2015年3月23日から2015年3月28日までの旅の記録

3月下旬に、旅に出ることにしている。

旅といっても、見知らぬ土地に行くのではなく、いつも九州に行っている。特に、北九州には、東日本大震災以降、毎年必ず足を運んでいる。北九州は、父の故郷であり、私が4年間を過ごした大学の所在地であり、私にとって重要な他者が今でも多く住む場所なのである。

今回の旅では、途中まで両親と弟と行動を共にした。3月23日から3月25日にかけての2泊3日の旅行では、門司と由布院の温泉旅館を満喫した。25日の午後からは家族と別れて、私独りで28日まで北九州と福岡に滞在した。

以下より、旅の途中で触れることができた諸々を、ひたすら列挙。

2015年3月23日

那覇空港4階にある「天龍」で沖縄料理を食べた後、飛行機に乗って福岡空港へ。なかなかに揺れた。久しぶりに酔った。福岡空港から新幹線で小倉駅へ移動。料金は大人一人2200円ぐらい。15分ほどで博多駅から小倉駅に到着。金で時間を買うことを可能にする文明の利器の有難さを実感。

タクシーに乗り、小倉在住の親戚の家へ。「北九州は高齢者ばかりで、大きな産業もなく、寂れていく一方です」と明るく語る運転手(76歳男性)の車は、10分も経たないうちに父の姉の家に到着。しばらく話した後、出前の寿司が登場。うまいうまいと言いながら限界まで寿司を腹につめようとする男が約3名(父と私と弟。ちなみに母は常に小食)。1時間ほどでお暇し、再度タクシーを捕まえる。「景気は悪いですが、小倉はマンションの建設が盛んですね」と淡々と語る運転手(50代男性)の車は、やはり約10分ほどで小倉駅に到着。

小倉駅から門司港駅へ電車で移動。非常に寒い。気温はおそらく10度未満だと思われる。桜がまだ咲いていない。今年は例年より寒いのであろう。人の気配が全く感じられない暗いアーケード商店街を歩き、今晩の宿に辿り着く。とにかく暗い。宿の前の暗闇でぼうっと光る聖なる何かがやけに京都っぽかった。

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暗闇の回復。このような言葉が浮かぶ。寂れて、光が減ったことで、暗闇が戻る。このような言い回しがついつい頭の中を巡ってしまうほど、素敵で幻想的な小路を、宿の部屋の窓から、撮ることができた(写真を上から眺めると、小路がうっすらと白く浮き上がって見えます)。

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2015年3月24日

8時頃に朝食。米が美味しい。生産地を店の人に尋ねると「実家が農家なのです。大分の国東半島に実家があるのですが、そこで育てた「ひのひかり」です」という答えが返ってきた。非売品なのだという。また、店の人が勧めてくれた水も美味かった。下関にある、マキタという名の商店でもらえる湧き水なのだそう。まろやかで非常に喉辺りの良い水であった。来る度に思うのだが、本当に九州は食い物と水が美味い。

朝食後、外へ。朝なので、すっかり明るい。旅人にとっては有難い良い天気。

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店の前で店の主としばし談笑。宿の名前はむつみ関門荘。元々は料亭だったそうである。坂の途中に建てられているので、正面から眺めると三階建てに見えるのだが、実際は二階建てとのこと。

宿を辞した後、再び門司港駅へ。改札を通過してすぐ目の前にある謎の泉には、案の定貨幣が投げ入れてあった。

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中に見慣れぬコインが一つ。どこの国の貨幣なのだろう。どの観光地でも、このような、「お金投げ入れたい症候群」が発症しているのであろう。

門司港駅から小倉駅へ移動し、そこからソニックで由布院駅へ。3時間ぐらいかかったであろうか。何故か電車に寄ってしまい、気分が悪くなる。電車で酔ったのは初めてかもしれない。電車生活を辞めて3年以上が経過すると、電車に弱くなってしまうのだろうか。

幾分気分の悪さを抱えていたものの、由布院の旅館の夕食は美味く、露天風呂や大浴場は心地良かったため、いつしか私は気持ち悪さを忘れた。風呂、昼寝、夕食、風呂。寝るまでにこれらの活動を行い、0時までに眠りについた。

