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2015年の黄金週間のまとめ

朝8~9時頃に起床してトイレ。洗面所へ移動し、洗顔とうがい。その後、朝食として麦茶とスナックパンbyオキコと納豆を食べ、歯磨き。洗濯物を干し、庭の花木や稲の苗床へ水を遣り、自室でメールチェック。そのまま12時頃まで講義準備を行い、12:30頃に台所で父と一緒に昼食の調理。それを食べてしばし休憩。14時頃から再び講義準備。15~16時の間に昼寝をし、16:30から17:30まで島らっきょ畑で父と草刈。帰宅後、洗濯物を取り込む。18:30頃から、父と一緒に夕食作り。夕食後、20~21時頃から塾の仕事。塾から帰宅後、22:30頃から行政書士の勉強。23:30時頃から筋トレ。24時頃就寝。

というような、イージーモードのエブリディを送っている私は、黄金週間というものの有難さを、もはや感じることができなくなっている。しかし、それなりに気が緩み、黄金週間には、以下のような映像に見入ってしまった。以下、それぞれの動画について感想を詳述。

桃太郎 by水曜日のカンパネラ

ツイッターで偶然見かけた動画。昔話でおなじみの桃太郎を、現代風にポップに楽しくアレンジしたものであるが、引きこもりやニートの社会復帰問題を隠喩的に表現しているように思える問題作。

鬼を退治するために鬼ヶ島へ行くことを命じられる桃太郎。冒頭で描かれるのはその際の動揺である。やがてその経緯が明らかにされていく。

自作の桃型ラジコンの取り合いで、祖父や祖母と対立し、鬼退治を命じられた桃太郎。自宅に引きこもる桃太郎とは対照的に、鬼達は、お祭りやラジオ局や居酒屋やクラブで楽しく活動する存在。ここから、鬼達は労働(あるいは社会)を象徴するものであり、祖父と祖母は、そこへ参与することを桃太郎に求めていることが読み取れる。

途中、桃太郎が、祖父と祖母と共にきびだんごの集荷作業に従事する場面が登場するが、これは桃太郎の労働への参画を希望する、祖父と祖母の心象を映像化したものといえる。

一年かけて筋トレし逞しい身体を作り上げた桃太郎。しかし、鬼ヶ島に行く勇気が持てないでいる。いつのまにやら角が生え、鬼達の仲間に加わっている祖母。ここから祖母の、有無を言わさず桃太郎を労働に向かわせようとする強固な意志が感じられる。

自作の桃型ラジコンが頭に激突したことを契機にとうとう踏ん切りがついたのか。家来のきじに乗り、いざ鬼ヶ島に向かう桃太郎。行く手にそびえる鬼達と鬼化した祖母。「あー!」という雄叫びと共に鬼ヶ島へ突入していく桃太郎の運命はいかに。「PCエンジン」や「メガドライブ」、ファミコンの「桃太郎伝説」で重宝する術である「ろっかく」、そして一世を風靡した高橋名人による「16連射」。昭和を彷彿とさせるワード満載の、続きが気になる秀逸な、現代の寓話であった。

パッキオとメイウェザー二人の男による殴り合い

ボクシングというものを私は普段は見ないのであるが、テレビやラジオで話題になっていたので、WOWOWの契約をしていることもあり、パッキオとメイウェザーの対戦を鑑賞した。

2人の男が殴り合っている。グローブとマウスピースをして3分ごとに。このような感想を抱いた。そして、殴り合いをわくわくしながら鑑賞している自分や他の観客を面白く思った。

スポーツという言葉は、暴力を暴力ではないものとして見ることを可能にする魔法の言葉だと思う。いくらグローブしてもマウスピースしても、屈強な男の全体重をかけたパンチを顔面にくらえば、痛いであろう。顔が変形するだけでなく、運が悪ければ障害が残り、最悪の場合、死んでしまうこともある。通常であれば、暴力行為として法で禁止されてしかるべき行為が、大きな歓声を受けて皆に鑑賞されている風景は、やはり不思議と言わざるを得ない。

スポーツという言葉と似た言葉に、訓練や仕事や冗談や遊びや躾や悪ふざけや悪戯がある。これらも、暴力を暴力ではないものに変える。通過儀礼、とりわけ割礼もそうであろう。もしかしたら治療や愛情表現もそのような言葉なのかもしれない。良くも悪くも、これらの言葉は、暴力を暴力以外の別の何かとして受け取らせることを可能にする。これらの言葉は、暴力を暴力として指摘することを控えさせる。これらの言葉により、世界の見え方がリフレーミングされる。ウィトゲンシュタイン風に言えば、これらの言葉で、アスペクトが変換される(見えが変換される)。ウサギにしか見えなかった絵が、アヒルに見えるようになる。

もちろん、私もこれらの言葉の魔力から完全に自由でいられるわけではない。私はパッキオとメイウェザーの殴り合いを、暴力として見つつ、そうではないものとしても見ていた。「いくら両者の同意のもとで行われているとはいえ殴り合いは殴り合いなので見ていて痛そうだな大丈夫かメイウェザー殺されてしまうんじゃないか」と思う一方で、「いけいけパッキオやっちまえおおいいパンチだ凄えプレッシャーだそうだそこそこラッシュだメイウェザーウナギみたいにするする逃げるな」と熱くなっていた。つくづく二重性を生きているなと思う。ウサギとアヒルが交互に見える。見えがこのどちらかに振り回されている。

