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シーミー

http://www.city.nanjo.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/t100418DSC_0011.jpg

今年もシーミーの季節である。祖母、叔母、父、母、弟、私の、6人で墓参り。識名の墓所の風景は、30年前から変わらない。時が止まったように、同じままだ。

93歳になる祖母を施設からお連れして、車椅子に彼女を乗せたまま、墓へ。時刻はお昼過ぎ。雲一つない天気だったため、日差しが射るように痛い。墓上に設置されている鉄の輪っかに紐でブルーシートをくくりつけ、それで墓を上空から包み込むような形で、急ごしらえの屋根を作る。人が5~6人入ることのできる日影が確保できた。

線香に火を点け、しばし手を合わせた後、食事へ。サンエーに注文していた重箱には、三枚肉や昆布やカマボコやてんぷらが満載である。値段は4000円。なかなか高い買い物だ。お祈りの後、わいわいがやがやとお喋りをしながら、水を注いでもらいながら、箸と口を盛んに動かす。

昔から行っていることなので、何の疑問もなく参加しているシーミー。参加者によって、死後の世界や、先祖の霊の存在が固く信じられているわけではないが、長らく続いている行事。「あ。4月も半ばだ。そろそろシーミーだね」という母や祖母の台詞で、いそいそと準備が始まる、定番の行事。他に説明はいらない。そういう意味では、クリスマスやお正月などの行事に近いノリがある。

しかし、これらとは幾分違って、無下にできない何かのある行事がシーミー。

親族の紐帯を深める機能。確かにそのような機能はあるかもしれない。どのようにしてその機能の存在を証明できるのか分からず、かつ、昔の人類学者がなかば盲目的に指摘しそうなありふれた内容の指摘なので、あまり面白くない指摘なのであるが、親族の紐帯を深める機能という仮説は、確かめてみる価値のある仮説だと思う。今のところ、肯定もできないが、否定もできないように思う。親族の紐帯の深さを表す指標を操作的に作り出して、シーミーをする親族のそれと、シーミーをしない親族のそれを比較すれば、この仮説の正否を確認することができるであろう*1

一昨日視聴したテレビ番組で、恋愛テクニックとしての認知的不協和理論が紹介されていたので、思い付いたのだが、認知的不協和理論を使って、シーミーを説明することもできるかもしれない。すなわち、

認知1:シーミーは面倒くさい。意味あるのこれ。
認知2:私はシーミーに参加している。

 

という認知状態が、

 

認知1:久々に親戚が集合するので、それはそれで楽しい。親族の絆も深まる。
認知2:私はシーミーに参加している。




認知1:シーミーには意義がある。4000円の重箱を食べられるから。
認知2:私はシーミーに参加している

 

などの、「シーミーには意義がある」という方向の認知に変化する、というようなことも、シーミーの現場について指摘できることなのかもしれない。

経済の側面から考えても、シーミーがないよりも、シーミーがあったほうが良いといえそうだ。もしもシーミーが廃れたら、4000円もする重箱がサンエーなどのお店で売れなくなってしまう。これによる経済的損失は計り知れない。沖縄における有権者の数は100万人。仮にその半分の50万人がシーミーを行い、4000円の重箱を近所のスーパーで購入するのだとすると、4000円×500000人=2000000000円、つまり約20億円が沖縄で動くことになる。

などと、三枚肉を頬張り、家族を眺めながら考えていると、我々がシーミーをしている墓から5メートルほど離れた道路を、人がこちらをちらちらと見ながら、通り過ぎていく。シーミー中、何人もの人が、墓のそばの道路を通り過ぎていくのだが、皆必ず我々をちらちら見ていく。好奇の目というわけではない。いとおしそうな、笑っているような目をして、通り過ぎていく。何だか、「いいね!」を押されている気分。

