読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

モソ族に関する記事を読んで頭に浮かんだ思い付き

モソ族に関する記事を読んで頭に浮かんだ思い付き(その一)

4年ほど前に、木の上で生活する民族がインドネシアで公式に発見されたことが話題になった。

私は上記の発見報告を知った際に、木の上で生きる彼らにとっての悩みと、地上で生きる自分の悩みの違いに興味を持った。悩みには、「世界に対する何らかの前提を持つことで、初めて持つことが可能になる」という側面がある。すなわち、依拠する前提が異なっていれば、その差異に応じて、それぞれ異なる悩みが生まれるのである。

上記のインドネシアの民族とは直接関係はないが、今朝はたまたま、下記のような興味深い記事を目にした。

この記事によれば、中国のモソ族の社会では、通い婚が行われているという。この社会では、「夫は自分の母方の実家に住んでおり、妻のいる家へ夜だけ通う。夫には子どもの養育権はなく、妻子を養う義務もない。「父親」という文字すらない」という。では、この社会ならではの悩みがあるとすれば、それは一体何であろうか。

記事では、この地域特有の女性の悩みは存在しないと書かれているが、本当であろうか。日本社会の女性が持つ悩みは存在しないかもしれないが、この地域ならではの悩みは必ずあるはずである。

一夫一婦制に基づいた社会では、この前提から外れた、不倫や浮気などの性愛の形が、悩みの種となるように、通い婚に基づいた社会にも、この前提から外れることで生じる悩みが、必ず存在しているように思うのであるが、どうなのだろう。

たとえば、一夫一婦制に憧れるモソ族の男性が、モソ族の社会ではこの目標を達成することができないと悩むように、モソ族の女性の中にも、一夫一婦制に憧れる人がいて、周囲の目を気にするあまり、あるいは、同じ考えの人に出会うことが困難なあまり、自分の目標を達成できないと悩む人がいたりするのかもしれない。

あるいは、好きな男性の家に自分が通いたいと思う女性が、人知れず不満を抱えていたりするのかもしれない。

もしかしたら、目と耳が不自由であるが故に、夜に自分の家を訪れた男性が、自分の好きな男性なのかが識別できず、時折騙されてしまうことがあることに悩む女性がいるのかもしれない。

大分部の人間が、「通い婚が当たり前」と考えており、かつ、「通い婚が他の性愛の形よりもベターだ」と捉えているからこそ生じる悩みがもしもあるとすれば、それを知りたいと思う。悩みを通して、その悩みの持ち主が生きる世界のあり方を、伺い知ることができるだろう。

モソ族に関する記事を読んで頭に浮かんだ思い付き(その二)

悩みの解決方法として、己が依拠する前提を疑い、それを取り去るという方法がある。

しかしこれは、多くの人間にとって、採用することが難しい方法である。一夫一婦制を自明視しているがゆえに、恋人の浮気に悩む人に対して、「一夫一婦制に依拠するから悩むのだよ」と助言しても、受け入れられないであろう。そもそも助言の意味が理解できないかもしれない。そして、たとえ理解できたとしても、どうすれば一夫一婦制への依拠を解除することができるのか見当が付かず、困ってしまうであろう。

ただ、私としては、映画『レボリューショナリーロード』や『アイズワイドシャット』や『ゴーンガール』で描かれるような、一夫一婦制に基づいた幸せな結婚を維持している「ふり」とそれに起因した悩みが、今後も、一夫一婦制に基づいた社会で生産され続けるのかと思うと、何とも悲しい気分に陥ってしまうため、前提を疑い、より悩みの少ない快活で健やかな方向へ向かう方法はないものかと、ついつい考えてしまうのである。

モソ族に関する記事を読んで頭に浮かんだ思い付き(その三)

上記3つの映画では、「一夫一婦制に基づいた幸せな結婚を維持している「ふり」」が描かれている。「ふり」ということは、つまり、これらの映画の登場人物達は、「一夫一婦制から距離が取れている人」ということである。

したがって、「一夫一婦制から距離が取れている人」と「一夫一婦制に埋没している人」とを明確に区別し、両者の悩みの差異を捉えることが重要という指摘が、第一に成り立つかもしれない。

しかし、一夫一婦制が法律婚とされている社会における、結婚にまつわる悩みの多くは、「一夫一婦制から距離が取れている人」が、一夫一婦制主義者の「ふり」をして、「一夫一婦制に埋没している人」を誘惑し、まんまと結婚した後で、その「ふり」を真剣に行うことを放棄して、不倫や風俗遊びをすることに起因しているのではないだろうか。

もしもこれが事実だとしたら、「一夫一婦制から距離が取れている人」と「一夫一婦制に埋没している人」とを区別するにしても、それぞれの悩みを別々に考慮するのではなく、むしろ悩みを、両者のミスマッチの結果として捉えたほうが適切といえるのではないか。

モソ族に関する記事を読んで頭に浮かんだ思い付き(その四)

上記3つの映画が制作され、作品として楽しまれるためには、一夫一婦制が自明視されているという状況が必須であるため、もしも、一夫一婦制から人々が自由になってしまえば、このような作品自体が生まれず、そして、このような作品を見ようと思う人々も激減するであろうなとも思う。重力や空気のような、一夫一婦制の自明性があるからこそ生まれる芸術が確実にあるということだ。

「悩みはなるべくないほうがいい」と考える私にとって、何らかの前提、自明性に基づいて生じる悩みは、「悩みを生じさせる前提や自明性を疑うことで解決可能かもしれないのに」とくやしく思われる反面、これらの前提や自明性に基づいた悩みからは、先に言及した映画のような作品が生まれるわけでもあるので、前提や自明性なるものに、どのような態度で接すればいいのか非常に困ってしまう。これらは、悩みを生じさせる諸悪の根源でありながら、面白く興味深い作品を作り出す源泉でもある。

モソ族に関する記事を読んで頭に浮かんだ思い付き(その五)

もしもモソ族の人々に、上記3つの映画を見せたら、どのような反応が返ってくるのだろうか。「自分で自分に鎖を嵌めて、自分で困っている」というような上野千鶴子風の指摘や、「なぜ男ばかりが仕事してんの?」という素朴な疑問の表明がなされるのかもしれない。あるいは、意外にも、「分かる分かる。性愛の形は異なるけれど、何らかの形式に沿うしか性愛の欲望を満たせない点では、私達と同じだよね」という共感が寄せられる可能性もある。