責任についての今日の思い付き━「複雑系的責任概念」の着想

自動車事故の責任

自動車事故が発生し、犠牲者が出たとする。

自動車に欠陥が存在していれば、当然のことながら、犠牲者の家族はその責任を、事故を起こした自動車を製造した自動車会社に問うことができる。

しかし、この家族は「自動車会社が自動車なるものを作ったこと」自体を問題視し、事故の責任を会社に問うことはしない。たとえ自動車に欠陥がなくとも、「自動車会社が自動車なるものを製造したこと」も、自動車事故へと連なる因果の一要素であるにも関わらず、である。

これは非常に不思議なことではないだろうか。

しかし、果たして、「お宅の会社が自動車を製造したから、自動車事故が起きることが可能になったのです。事故の責任を取って下さい」という物言いが通用する社会のほうが好ましい社会といえるのだろうか。

ポジショナリティの語りとの比較

この物言いは、ポジショナリティという概念を用いて、他人に責任を負わせようとする人のそれに近いように思う。

自動車会社の従業員は、人を傷付けたいとは考えていないであろう。しかし、自動車事故は一定の確率で必ず生じ、毎年死傷者が出ている。そして今のところ、誰もそれを責めない。

一方、本土在住の人々の大部分は、沖縄に基地を押し付けて自分だけいい目を見ようとは考えていない。しかし、沖縄で米軍絡みの事件や事故は一定の確率で生じている。そして、自らを沖縄人と自覚する人々によって、本土在住の人々は、このことを時に責められる。

沖縄県民として、本土在住の人々が、沖縄の米軍基地の問題に関心を持ち、米軍基地問題の解決に向けて、具体的に行動してくれることは有難いと思う。

しかし、本土在住の人々が沖縄の米軍基地に無関心のまま生きていることを根拠に、「沖縄の現状は、無関心なあなたたちのせいだ。責任取れ」という物言いで責めたてて、基地問題解決に向けた具体的な行動を彼らに取らせようとすることには抵抗がある。

論理的には理解できるが、しかし…

自動車事故の根絶を目指し、「あなたたちは何も考えずに、会社の言いなりになって、自動車という凶器を黙々と生産し続けて、毎年何千人もの死傷者を出させている非情な人々だ。今すぐ自動車会社を辞めよ。」と自動車会社の従業員を責めたてる人がもしもいたとする。

私はこの人物の物言いは論理的に理解できるが、何か違和感がある。沖縄の米軍基地に関し、本土在住の人々にその責任を負わせようとする「沖縄人」に感じる違和はこれと似ている。

この違和はどこからくるのであろうか。

自動車を製造したことを根拠にして、自動車会社に自動車事故の責任を問うこと。事故に至る経緯の一要因であることを理由に、自動車会社に事故の責任を負わせようとすること。この行為に私が違和を感じることには、PL法という法律が事前に、「問うことの可能な責任の範囲」を限定していることが、絡んでいるのかもしれない。違和は、私がPL法の論理をしっかりと内面化しているこそ生じているものではないだろうか、ということである。

ある出来事が発生したことの責任を、直接的な関与だけでなく、間接的な関与さえも根拠にして問えるようにしたほうが、社会における様々な出来事で不利益を被る人々にとっては有益であろう。間接的な関与が確認できる人間すべてに、それ相応の責任が生じるのであれば、結果的により多くの人間が、被害を被った人を支え助ける体制が生まれるのではないだろうか。これは、因果を無限に辿ることを許したことで初めて可能となる大人数相互扶助関係である。法律はこのような「無限に責任が問える状態」を制限している点で、障害・障壁・邪魔な縛りといえそうだ。

「問うことの可能な責任の範囲」を法で限定してしまうことで生じるのは、弊害ばかりではないだろう。この限定がなければ、キリがなくなる。被告の数があまりにも多くなり、一つの裁判に費やされる時間と労力は膨大なものになるであろう。しかし、間接的な関与を根拠にして何事かの責任を追及する行為が「法的に問題はなく、罰則がないから無視してもOK」とみなされる社会は、端的に怖い。法律だけが全てで、残りは切り捨てられるのは、いかがなものか。

ポジショナリティという言葉を用いて、自分以外の誰かの責任を問う人々に私が感じる違和は、

①余りに間接的すぎる関与が根拠にされていること。
②他者の責任を問う自分自身は常に、責任を問われない存在として位置付けられていること。
③「日本人」や「男」などの集合概念が加害者として名指しされ、この集合概念内の差異が無視されていること。 

の3つに起因しているが、①については許容したほうが、他ならぬ自分にとって有益であるように思えてくる。

理想としては、出来事には、ありとあらゆる他の出来事が直接的にも間接的にも関与しており、この「関与している」というこのただ一点のみを根拠にして、誰もが全ての出来事に責任を持つことに努める社会が良い。

複雑系的責任概念」と表現できるような、責任という概念の捉え方。法律は、PL法のように、「問うことの可能な責任の範囲」を限定し、社会の運営が滞りなく行われることを目的にして、「無限に責任を追及できる可能性」を制限する。しかし、法律とは別に、地球人の心構え的に「複雑系的責任概念」を皆が念頭に置く社会が、現時点における私の理想だ。全ての出来事は繋がっており、関係ないものはないというスタンスである。

責任追及の仕方を洗練させる必要性

責任追及の仕方に関しては、今後も考察を続けなければならないと私は考えている。なぜなら、「複雑系的責任概念」の理屈を多くの人々に理解してもらったとしても、「理屈は分かるけど、罰則があるわけでもないから、責任を負わなくてもよいよね?」と考える人々が多ければ、あまり意味がないからである。

この問題に関するヒントになるような情報はないだろうか。このように考えながらネットサーフィンをしていると、次のような記事を見つけることができた。


この記事によると、餅を製造した会社に対して、餅を喉に詰まらせた被害者が「損害賠償」を求めることは可能であるが、「立件するのは難しい」という。

弁護士によって、「立件するは難しい」理由が、下記のように憶測で挙げられている点に、「責任追及の仕方研究」の今後の発展可能性を私は感じる。

「全くの推測ですが、もちを喉に詰まらせて死亡する事故は割と多く、もちの危険性は広く認識されています。それなのにもちを食べて死んでしまっても、食べた方が悪いという判断になるのかも知れません」

また、弁護士は次のようにも述べる。

「餅が日本全国に文化として馴染んでいることや、多くの人々に食べる習慣が広まっていることから、なかなか攻撃対象とならないのかもしれません」 

弁護士による上記の語りに、「習慣」や「文化」という、分かるような分からないような、どうとでも説明できるような曖昧な言葉が登場していることから、責任追及の仕方は未だ確定されておらず、何らかの出来事の責任を負うべきか否かに関しては、交渉次第で決まるグレーな領域が確実に存在していることが伺える。

この「交渉の仕方」を洗練させること。誰もが納得でき、かつ、交渉の帰結は受け入れなければと心から思えるような「交渉の仕方」を完成させること。私は今後、この作業に従事していきたいと考えている。「あなたには〇〇する責任がある。なぜなら~」というセリフにおける「~」の内容を、誰が聞いても説得力を感じざるを得ないものにすべく、充実させていきたい。