エラーとして指摘しがたいエラー

たとえば、日本に住む人が何らかの犯罪を犯したことをTVで知った人が、「だから日本人はダメなんだ」と述べ、あたかも日本に住む全ての人がダメな人間であるかように語るのを目の当たりにした時、私は「日本に住む全ての人がダメな人とは限らない!」と反論できるか。

あるいは、過去の日本人(例えば、坂本龍馬など)を英雄として美化し、「坂本龍馬は偉い。坂本龍馬は日本人だ。だから日本人は偉い」という三段論法的思考を経たうえで、提喩的に、日本人である自分を誇ろうとする人を見かけた時、「あなたは確かに日本人であるが、過去の英雄的な日本人(坂本龍馬)ではない。一緒にするな。」とその人に反論することは可能か。

先程の「一部の犯罪的日本人を根拠にして、全ての日本人を犯罪者とみなす」件と同様に、この「英雄的日本人と自分を同一視する日本人」の件も、部分が持つAという性質を、全体の性質とみなし、全ての部分がAという性質を持つと言明する語りとなっている。

野矢さん監修のNHK番組「ロンリのちから」によると、「ペンギンは空を飛べない。ペンギンは鳥。だから鳥は空を飛べない。」という三段論法は誤りなのだという。

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/ronri/archive/resume001.html

しかし、我々は常日頃から、このような語りを口にしている。「一部の犯罪的日本人を根拠にして、全ての日本人を犯罪者とみなす」件と、「英雄的日本人と自分を同一視する日本人」の件がそうである。部分が持つAという性質を、全体の性質として語り、全ての部分がAという性質を持っているとする語りを、日々生産している(ご丁寧にも、このような思考に対しては、比喩の技法として、提喩という名前まで与えられている)。

エラーをエラーであると指摘することには何の問題もないはずであるが、エラーがエラーではない当たり前の、むしろ日々の思考に欠かせない、なくてはならないエラーとして存在している場合、このエラーは、放置するしかないのだろうか。

マルクスが、貨幣を、動物というカテゴリーの中に動物というメンバーが存在してしまっているかのような、奇妙なものとして分析してみせたように、この種のエラーは、取り除くことができない、我々の認識を成り立たせている、必要悪的なエラーとみなして、分析することに留めておくことしか、できないものなのだろうか。

もしもそうであるなら、日本に住む特定の政治家や官僚が「沖縄に米軍基地を維持すること」を推進している現状に対して、「だから日本人はひどい」と述べ、あたかも日本に住む全ての人がひどい人間であるかように語る人を目の当たりにした時、私が「日本に住む全ての人がひどい人とは限らない!」と反論しても、この反論はこの人の心には、きっと響かないであろう。