2015年3月25日

食事と風呂と睡眠。由布院の旅館ではこの3つを貪欲に行った。朝食のバイキングも非常に満足のいくものであった。チェックアウトをした後で、6千円の束を部屋に置き忘れていたことを思い出し、慌てて旅館に電話をするというハプニングが発生。しかし、無事6千円は見つかり、現金書留で送ってもらえることになった。

8時30分発の天神行きのバスに乗り、我々は由布院を後にした。2時間ほどで天神駅に到着。そこから歩くこと約20分で辿り着ける某店にて、塩トマトを購入。時期が早かったようで、去年よりも出荷数が少ない。それに、箱のサイズがいつもより小さい。色々気になる点があったのだが、塩トマトは塩トマトであるはずなので、それでも購入。

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塩トマト購入後、博多駅で私は両親らと別れ、独り小倉駅へ。両親らはそのまま福岡空港から那覇空港へ。再度、文明の利器の力を借りて、わずか約15分程で小倉駅に到着。メールチェックがしたかったので、平和通り駅付近のネットカフェへ。ここの3時間パックで880円という価格設定は良いと思う。メールチェック後、好例の漫画チェック。銃夢LAST ORDER、軍鶏、バカボンドを読む。ベルセルクの新刊はまだ出ていないようであった。どうなってんだろう。作者が心配である。今回は特に感想はなし。そんなに感じるところはなかった。ドリフターズを読むの忘れた。

腹が減ったので、友人が経営するパスタ屋へ。城野のダイエーのすぐそば。赤茶けた壁が目印。

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私は、自分で自分の生活を成り立たせたいと考える人であり、自営業者に尊敬の念を抱いている。何を売るにせよ、自分で全てを手配して商売を成り立たせることは、並大抵のことではない。頼れる者は自分だけ。あるいは、少数の仲間だけ。常に頭を働かせて、臨機応変に対応しなければ生き残れないはずである。特に、消費税アップの影響を、食材の値上げという形で、直接受けてしまう飲食店の経営は、難しいものだと思う。ぶっちぎりで勝たなくてもいいので、とにかく生き残り続けることができれば、それだけで勝ちだとつくづく思う。

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なぜか手塚治虫の作品が充実している店内。このような、店の主の趣味が、店の特色として人を引き付ける重要な要因となっている可能性を感じる。

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だいたい私は、厨房に最も近い場所に座る。

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運ばれてきた料理を食べつつ、友人とお喋りをする。途中、お客さんが3人、来店してきたので、友人は厨房へ。どんどんお客が来て、商売が繁盛してくれると嬉しい。

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バターが高騰していると聞いた。残さず食べねばと思う。サラダとベーグルと生パスタのトマトソースで710円。今後も消費税が上がるかもしれないので、経営が心配である。でも、なんだかんだとやりくりして、生き延びていくのだろう。

店を出た後、大学へ。とぼとぼ歩いていると、いつのまにか道路に、青く塗られている箇所があることに気付く。

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誰が何の目的でこのような作業を指示し、誰が結果的にどのような利益を得たのか、あるいは得なかったのか。このようなことをつらつら考えながら、城野から北方方面にとぼとぼ歩く。

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図書館にほど近い通用口から大学内に入り、自転車置き場を歩いていると、このような物体がお出迎え。大学によくある風景。

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図書館の入口付近にいた猫。プランターを占有する猫が一匹。

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どこかの考古学者が、箱に生き物が入りたがることを、子宮回帰願望と説明していたが、本当なのだろうか。

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久々の大学。中庭と図書館と青い空。寒い。風が寒い。

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謎の平らで白い建物。昔はこのような場所に建物は存在していなかったのだが、時の経過により、物事は様々に変化する。

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いわゆる新館。いつまで新館と呼ぶことができるのだろう。相変わらず、夕陽が反射すると、ぎらぎらと眩しい。懐かしのバブルの産物。

大学の図書館で働く友人に挨拶。次に、港湾労働者の友人と駐車場で合流して、近況報告。結婚したり、子どもができたりと、人の関係性や役割も時の経過とともに変化していく。

