『セデック・バレ』の感想

セデック・バレは、日本統治下の台湾で、日本人に対して武装蜂起した先住民である、セデック族に関する物語です。


『セデック・バレ』予告編 - YouTube

基本的に、殺し合いで構成されている映画であるため、目を背けたくなる残酷な場面がほとんどです。

しかし、この映画の内容は、「残酷」という言葉で、単純に表現することができない、奥行きのある複雑なものでありました。第一に、風景が美しいです。川や滝や森林などの、台湾の豊かな大自然が、鮮やかに描かれています。そして次に、歌。随所に、セデック族にまつわる歌が登場し、その素朴で趣深い旋律に、聞き惚れてしまいます*1。特に、子孫を憂う内容の女性ボーカルの歌*2は美しいです。この歌は、セデック族が運動会を襲撃し、日本人達を皆殺しにした場面で流れます。意外なことに、先住民達が立ち上がり、抑圧者である日本人に仕掛けた殺し合いを、この歌は暗に否定するような内容になっています。

セデック族の狩り場へ、領土と資源を求めて侵出してきた日本軍に、非があることは明白です。日本軍との戦闘に負けたセデック族は、先祖伝来の狩り場を奪われ、学校教育を通して行われる同化政策により、日本人へと「文明化」されていきます。しかし、名前を変えて、勉強して、それ相応の学歴を得たとしても、彼らの待遇は日本人のそれと同等にはなりません。また、日本人は、セデック族を、安い賃金の肉体労働でこき使い、その労働力を搾取します。さらに、セデック族の習俗に対し、日本人はあからさまな嫌悪を示します*3。これらが積もり積もって、日本人に対する鬱憤が溜まりに溜まった末、セデック族は武装蜂起を起こしたのでした。

日本人による支配や抑圧や差別に対しての怒りが、この武装蜂起の根底にあるのは確かです。しかし、それだけではないことが次第に明らかになっていきます。実は、セデック族の「あの世に関する信仰」が、武装蜂起を動機付ける要因の一つになっていたのです。

セデック族は「真の勇者として死んだならば、虹の橋の向こうにある永遠の狩り場で、先祖とともに幸せに暮らすことができる」という信仰を持っています。そのため、真の勇者として死ぬべく、圧倒的な強さを誇る日本人に抵抗した側面があるのです。また、セデック族は、「男は、首を狩らないと、大人の男として認められない」という信仰を持ってもいました。だからこそ、日本人による首狩りの禁止により、首狩りを行えなくなった若者達のために、セデック族の頭目であるモーナは、首狩りの機会を用意する必要があったのです。つまり、セデック族にとって、日本人への武装蜂起は、抵抗運動であると同時に、通過儀礼の側面もあったといえるのです。「セデック族の男は、首を狩らないと、大人の男として認められないどころか、死後に虹の橋を渡ることができない」という信仰を生きていたからこそ、セデック族の男達は、最初から負けると分かっている戦いを、日本人に仕掛けることができたのです。

日本人にとってセデック族の男達は不気味な存在に映ったことでしょう。負けることが明らかなのに、300人ほどの少人数で、果敢に抵抗してくるのですから。虐げられる側である先住民に感情移入している視聴者にとっては、先住民によるこの勇気ある抵抗は感動ものです。負けると分かっているのに、戦士としての誇りをかけて戦う姿には凄みを感じます。

しかし、私はこの先住民のあり方に、怖さをも感じました。この怖さは、信仰というものはどのような行動をも可能にする、ということに対する怖さです。セデック族は、死後の世界があると信じています。死の向こうに現実が拡張されているならば、死は通過点でしかありません。このような信仰のもとでは、命の価値は下がらざるをえないでしょう。「戦いに身を投じ、勇者として死んだ後、虹の橋を渡ること」の重視が、現実の命の価値を相対化し、殺し合いを行うことの敷居が低くなっているのです。この点に私は、信仰の力を実感するとともに、それへの怖さをも感じました。

ところで、このような、虹の橋にまつわるセデック族の信仰に関しては、不思議に思える点がいくつかあります。第一に、この信仰が一つの要因となって引き起こされた殺し合いを、セデック族の女達が批判的に眺めている点です。冒頭で言及した「殺し合いを暗に否定する歌」のように、殺し合いを、ハリウッド映画的に爽快に描くのではなく、それを冷ややかに見る視点がこの映画には存在しているのです。映画では、部族の戦士としての誇りをかけて、勇ましく出陣する男達を、部族の女達は好ましく思っていない場面が頻繁に描かれています。どうやら、「セデック族の男は、首を狩らないと、大人の男として認められないどころか、死後に虹の橋を渡ることができない」という信仰は、セデック族の女の死後にはあまり関係していないようなのです。成人の印としての刺青を、男に彫ることは女の仕事とされているのですが、女は上記のような虹の橋信仰から何の恩恵も受けないようでした*4