もしかして、シーミーって、フェイスブックで「私、こんないけてるの」的写真をアップする行為と、同じなのではないか。「親族がこんなにいて、繁栄していて、どーだ楽しそうだろー」というメッセージを発する行為なのではないか。

今回、シーミーの場には子どもはいなかったのだが、子どものいるシーミーは、大変にぎやかで楽しそうに見える。重箱をつつく大人たちの間を、小さい子がよちよちと歩き回る風景は、見ていて微笑ましい。お墓で楽しいピクニック。これがいいねされないはずがない。そういう意味で、シーミーは、自慢行為・ひけらかしといえるのかもしれない。

しかし、これは、表面的な分析であろう。なぜなら、あくまでシーミーの目的は、ご先祖様への挨拶・祈りだからである。まずは、現地の人による説明に耳を傾けるべきだ。

シーミー参加者の多くは、ご先祖様の霊などをありありと感じるタイプの人ではなく、「シーミーにはなんか知らんけど毎年行くことになっていて、シーミーの時にはなんか知らんけど手を合わせて、なんか知らんけど食事して、帰る」だけの人なのだろう。しかし、シーミーのメインの目的は、ご先祖様の霊に祈ることである。これは無視できない。

進化心理学者によれば、神や精霊や幽霊などといった存在は、人類が長らく狩猟採集生活を森で営んできた際に獲得された、「捕食者察知システム」の産物なのだという。何かに自分が狙われているかもしれない状況で暮らしていた人類の祖先のうち、たとえ捕食者がそばにいなくとも、捕食者を勝手に想定して退避行動をとる個体が生き残ってきたということである。森羅万象の中に、人間のような行為者を、勝手に感じ取るシステムを発達させた個体が、そうでない個体よりも、捕食者溢れる森で生き残ることができたのだが、このシステムが、神や精霊や幽霊などの存在を人類に感じさせているというわけだ。

この説が正しければ、シーミーの目的とされる、ご先祖様の霊とやらも、この、人類が獲得してきた「捕食者察知システム」の産物の一つということになる。ただし、ご先祖様の霊は、元々人間であるので、子孫である我々は、人と接するようにご先祖様の霊と接することになる。シーミーをしないと、ご先祖様の霊が寂しがる。そして、寂しさ故に怒る。皆に関心をもたれなくなったご先祖様は、寂しさに起因した怒りにまかせて、やがて子孫に悪さをするようになる。沖縄では、病気や事故などの不幸な出来事が発生すると、その道のプロから、「あんたそれ御願不足(うがんぶすく)よ~」と言われることがある。ご先祖様の霊に十分にお祈りしていないからこうなるのだということである。ご先祖様の霊とやらは、なんて嫌な奴なのだろう。あまりに器が小さい。しかし、無理もない。ご先祖様の霊は、元々人間だから仕方がない。

このように考えると、シーミーの目的はご先祖様の霊に祈ることなのであるが、シーミーとは、無視すると寂しさ故に怒り悪さをしてくるような、あまりにも人間的な、いや、人間そのものである存在、つまり他者との、人間関係を調整することの重要性が、実は学ばれている場といえるのではないか。

そして、シーミーは、他者にとっての他者である自分自身の欲望が、承認されることをも保証する行為といえるのではないか。ご先祖様の霊に「元気?」と声を掛けることは、ご先祖様以外の他者にも「元気?」と声を掛けることを自分にも他人にも促すかもしれない。人は他者の行為を見ているだけで、学習を行い、他者の行為を模倣するようになるという話は良く知られた話である。シーミーを行う自分を見た周囲の人々は、「他者に関心をもたんといけんな」と模倣学習し、ご先祖様の霊だけでなく、その他の他者との交流にも、つとめるようになるのではないか。そして、この循環の中で生きていれば、他者から関心をもたれるという恩恵を、いつか自分自身も受けることが、より実現しやすくなるであろう。