その後、大学から某友人の家に移動。私を含めて4人でギョーザ専門店で夕食をとり、再び友人の家でささやかな宴会。夜の1時頃に宴はお開きとなり、そのまま私は某友人の家に宿泊。

2015年3月26日

10時頃に起床。某友人の家が余りにも全体的に散らかっていたので、恩返しのつもりで、洗面所を集中的に掃除。某友人はプログラマであり、ノマドワーカー的にいつでもどこでもノートパソコンを開いてプログラムの修正・更新作業を行わねばならないので、ほとんどの時間を仕事に費やしているようであった。私もIT関係の会社で働いていたことがあるので、この大変さは良く分かる。余りの多忙さで家事が完全に疎かになってしまうのだ。泊めてくれた恩返しということで、磨きに磨いた洗面所は、しっかり綺麗になっていた。

本日のミッションは、大学のそばに住む82歳の友人に会うことである。15時に会う約束であったが、プログラマの友人宅から12時頃に電話をかけると「今すぐ来てもOK」という返答をもらえたため、13時頃に自宅をお邪魔した。

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この友人の家では、酒をよく飲む。ラムのジンジャーエール割りを飲みながら、政治や学問について話をするのだが、毎回と言っていいほど「あなたは無知だ」というオチになる。確かに、私は無知だと思う。バルザック折口信夫や東欧の歴史や太平洋戦争前後の日本の世相に私は疎い。

今回も、様々な言葉と知識を、友人は惜しげもなく私に授けてくれたのだが、既にそのほとんどを忘れている。私の予備知識のなさ故に、聞いた話を正確に記憶できていない。私の頭は、外界からの情報を、正確な内容のままストックすることができない、ザルのような頭だとつくづく思う。

覚えていることを、台詞の形で以下に列挙するなら、次のようになる。

社会運動は、生活することが必然的に結果するもの、用意するもの、結実させるものであり、小難しい概念を駆使して思考せずとも、民衆によって自ずからなされるものだ。

民衆は馬鹿ではない。戦争が起きて、誰が利益を得たのかを知っている。自分の先輩に、特攻隊帰りの人間がおり、彼は終戦後に労働組合に従事した。資本家が金儲けのために戦争を起こすことを見抜いていたからだ。しかしその先輩は、自分の利益のみを追求して、労働組合運動をしたわけではない。彼は国鉄に就職し、そこでストライキを行ったが、働くために電車通勤をしなければならない会社員などの労働者のために、無料で電車を走らせた。それは人民列車(人民電車?)と呼ばれ、私の知る限り、宇部線にはそれが走っていた。 

大西巨人という共産党員は、戦地帰りの元兵士達の戦争責任を追及したが、大西巨人にその資格はあるのか。あの頃の日本の民衆を、戦後から70年余り経った現在において、「犬死にするような意味のない戦争に従事した、愚かで無知な反省すべき人々」とみなすことには問題はないか。戦争責任を追及されてしかるべきなのは、民衆なのではなく、天皇なのではないか。

マルクスの娘は青酸カリで死んだ。沖縄の集団自決はそれと同じだ。日本人に沖縄人が集団事件という形で殺されたのではなく、沖縄人は日本人として自決したのだ。それを犬死に、無駄死にというのか。

目の前の現象を、限られた狭い枠組みの中で分析するのではなく、大きな流れの中に位置付けて分析すること。文章は、バルザックのような視点を持って書け。

他にも色々言われたのだが、忘れてしまった。しかし、少なくとも、友人から言葉を発せられたことにより、現在の私の頭の中に、上記の言葉が根付いていることは確かである。今後、時間がある時に、これらの言葉を反芻してみたいと考えている。

82歳の友人の家を出たのは、17:00頃であった。その後、プログラマの友人宅へ移動。別の友人が既に到着しており、夕食を作ろうとしていたところであった。動物園勤務のその友人は、何事も器用にこなす「できる人」であり、料理も上手である。今回友人は下記の料理を作ってくれた。