もしも、虹の橋にまつわるセデック族の信仰が、セデック族の男のみに関係した信仰であり、セデック族の女はその埒外に置かれているのであるならば、殺し合いに熱中するセデック族の男達は、セデック族の女達にとっては、徹底的に自己本位的な人々に感じられるでしょう。女側の視点に立つと、「勇者として戦い死んで、死後、虹の橋を渡ること」に熱中し、日本軍と殺し合う男達が、単なる自分勝手な馬鹿に見えてきます。誇りだとか勇ましさだとかを掲げて、男達はドンパチやらかして、劣勢になると最後は自決します。男達は、生きることよりも、勇者として戦って迎えた死の先にある幸福にばかり重きを置いて、残された妻や子どものことを全く考慮しない、自分勝手な生き物に見えてきます。辛くなったらあっさり自決というのは、ある意味ずるいことではないでしょうか。テレビゲーム本体のリセットボタンを押すようで、あまりにお気軽すぎるのではないでしょうか。うおーっと雄たけびをあげて殺し合い、劣勢になれば自殺する男達を見ていると、「どのような形であれ、生き続けることのほうが、より勇ましく誇り高いことなのではないか」と逆に思えてきます。生きることのほうが勇気がいることであり、とっとと死んで、虹の橋を渡って幸せになろうと考えて自害することは、安易な逃避に思えてきます。

つくづく、この映画を見ていると、殺し合いは、男という脳に最初から埋め込まれた、否定しがたい欲望のようにも感じられます。このような、男の脳特有と思われる欲望には「増えすぎた人口を減らし、種の生存率を高める」という、人口調整の機能が指摘できるような気もします。また、このような、男の脳に生物学的に埋め込まれた、殺し合いを好むという特質が、「勇者として戦い死んで、死後、虹の橋を渡ること」という信仰を生み出している可能性も想起できます。もしかしたら、「勇者として戦い死んで、死後、虹の橋を渡ること」という信仰が、男の脳の特質を、殺し合いを求めるものとして、進化させたという仮説も成り立ちそうです。あるいは、殺し合いを好むという男の脳の特質と、「勇者として戦い死んで、死後、虹の橋を渡ること」という信仰は、相互規定的な関係にあるのかもしれません*5

とはいえ、セデック族の男達は、死を完全に恐れないというわけではありません。「初めての首狩りの際には緊張して手足が震えた」と頭目のモーナは語っています。また、モーナは当初は、若いセデック族の男達による「日本人と戦うべき」という意見に激しく反対していました。モーナは、日本本土に行ったことがあり、日本の人口の多さや、日本人の軍事力の高さを知っています。日本人と戦えばセデック族が全滅することを十分に予見できていたからこそ、日本人と戦うことにモーナは反対していたのでした。このことから、セデック族の男は、いくら虹の橋にまつわる信仰を生きていても、死を完全に無視することはできないことが分かります。彼らにとっても、死は可能な限り、避けなければならないものなのです。しかし、ある出来事を通してモーナは、勝てる見込みのない日本人との戦いを決心します。これが、虹の橋にまつわるセデック族の信仰に関する不思議な点の二点目です。モーナに日本人との対決を決心させたのは、お気に入りの狩り場で彼が見た幻覚でした。モーナはそこで、死んだはずの父と、歌を一緒に歌うのです。なぜこの出来事が、モーナに、日本人と戦うことを決心させるのか。これが分かりません。歌の歌詞の内容は、虹の橋にまつわる信仰に沿ったものです。この歌により、モーナの、虹の橋にまつわる信仰が、強化されたということなのでしょうか。

他にも、この映画で描かれていた場面について、語りたいことはあります。たとえば、同化政策が中途半端に成功している沖縄を故郷に持つ私としては、日本式の教育を現地の学校で受け、名前を日本風に変えて、日本人の警官として生きるセデック族の二人の青年が気になりました。「俺たちは天皇の赤子か?セデックの子か?」と語る青年に放たれた、もう一人の青年による「葛藤を切り裂け」「どちらでもない自由な魂になれ」というセリフが忘れられません。

また、私の母方の祖父は、台湾で生まれた台湾育ちの沖縄人であり、亡くなる時は中国語で「感謝」という意味の言葉を口にしたそうです。ちょうど、この映画のモデルとなった霧社事件が起きた1930年に、台湾で祖父は生活していました。当時の台湾には、日本本土からだけでなく、沖縄からの移住者も多数いたことでしょう。このような背景が私にはあるため、セデック・バレは、他人事とはいえない映画なのでした。

*1:例えば、https://www.youtube.com/watch?v=AuOznTlqdEQ https://www.youtube.com/watch?v=BtO1y5ZsaUM https://www.youtube.com/watch?v=hwizOfc_Kak など。

*2:https://www.youtube.com/watch?v=BtO1y5ZsaUM

*3:逆に、セデック族の習俗を知りたいと考え、彼らの言葉を学習し、彼らと友好的な関係を築く日本人も存在しています。登場する日本人の特質は多様です。

*4:エンディングで、虹の橋を渡るセデック族の男達の姿が描かれているのですが、そこに女性は一人もいません。

*5:疑問に思うことがあります。「首を狩らなければ一人前の男になれない」という信仰は、常に外部に敵が存在するならば、首尾よく機能する信仰です。なぜなら、自分の部落の狩り場や平穏を乱す敵を倒すことは、部落の仲間達の生存の可能性を高めるからです。しかし、もしも、敵が外部に全く存在していないならば、どうなるのでしょうか。敵がいなければ、首を狩ることができなくなります。すなわち、セデック族の若者は一人前の男になれなくなります。敵がいない状況では、「首を狩らなければ一人前の男になれない」という信仰の存在が、「一人前の男になれない若者の増加」という問題を生じさせてしまうのです。このような時、何が起きるでしょうか。「首を狩らなければ一人前の男になれない」という信仰は衰退することになるのでしょうか。あるいは、一人前の男になれない若者の増加により、結婚できない男が増え、出生率が低下し、セデック族は絶滅してしまうのでしょうか。それとも、この信仰は、この信仰を生きる人々に、敵を作り出すような行動を取らせるのでしょうか。