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責任についての今日の思い付き━こんにゃくゼリー訴訟の事例より

人類学

知事選以来、「責任」について考えている。

今回は、「こんにゃくゼリー訴訟」に関する資料から得た着想を記しておきたい。

こんにゃくゼリー訴訟の争点

 客観的な統計資料からみれば,こんにゃくゼリーの窒息事故は,食物による窒息死亡事故数(平成7年から同19年までの合計)で全食物中の0.04パーセント,事故発生確率で0.8ないし1.8パー セントにすぎず,むしろ,我々が通常食している「もち,ご飯(おに ぎりを含む。),パン,粥,あめ,団子」といった食品の方が,こんにゃくゼリーよりも余程窒息事故の発生率が高く,もちはこんにゃくゼリーの9.6ないし30.3倍,ご飯(おにぎりを含む。)は7.6ないし9.3倍,パンは5.8ないし14.3倍,流動食でさえ1.0ないし4.3倍の事故発生率であるところ,こんにゃくゼリー以外のこれらの食品に関し,欠陥食品であるとか,危険性の高い食品であると主張する者は一人もいない。 そして,どんな事柄であってもリスクを0にすることはできず,どんな食物であっても,その食し方によって窒息のリスクが高まり,窒息事故を起こすことになるのであって,こんにゃくゼリーだけが窒息のリスクを有しているのではなく,しかも死亡事故数,死亡に限らない事故発生確率の双方からみても,こんにゃくゼリーは,むしろ他の食品よりも安全性が高いのであり,少なくとも通常有すべき安全性を有していることは,これら統計資料からも明白である。

上記は、下記のこんにゃくゼリー訴訟に関する裁判記録における、被告会社による主張である。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/901/080901_hanrei.pdf

「1歳9か月(当時)の子がいわゆるこんにゃくゼリーを食べた際にこれをのどに詰まらせ死亡した事故につき,両親がこんにゃくゼリーの設計上の欠陥による製造物責任及び不法行為に基づく損害賠償を製造会社等に対し求めた」という旨の判事事項の要旨からも分かるように、裁判では、「こんにゃくゼリーという製品に欠陥があるか否か」が問題となっており、「こんにゃくゼリーなるものを被告が製造したこと自体」は問題になっていないことが読み取れる。

しかし、原告には当初、後者の問題意識があったのではないだろうか? 私にはこのように思えてならない。当初原告は「こんにゃくゼリーなるものを被告会社が製造したこと自体」を問題視していた。しかし、この問題意識を裁判の場にふさわしいものとして加工した結果、すなわち、この問題意識をPL法の論理に合わせて修正した結果、「こんにゃくゼリーという製品に欠陥があるか否か」という争点を打ち出さざるを得なくなった━━。このような形で物事が進んだという可能性はないだろうか?

裁判記録によれば、亡くなった子は不妊治療の末にやっと産まれた子どもだという。こんにゃくゼリーの誤嚥によって、最愛の子を亡くした原告らは怒り狂い、なぜこんなことが起きてしまったのかと嘆き悲しんだに違いない。訴訟は、この怒りと悲しみの感情が原動力となって、引き起こされた。そして、原告らの弁護士は、あくまで裁判で勝つために、言い換えれば、原告らの怒りを裁判で通用する言葉に翻訳するために、PL法の文法に沿った主張を行うことを原告らに提案した。しかし、この提案は、むしろ原告らの感情に蓋をし、かつ、「法律的には無罪」という判決により被告会社が全面的に免責されることを可能にすることで、原告らの感情の問題の解決を永遠に遠ざけてしまった。ことの顛末を私はこのように想像してしまう。

PL法は、良くも悪くも、「製品の欠陥の有無」に話を限定してしまう。原告らは、自分達が抱えた抑え切れない怒りと悲しみの感情を、PL法に沿って語りたいわけでは決してなかったはずである。PL法の文法に沿って、かつ、裁判という形で、原告らと被告会社が向かい合うしかなかった点に、根源的な不幸があるように思えてならない。

