久々の国立

11/3は、久しぶりに国立へ出掛けた。母校の図書館にプラセボ論文をコピーしに行ったのである。学園祭が終わった翌日であったため、大祭実の人々がせわしなく後片付けをしていた。

もしかしたら金木犀の香りを楽しめるかなと期待していたのだが、大学内の金木犀は見事に綺麗さっぱり散っていた。

お目当てのプラセボ論文をコピーした後、大学周辺をうろうろと散歩してみる。ちょうど夕陽が沈む時間帯だったので、富士見通りと名付けられた通りから、夕陽に染まる富士山がくっきりと見えた。

国立は、都内よりも気温が低いように思う。秋というよりも冬のような寒さだ。あてもなくウロウロしていると、あの、修士の頃によく感じていた「これから私はどうなるんだろう。呪いや妖術の研究をしても社会や他人に対する恐怖はなくなりそうもないし、それよりもまず第一に私には研究者としての能力がそれほどないからこのままアカデミックな世界にいたら生きていけなくなるのではないか─」という不安を思い出した。

生活保護に代表される様々なセーフティーネットを、NPOもやいなどの力を借りて利用しさえすれば、「生きていけなくなる」ことはないと、今だから思えるのであるが、当時の私は、社会についてあまりにも無知であったため、「研究職のポストを得られないこと」を必要以上に恐れた。

もちろん、生活保護に頼ることは最終手段であり、また、この制度はけして利用しやすいものとは必ずしもいえない。しかし、この制度の存在を全く知らず*1、いざとなったらこの制度を自分も利用できるのだという臨場感に欠けていた20代前半の私は、「就職できないこと」をとにかく恐れ、自己不全感と将来に対する不安でいっぱいの心で、国立を歩いていたのであった*2

あの頃感じた上記のような気分に浸りながら、国立をうろうろと歩く。

国立に出掛けた際に私は、必ず以下のお店のいずれかで食事をすることにしている。

  1. 物好奇
  2. いんでぃ庵
  3. つり舟
  4. 一松
  5. スタ丼

最後のスタ丼は、どちらかというと元気な若者向けなのだが、ふと懐かしくなりまた食べてみたくなるものである*3

この日私はまず物好奇を訪れた。店の中は真っ暗で誰もいない。ドアは開いていたので、17:30頃に開店するのかなと思い、時間をつぶして再び訪ねてみたのだが、主の姿はどこにも見えない。

そこで同じ通りにある一松に行く。店のおじさんは直前まで昼寝をしていたらしく、まだ幾分眠たそうであったが、注文通りに白菜鍋を作ってくれた。白菜と鶏肉とコンソメを鍋で蒸し、ポン酢で食べる。寒い日にとてもよく合う料理である。値段も500円と安い。

国立には美味しいお店が多いので、また来ようと思う。

*1:いや、名前は知ってはいたのだが、あの頃の私は生活保護を「自分とは関係ない別の世界の代物」と捉えていたのであった。いまでも若干そのような節がある。

*2:そもそも私は、よりよく生きることができるようになりたかったから、研究に従事した。高校生の頃から「生き難さ」を感じていた私は、「この「生き難さ」を克服するには研究するしかない」と思い込み、迷うことなく大学院に進学した。ずっとそのように思い込んでいればよかったものを、しかし次第に私は一丁前に、「将来研究職のポストを得られないこと」を恐れるようになった。私は、大学教授になることを目標にしていたわけではない。しかしいつしかそのような身分になれるかなれないかを過剰に気にするようになっていったのである。この不安と、「よりよく生きることができるようになるという目標は研究ではかなえられないのではないか?」という疑いが、私を一般企業への就職に導いたといってよい(失恋とか、ケニアでの体験とか、いろいろ他にも要因はあったけれど)。しかしそれでもやっぱり、研究することは純粋に楽しい行為だと思う。だから性懲りもなく私はいまでも研究の真似事をしているのだと思う。

*3:店舗拡大しまくっていることにさっき気付いた。すごいぞスタ丼。