馬鈴薯と手羽先の醤油漬け(油で揚げた小さな馬鈴薯を手羽先と一緒に煮たもの)

・水餃子(シャンツァイとエビと挽肉入り)。

・ピリ辛胡瓜(揉んだ胡瓜を、適当な量の、砂糖・醤油・黒酢・ごま油・鷹の爪を漬ける) 

夕食は非常に美味しかった。美味しい料理を作る技能はやっぱり素晴らしいと思う。沖縄に帰ったら、上記料理を真似して作ってみようと思う。

その後、介護士をしている友人が到着。この日も、4人で0時過ぎまで宴会をした。テーブルに座る皆を眺めつつ、「みんな、大学時代と変わってないね」と、プログラマの友人が述べた。確かに、中身はあまり変わっていないと思う。しかし、身体は確実に老いている。「鼻毛に白髪があった」や「徹夜がきつくなった」や「記憶力が若干落ちた」等の老化話に花が咲いた。まだ30代なので、そこまで老化しているわけではないが、40代、50代と歳を重ねていくうちに、老化は明白になっていくのであろう。今後も、一年に一度は集まって、老化を話題にして談笑したいものだ。

茶碗を洗い、お茶を飲んでお喋りした後、0:30には床に就いた。プログラマの友人は、納期寸前の仕事を終わらせるために、4時頃まで仕事していたようである。プログラマはやはり大変だ。

2015年3月27日

本日は小倉を離れる日。朝の9時頃に、プログラマの友人宅を辞して、73歳の男性が運転するタクシーに乗る。「何歳になってもできる仕事はいいな。私が65歳になる頃には、年金受給開始が遅れ、さらに年金支給額も減るであろうから、何歳になってもできる仕事を私も見つけないとな。そう言えば、私の母方の祖父も個人タクシー運転手であったな」と考えているうちに、西小倉駅付近に到着。そこからしばらく歩き、某事務所兼自宅に住む、高貴なお二人にお会いすることができた。

大学生の頃、所属していたウェブサイト作成サークルを通して知り合い、その後仲良くさせていただいた方々である。昔から、何をして生きているのか良く分からないけれど、やたら物知りで、スマートな佇まいの、「飄々」という言葉が良く似合うお二人であった。最近は、カメラに凝っているらしく、見たこともないような形のカメラが事務所に置かれてあった。

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行政書士の資格取得を目指している」という話をすると、「それはいい」と言ってくれ、仕事を通して広がる人間関係の面白さを語ってくれた。

仕事は、もちろん生活に必要なお金を稼ぐために行うものなのであるが、仕事を通して他人と関わることで必然的に人間関係が生まれるものである。人間関係は、すなわち、友人は、いないよりいたほうが良い。wikipedia先生によると、バルザックは「孤独はいいものだという事を我々は認めざるを得ない。けれどもまた孤独はいいものだと話し合う事のできる相手を持つことはひとつの喜びである」と言っていたようであるが、まさにそうだと思う。経験を語り合える他者の有無は、人生の質を大きく変える。

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私は、恋人や配偶者はいなくてもいいけれど、友人は欲しいと思う。恋人や配偶者を作ることよりも、友人を作ることのほうが何倍も難しいと感じる。なぜなら、私にとって友人とは、他人と距離を取ることができる人であり、これは案外難しいことだからだ(自分にとっても他人にとっても)。

恋人や配偶者は、いわゆる「距離が近い存在」であり、世間でもそれが望ましいとされているが、恋人同士や夫婦関係においては、一方が一方を一方的に搾取してしまうということがよくある。己の欲望━それも非常に幼児的で原始的な、寂しさの穴埋めや不安の解消や性欲・自己顕示欲の充足等━に忠実になる余り、一方が一方をすっぽりと包み込んで、支配・管理してしまうことが起きがちである。その結果として、DVやモラルハラスメントが生じがちである。