本当に必要な作業

裁判記録に下記のような記述がある。

 原告らは,本件事故により,慈しみ育ててきたCを理不尽な原因で突如として失った上,主治医からCが脳死状態(植物状態)であることを告げられた平成20年8月12日,被告会社の関係者に本件こんにゃくゼリーによって植物状態になったCを直接見てもらいたいと思い,被告会社に対し電話をしたが,被告会社はその後も全く連絡をしてこず何らの対応もしなかったのであり,被告らに対し,強い怒りを持っている。

なぜ原告らは被告会社に植物状態の子を見に来ることを求めたのであろうか?この理由は明記されていない。この電話連絡は係争中の出来事であったのか、それとも、係争前の出来事であったのかも定かではない。

しかし、原告らは「あなたたちのせいでこうなった」と被告会社に言いたかったと推測することは間違いではないであろう。「原告らには裁判を有利に進めたいという意図があり、罪悪感を被告会社に感じさせたかったから」という推測も可能であるが、上記の出来事が係争前なのか係争後なのかが定かではないため、この推測には説得力がないといえる。

少なくとも上記の原告らの主張から読み取れることは、原告らが「今回の誤嚥事故が生じたこと」と「被告会社」との間に、明確なつながり、関連、結び付きを見ており、このことを、被告会社に第一に認めて欲しかったことである。原告らは、今回の誤嚥事故と被告会社に関係があると判断したからこそ、誤嚥事故の犠牲者である彼らの子が入院する病院に被告会社を呼んだのである。

原告らが被告会社に求めたであろう「誤嚥事故と被告会社の関係を認めること」は、「ことの重大さを被告会社に受け止めてもらい、悲しんで欲しい。悔いて欲しい。謝罪の涙を流して欲しい」ということと言い換えられるのではないか。これが最も原告らが求めていたことではないか。いや。求めていたというよりも、とにかく被告会社と会って何かを話さなければ解消されない感情が、植物状態の子を病院で看病する原告らを強く絡め取っていたはずなのである。被告会社は「面倒だ」と思ったのだろうか。それとも「怖い。どうしよう」と怯えたのだろうか。いずれにせよ、被告会社と原告らは直接対面し、お互いの生の感情をぶつけ合う必要があったのではないだろうか。そのような仕方で、原告らは、誤嚥事故という出来事が生じた「責任」を、被告会社に担って欲しかったのではないだろうか。

原告らが本当に言いたかったことは、「製造物に欠陥がある」という台詞ではなく、「今回の誤嚥事件とあなた方は決して無関係ではないのだから、出来事の重みと責任を、あなた方も感じてくれ」という台詞であり、そして、この台詞を被告会社が正面から受け止めることによって初めて可能になる、原告らの感情を鎮めるための共同作業がありえ、それこそが原告らにとって最も必要なものであった。私にはこのように思えてならない。

被告会社は原告らから電話を受けた時、原告らと正面から向かい合うべきだった。しかし被告会社はそれをせずに逃げた。もしも、この出来事が、係争前のものであったとしたら、おそらくこのような仕打ちを被告会社が行ったために、原告らと被告会社は裁判という形で向き合わねばならなくなったのではないだろうか。裁判という手段を用いることでしか、原告らは被告を呼び止めることができなかったのではないだろうか。誤嚥事故という出来事を無視し、そこからひたすら逃げようとする被告会社を引きとめ、自分達に向かい合わせるには、裁判という手段しか残されていなかったのではないだろうか。しかし、裁判で買っても負けても、原告らの感情を鎮める共同作業が行われない限り、原告らは救われないだろう。こんにゃくゼリー訴訟は、その意味で、非常に悲しい出来事だと思う。

専門家による分析

こんにゃくゼリー訴訟に関して、法律の専門家が興味深い指摘を行っている。少々長くなるが以下に引用する。

 高裁判決は、地裁判決の理由付けに加え、発生件数及び一口による発生頻度が、いずれも、古くから定着している餅と同程度以下であることからも責任はないとしました。

 (中略)

 食品安全の議論で用いられるよく用いられるリスク論は、たとえば、発がん性物資の摂取を日常生活でゼロとすることはできないことから、発がん性が極めて低いまたは無視し得ると思われる物質の消費・流通を規制することは、より高いものが規制されていない場合には無意味であるとするものです。

 高裁判決は、製造物責任について、このようなリスク論的な考え方をとったものであり、その点で注目されます。

 (中略)