さらに、シーミーをする我々のそばを、いとおしそうな、笑っているような目をして、通り過ぎて行った人々。彼らは、上記のような模倣による学習を経て、他者に関心を持たんといけんなと思うと同時に、「あんな風に家族・親戚で集まってわいわい食事することができていいな。楽しそうだな」と思うのではないか。そして、それは、自分もそのような関係を持ちたい、そのような関係に恵まれていたいという欲望に基づいた感想なのではないか。つまり、シーミーをする我々を見た人々は、自分達もシーミーが盛大にできるほどの家族・親族が欲しいと、欲望するようになる、とはいえないか。

何か話がまとまらなくなってきたのだけれど、要するに私は、「シーミーという行事は、人は独りだと寂しいので、ちゃんと互いに関心を持つべきだという教訓が学ばれ、かつ、自分も家族や親戚を作りたいという動機が育まれる場なのである。シーミーは、「親族の絆を深める」や「経済を活性化させる」という機能のみを備えているのではなく、生きるために他者を必要とする人間という存在の根源的な欲望に結び付いた、あるいは、それを刺激して自分の家族・親族を作ろうという動機を醸成する「親族永続システム(relative perpetuation system)」なのではないか」という読みを、ささやかに提示したいのである。

また、「シーミーという対象を位置付けることができることの可能な文脈は、「経済の活性化」や「親族の紐帯の強化」の他にも必ずあり、これらを余すことなく列挙して、そのようにして列挙された様々な文脈が織りなす結節点としてのシーミーという視点」もあわせて提示したい。シーミーを、2つか3つの機能をそれに割り当てて説明完了とするのではなく、シーミーを貫く様々な因果関係を可能な限り把握して直線で図示し、あらゆる角度から引いた直線がシーミーという一点で重なりあって、球体あるいは点のようになったシーミーを、3D画面でころころと転がして眺めるような視点。「シーミーを、様々な因果関係の結節点として説明できたからって、何が得られるの?なにもく?*2だれとく?*3」と突っ込まれるかもしれないが、シーミーという現象を貫く因果関係の重なりの密度をひたすら高めていくこと自体の面白さ。これも強く訴えたい。

多分、ありきたりな内容の分析だけど、今回のシーミーでこのようなことを思いついたので、もったいないので書きつけておく。なんか、もっと面白くて、意外な内容の分析ないのかな。実はシーミーは地球温暖化をくいとめていた、実はシーミーはフィボナッチ数列と合致する頻度で行われていた、実はシーミーは衛星エウロパにおける重力変動と水分子結合の度合いを規定していた、というような*4

*1:いや。この比較では不十分だ。この比較で判明することは、「シーミーをする親族と、シーミーをしない親族のどちらが、親族の紐帯が深いか」であり、「シーミーをすれば、親族の紐帯が深まるかどうか」ではない。たとえば、比較の結果、シーミーをする親族のほうが、シーミーをしない親族よりも、親族の紐帯が深いことが分かったとしても、「シーミーをしたから親族の紐帯が深まったかどうか」までは分からない。「シーミーをすれば、親族の紐帯が深まるかどうか」という問いに答えるには、臨床試験さながら、親族の紐帯の深さをも含めた、属性や特徴に違いのない2つの集団を用意し、一方にはシーミーを行ってもらい、もう一方にはシーミーを行わないようにしてもらい、後ほどこれらの集団における紐帯の深さを計測し、これらを比較する必要がある。

*2:何の目的?

*3:誰が得するの?

*4:シーミーのような、「儀礼的」という言葉の似合う営みに、ことさら機能を読み込んで、その存在意義をわざわざ語ろうとすること自体が、ただ無為に存在しているだけのものに価値を認めない「近代的な価値観」に基づいた、貧しい営みと見えなくもない。しかし、シーミーを、今まで誰も考えもつかなかった観点や切り口から、未だかつてない異なる仕方で説明することには価値があると私は考える。なぜなら、面白いから。単純に興奮するから。