さらに、他の見方も可能かもしれない。殴り合いを商売にする2人の男。彼らをとりわけ貧困と結び付けて語れば、「劣悪な貧困生活を余儀なくされたが故に、生きていくため選択の余地なく、兵士や警官や暴力団員にならざるを得なかった人々」という見え方が可能になる。誰が好き好んで殴り合いをして金を稼ぐであろうか。貧しさ故に、他の選択肢がなく、殴り合いしか選べなかったからであろう。そういう意味では彼らは貧困の犠牲者、被害者に見えてくる。

しかし、当の本人達はこのような物語に全く説得力も魅力も臨場感も感じないであろう。それでいいのだと思う。彼らは一試合で何億円も稼ぐ。怪我や障害や死亡のリスクを払いつつも、莫大な富を得ている成功者といえる。そこに後悔や憤りや恨みはないはずだ。

己の生き難さを説明するための物語を選び取ることは、本人の意志でしかできないことなので、生き難さを全く感じていない人には、上記のような構造的な暴力の物語は無用であろう。ただ、いざ生き難さを感じた時には、上記のような物語で、彼らは自分自身を説明するようになるのかもしれない。

というようなことを考えながら、私は試合を鑑賞した。

自閉症の僕が飛びはねる理由

NHKで偶然、興味深い番組を視聴した。自閉症の日本人男性が書いた本が英訳され、世界中の自閉症当事者達に読まれ、絶賛されているのだという。そのほとんどは自閉症の子を持つ親であり、この本を読み、子の気持ちが初めて理解できたと述べているのだという。

自閉症の日本人男性の名は東田という。彼は、自閉症者にしては珍しく、言語表現力が発達している。その彼が、自閉症者に見える世界を言葉で表現することにより、自閉症である子を持つ親達とグローバルにつながっていく。人と目を合わさない。突然飛び跳ねる。頭を壁に打ちつける。自閉症と診断された人々には、健常者には理解できない、共通の行動様式がある。自閉症である東田さんが本で著した、これらの行動の意味の解説・説明が、自閉症当事者達によってグローバルに受け入れられているのである。

『喪失と獲得』において、ニコラス・ハンフリーという進化心理学者が、3万年前に描かれたショーヴェの洞窟壁画と、ナディアという名の自閉症者の描く絵を比較し、その類似性から、3万年前の人類の脳と、自閉症者の脳のあり方の相同性を主張していたが、これを読んだ時と同じような感動を私は覚えた。脳の傾向が同じという点で、時空を超えて人がつながるという感動。言語を獲得していないという点で、壁画を描いた人類と、ナディアは共通しており、目で見たものをそのまま記憶し、それをそのまま絵として彼らは描く。脳そのものの機能・働きが、剥き出しで裸のまま、絵に現れているといったらいいだろうか。もはや、文化というものを一切無視していい気にさえなる状況である。脳のあり方が直接的に絵で表現されている。文化の干渉が皆無の状態。

クラウド・アトラスの原作者のミッチェルさんにとって、自閉症の息子の行動は、これまで苛立ちと怒りの引き金でしかなかった。しかし、東田さんの本を通して、自閉症の息子による行動の意味を感得し、寛容を得ることができたのだという。息子の行動が、息子の脳の仕組みや動きや構造に基づいて必然的に導き出されたものであり、それなりの意図を伴ったものとして見えるようになれば、救われるものがあるということなのだろう。不可解で理解不能なものが、納得のいく理解可能なものになることがもたらす癒し。説明によって与えられる安堵。そういうものが確実にあるのだ。

「文化というものを一切無視していい気にさえなる」と、先に私は書いてしまったが、むしろ文化なるものの出番はこれからなのだと思う。東田さんが執筆を通して行っている、自閉症者の行動の意味を説明するという仕事は、文化の管轄だからだ。これは言語でしか成し得ない作業である。言語は人間が作ったものであり、先天的というよりも後天的なものである。つまり文化なるものの範疇にある。東田さんは、自閉症と呼ばれる独特の脳から導き出される言動の翻訳に欠かせない辞書を編纂しているといえる。彼は異文化の翻訳者なのだ*1

飛び跳ねてしまう自閉症者は、もしもマサイ族に生まれていれば、異常視されることは少なくなるのではないだろうか。なぜなら、マサイの人々の間では、高く飛び跳ねることは男の証であり、誇るべきことだからだ。なぜ、マサイの人々の間に、このような文化・価値観が育ったのかは謎であるが、マサイに生まれた自閉症者にとって、マサイの文化は、いわゆる近代的な工業社会のそれよりも、居心地の良いものであることが推測される。飛び跳ねることに高い価値が付与されたマサイの文化は、突然ついつい飛び跳ねてしまうという、自閉症者の脳に合った文化なのではないか。

東田さんが執筆を通して行っていることは、上記のような新しい見方、解釈枠組み、新しい価値、文化、アスペクトを作り出すことといえる。自閉症者の脳のあり方から導き出された行為に、意味を付与していく作業は、自閉症者の脳に最適な文化の形を明らかにし、新しい文化・価値観を創造することといえるであろう。今は、自閉症者の行動が、矯正すべき異常なものとみなされないですむ文化が、グローバルに創出されようとしている過渡期にあるのではないかと思う。

ところで、東田さんが愛用していた文字盤は、非常に魅力的であった。この文字盤は、東田さんの断片化しがちな記憶をつなぎとめ、思考を一点に収束させる「鋳型」として機能する合理的かつ実用的なデバイスなのであろうが、私には、こっくりさんを呼び出す不思議な文字盤のようにも見え、科学的かつ呪術的かつ感動的な物体に思えた。

*1:もちろん、東田さんの本が世界中で読まれるようになったことは、もう一人の翻訳者であるミッチェルさんという存在があってのことである。ミッチェルさんが東田さんの本を見つけ、読み、感動しなかったならば、この本が英訳されることはなかったに違いない。