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『標的の村』の感想

映画 人類学

映画『標的の村』を見た。スクリーンを見上げて涙を流している視聴者が大勢いた。警察に排除される基地反対派の市民の映像。特に高齢者の方が泣きそうな顔をしている時に、涙が感染するような形で、視聴者は涙を流していたように思う。しわの刻まれた、しわくちゃの顔を、より一層しわくちゃにして、涙を流す高齢者の顔。

私も、泣きそうな顔には弱い。三上監督によれば、市民を排除する側である警官の中にも、泣いている人がいたという。

映像の力を最も効果的に利用するために、つまり、映像を見る人の感情に、より効果的にアクセスするために、市民が泣き顔でデモをすることを徹底することは、作戦としてありかもしれない。

泣き顔は強い。喚起力が強い。怒りの形相よりも強いと思う。怒りの形相が、それを見る者の心に、憎しみや恐怖を喚起するのに対し、泣き顔はそれを見る者の心を否応なく大きくとにかく揺さぶる。この仮説は、進化心理学的観点からどのように評価できるのであろうか。

人間の脳は、顔に反応するように特化している。進化の末、そのようにプログラムされている。では、泣き顔と怒りの形相のどちらに、脳はより反応するのであろうか。もしも、人間の脳が、より泣き顔に刺激されるものだとしたら、デモや座り込みの際に市民は、率先して泣いたほうがいいのではないだろうか。泣き顔を武器にしたらいいのではないだろうか。

しかし、泣き顔だけでは、人に与える影響は薄いかもしれない。むしろ、泣き顔を見て喜ぶサディスティックな人間もいると考えられるので、単に泣き顔を見せるだけでは逆効果の可能性がある。泣き顔が「頭真っ白でどうしていいか分からなくなる状態」(泣き顔の感染)をもたらすような、感情に訴える力を持つには、それが埋め込まれるところの「文脈」が必要不可欠であるかもしれない。

「文脈」というものが、言葉で形作られるものだとするならば、「泣き顔の語り部」が、「頭真っ白でどうしていいか分からなくなる状態」(泣き顔の感染)を最も実現させる存在なのではないか。たとえば、Cocco先輩による下記のパフォーマンス。3:35あたりから彼女は泣き顔になる。私はこの箇所に弱い。思わずうるっときてしまう。いや。うるっというよりも、ドキッとして、どうしようどうしようどうしようという落ち着かない気持ちになる。



Cocco「ジュゴンの見える丘」 - YouTube

 

座り込みのような直接行動とは、全ての可能な正当な手続きを経て「NO」を行政や政府に突きつけた市民による最終手段である。それと同時に、行政や政府側がいかに不当で非人道的であるかを主張するプレゼンの場でもある。プレゼンでは論理が必要とされるが、ディベートとは異なり、メディアを通して現場の様子を視聴している人々の心を掴む喚起力も必要だ。その手法を洗練させることは決して無駄ではないはず。

広告業者や大手テレビ局や大手新聞社などと結託した体制側を敵に回すのであれば、こちらもその手法を磨く。これらが撒き散らす「行政や政府にとって都合のいい現実」とは異なる、対抗言説ならぬ「対抗現実」を、ユーストリームや独立メディアを利用し、積極的に映像で表現していく。そうすることによって、世界中の人々から、より多くの共感と同意を得られるように工夫する。そういう意味で、座り込みのような直接行動では、パフォーマンスが必要になると思う。

『標的の村』を見て涙を流す視聴者達を見て、このようなことを考えた。