一方が一方を取り込んでしまい、意のままにコントロールしようとすることは、親子関係や上司部下関係や師弟関係においても往々にして生じるものであるが、とりわけ、恋人同士や夫婦関係において、顕著なのではないだろうか。もしもこれが事実なのであれば、このことはおそらく、これらの関係が「自分を全面的に受け入れてくれる存在同士の結合」と一般的に理解されており、「自分を全面的に受け入れてくれること」を堂々と求めることが、これらの関係においてなら当然許されると当事者達に考えられていることに起因しているのではないだろうか。そして、自分を全面的に受け入れてくれるはずの親密な他者が、いざ自分の意のままにならないという状況が発生すると、そのことに起因したショックと怒りで、DVやモラルハラスメントがなされてしまうのではないか。この場合、DVやモラルハラスメントは「自分を全面的に受け入れてくれること」を拒否する者への報復・復讐であり、「自分を全面的に受け入れてくれること」を強要する行為ともいえそうである。

独りの人間として他人と距離を保ちつつ付き合うこと。これができないまま、客や上司といった、自分が低姿勢で接すべき他者との付き合いの作法ばかりに習熟し、ステータス(容姿や年収や年齢や妊娠可能性や出自等)のみを重視して、うっかり恋人関係や夫婦関係を形成してしまうと、地獄を見ることになると思う。

親密な仲であっても、それなりの距離を保ちつつ、堂々と自分の意見を述べ合ったりできるような、そのような関係が、私の理想だ。

小倉で最後にお会いしたお二人の関係が、まさにそうだと私は、実は昔から考えており、この関係に羨ましさを感じていた。本当に久しぶりに、おそらく8年ぶりぐらいにお会いできたのだが、二人とも全然変わっていなかった。またお会いして、この距離感を味わってみたい。

近所のラーメン屋で奢ってもらった後、小倉駅まで車で送ってもらった。小倉駅からまたまた文明の利器を使って博多駅へ。そこから天神駅へ。バスに乗り、次の目的地に私は向かった。

九州での滞在で、だいたい最後にお会いする友人は、「人が生きる虚構」と「その虚構の様態に何かしらの方向性を与える脳の基盤的な仕組み」に並々ならぬ関心を持つ人であるため、会う度にいつも、上記テーマに関する膨大な量の情報を受け取ることになる。受信者としてのこちらの脳の性能の悪さにより、情報の取りこぼしや誤解が多いのだが、友人との対話の結果、私が自分の頭に巡らせることができるようになった語りを、以下に列挙しておく。

人文科学系の学問の存在意義とは、「何かの役に立つ」というものではなく、過去現在未来にわたるテレコミュニケーションを可能にする点にある。時空を超えて、他者に宛てられる、対話への誘い。そこから何かが生まれることもあるかもしれないが、それが目的なのではない。あくまでも、未知の可能性に満ちた時空を超えた対話の試み。

現象の背後に、何らかのエージェントの存在を読み込んでしまう人間の性質は、かつて森林で暮らしていた人間の祖先が、彼らを狙う捕食者から命を守るために、捕食者を察知しようとして発達させた能力に基づいている。捕食者が実際は存在していないにも関わらず、捕食者を察知して逃げたとしても、失うものは何もないので、このような捕食者察知システムを持つ人間は、そうでない生き物よりも、より生き残ることに長けていたと考えらえる。捕食者察知システムは、人間の生存可能性を高めると同時に、神や精霊や幽霊などの存在を感じさせることも可能にし、アニミズムや宗教の起源といえる。というようなことを、パスカル・ボイヤーやダネットやドーキンスあたりが書いている。

ラッセルによる床屋のパラドックス。自分を、集合の内と外の両方に置いた語りには、必然的に矛盾が生じる。

統合失調症は、どの地域でもどの時代においても、ある一定の割合で発現する。統合失調症には、特定の遺伝子と特定の物質が関与しており、特定の物質の摂取量が不足した場合に、統合失調症が発現する。統合失調症の原因となる遺伝子は、類稀なる創造性の源泉でもある。ある時期に、人類の石器が急激に進歩した背景には、この遺伝子の関与が推測される。統合失調症の発現のトリガーとなる遺伝子の働きを抑制する物質は、魚介類に多く含まれている。DHAがそれである。海沿いで長らく生活してきた人類は、魚介類からこれを摂取して統合失調症を抑制し、創造性だけを享受することに成功してきたと考えられる。つまり、魚を食べると統合失調症にならずにすむのである。統合失調症の発現メカニズムの説明としては、ベイトソンによるダブルバインド理論があるが、統合失調症へと至るプロセスは一つではないといえる。というようなことが、『天才と分裂病の進化論』に書かれている。

