様々な文脈のもとで眺めることができるようになれば、思考の解像度が上がったことになるのだろうか?

私は、一般人が見えれば単なる緑の塊にしか見えないモノに、ヤマイモを見ることがかろうじてできる。従って、この点においては、私の目もそれなりに解像度が高いといえるのだろうか? 

ある人にとっては、「どろどろとした黒い水」にしか見えないものが、ある人にとっては、「金のなる木」に見える。「石油」として眺められる以前のこの「どろどろとした黒い水」を、「石油」として把握するには、この「どろどろとした黒い水」に対してあらゆる角度から働きかけて、これが一体何の役に立つのかを根気よく調べる必要がある。つまり、解像度を上げるには、身の回りのモノの役割をいちいちしつこく問う作業が必須ということであろうか。

これはとても疲れる作業のように思える。坂口さんが紹介するクリエイティブな人々は、本当に努力家だと思う。