 ただし、リスク論は規制の要否判断に用いられることは多いところですが、本件のような損害賠償請求の責任の有無判断に用いられた事例は初めてと思われます。

 本件では、欠陥があるなしを判断する基準が問題となりますが、高裁判決は「我が国の食文化として古くから定着している餅」を基準としており、これはリスク論者からしばしば主張される考え方で、裁判所がそれを取り入れたものと言えます。

 なお、餅が小売りされるときには、通常、こんにゃくゼリーと同程度に詳細な警告表示はなされていません。

 (中略)

 これについては、除去し得ない危険性が存在する製造物について、餅のように事故を防止するに適切な情報が一般的に知られている場合は、製造者がその情報を特段与えなくても「警告表示の欠陥」とはならないという考え方を、本判決は取ったとも考えられます。しかし、この問題について触れた文献や裁判例は見当たらず、今後具体的事件が生じたときに裁判所がどのような考え方を示すかはまだわからないところです。

こんにゃくゼリー訴訟では、被告会社によるリスク論的主張が、裁判において「正当」のお墨付きを受けた。そのため、今後もしも、「餅は窒息事故の発生確率が他の食品と比べて明らかに高い。かつ、警告表示の欠陥が指摘できる。これらより、餅は危険性の高い食品であるといえるので、餅の製造会社は餅による誤嚥事故の損賠賠償をせよ。」と主張する者が現れたならば、餅の製造会社は、裁判で負けてしまう可能性がある、ということなのであろう。

そうなれば、餅の製造会社はどのように反論するつもりなのだろうか? 餅の誤嚥事故の発生頻度や発生率が高ければ、もはやその危険性を否定することは不可能になる。

そして、もしも餅が最も危険な食品と裁判で断定されたならば、餅による事故発生率よりも事故発生率が低いという理由でこれまで安全とみなされてきたこんにゃくゼリーのような食品も、安全とはいえなくなる。餅よりも事故発生率は低いが、餅と同様に危険な食品とみなされ、これらの製造会社は損害賠償責任を負わねばならなくなるであろう。

NHKの時論公論によれば、製品の危険性という話題に関する世界的な流れは「本質安全」の方向へ進んでいるそうである。

そもそも、世界を見ると多くの先進国では、「表示には限界があり、誤った食べ方や想定外の使い方をされた場合でも、事故が起きないよう、製品そのものを安全に設計すべきだ」という考えに変わってきています。
ミニカップ入りのこんにゃくゼリーについても、こうした考えに基づき、多くの国や地域で、製造や輸入・販売を事実上、禁止しています。

リスク論的主張が裁判で市民権を得て、製品のリスクに人々が関心を持つようになり、「事故発生率が限りなく0の商品」が買い求められるようになれば、こんにゃくゼリーのような製品は、販売中止にされるかもしれない。

結論

「出来事の生起に関与していたこと自体の責任を求めることの正当性」と「事故の当事者達がそれぞれ責任を負うことで、初めて可能になる共同作業の行方」と「リスク論的主張が裁判や現実に及ぼす影響」。今回、こんにゃくゼリー訴訟に関する資料を読み解くことで、上記のような問題関心を私は得た。

法律は、被害者の感情を掬うべきではないのか。出来事の生起についてあなたは責任を負うべきだ。出来事とあなたは無関係ではない。PL法のような話法では掬い取れない、このような被害者の思いや物言いを、法律は無視したままでいいのだろうか。しかし、掬い取るにしても、それはいかにして可能になるのだろうか。

また、リスク論的主張が今後、裁判において利用されることで、何が引き起こされるのだろうか。事故発生率の低い製品で被害を受けた者は、裁判で負けざるを得なくなるのであろうか。それとも、世界的な「本質安全」の流れと合流し、日本でも事故発生率の高い危険な食品は販売されなくなるのであろうか。そしてその際には、食品が危険かどうかを判断する基準としての事故発生率の値は、どのように決定されるのであろうか。もしかしたら、事故発生率の計算方法の適切さが裁判で争われるという事態も生じるのであろうか。

非常に気になる話題である。これらの話題については、今後も引き続き情報をフォローしていきたい。