比喩的な論理の体系に依拠して思考する他者を、説得する方法としては、以下の2つが挙げられる。①比喩的な論理の体系において予見されていた論理的帰結が、実際には生じないことを立証する。②別の比喩的な論理の体系で、他者が依拠する比喩的な論理の体系を包含してしまう。

たとえば、住居内の特定の位置に置かれた水甕を移動することについて、「水甕を移動させることは、妻を引き抜くことであるので、水甕を移動させてはいけない(もしも水甕を移動してしまうと、妻が災厄に見舞われるので、水甕の移動はすべきではない)」と語り、水甕の移動を禁ずる人々に対しては、以下のような説得方法が有効である。①実際に水甕を勝手に動かした人々に、何も災厄らしき出来事が生じないことを目の当たりにさせる。②ムハッソ(万能薬的呪物)の使用により、全ての災厄を駆除できると説く。あるいは、キリスト教の呪術により、水甕の移動に起因して生じる災厄を、無効化できると説く。

人類学的な知見をコンサルに生かして業績を上げているRed Associates」を模倣し、人類学的な知見を利用した商品開発をするなら、どのような商品が開発可能か。というブレインストーミングを試みにしてみた。

提案1:憑依霊の絵のアイディアを、コンテンツ大国である日本からケニアに輸入。→憑依霊の定着がなされていないと、憑依霊の絵が描かれることはないので、いきなりアイディアだけ輸入しても意味がない。却下。

提案2:どんな災厄をも無効化するスーパームハッソの販売。→ムハッソが既に存在しているので意味なし。却下。

提案3:儀礼マニュアルの販売。近年、農村から都市への人口流出と施術に詳しい高齢者の死亡に伴い、儀礼の手順に関する知識が、農村地帯において伝承され難くなっている。そこで人類学者が現地の人に儀礼マニュアルを作成して販売する。→需要はあるけど、なんかしょぼい。却下。

そもそも、Red Associatesの行っている商品開発支援事業は、人類学の知見にどれほど基づいて行われているものなのだろうか。人類学が商売に役立つということの証拠としてRed Associatesの事例を提示し、「人類学なんて役に立たない」と述べる論者に反論することはできそうであるが、「人類学は商売に役立つ」という点を強調することにより、人類学を含む人文社会系の学問のコア・核(時空を超えたテレコミュニケーション)が、深く傷付けられてしまうのではないだろうか。

ダブルバインドを会話から極力除こうとするオープンダイアログという試み。報道の自由度ランキングにおいて上位に位置するフィンランドでは、もしかしたら、嘘や矛盾や欺瞞を恥ずべき行為として慎む態度が国民全体で共有されていたのかもしれない。だからこそ、オープンダイアログという試みが、フィンランドにおいて誕生することができたのかもしれない。しかし、日本にも、三度の飯よりミーティングを重視する「べてるの家」での会話実践が存在しているので、報道の自由度はあまり関係ないのかも。とはいえ、オープンダイアログとべてるの家での会話実践は全く同じではないはずなので、まずは両者の比較を正確に行う必要があるが。

2015年3月28日

当初、17:00出発のスカイマークの航空券を購入していたのだが、「午前中の便に変更してくれないか」というメールがスカイマークから届いたため、私はそれに応じた。スカイマークも経費を削減するために一生懸命なのだろう。本当はもう少し九州に長居したかったのだが、私は12:25の便で沖縄に帰った。便変更に応じてくれたお礼として、スカイマークのカウンターで5000円をいただいた。

那覇空港到着後、お腹が空いていたので、迷わず4階の「天龍」に向かう。沖縄そばセットを平らげて満足。「天龍」は美味い。「天龍」大好き。その後、空港からモノレールで首里駅まで移動し、40分ほど歩いて、家に帰った。

来年の3月も、また九州に行きたい。