アクト・オブ・キリングの感想

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この映画では、いわゆる「加害者」が、己の行為に対して罪の意識を感じることができるようになるプロセス・メカニズムが描かれている。

共産主義者」の虐殺の演技を行うこと─アクト・オブ・キリング─に、当初は嬉々として従事していたアンワルは、次第に悪夢にうなされるようになる。悪夢とは、かつて自分が殺した「共産主義者」に苛まれるという内容の悪夢だ。

もしかしたら、アンワルは、アクト・オブ・キリングの営みに従事する前から、このような悪夢に、時折うなされていたのかもしれない(この点はうろ覚え。もう一度映画を見て確認したい。)

しかし、いずれにせよ、アンワルは、虐殺の演技を続けていくうちに、確実に罪の意識を強めていく。このことの裏付けとして、電車の中での場面が挙げられる。最も忘れることができない殺人を行った場所。そこへ移動するために乗った電車の中で、アンワルは、監督であるジョシュアに、「この映画を作りはじめてからというもの、悪夢にうなされる」という内容の告白を行う。アクト・オブ・キリングには、「加害者」に罪の意識を感じさせる効果があることが、ここから読み取れる。

なぜアンワルは罪悪感を感じるようになったのか。なぜこのような変化が起きたのか。

それは、アンワルが、アクト・オブ・キリングという虐殺の再現演技を通して、自らの虐殺行為を、文字通り虐殺行為として、対象化・客観視できるようになったからだと私は考える。自分自身を傍らから俯瞰するカメラのような視座。これをアンワルは意図せざるして、手に入れてしまったのであろう。

映画を作り始めた当初、アンワルは、「共産主義者はすぐに人権を求める」「人権?そんなものいらん」等と吐き捨てるように「共産主義者」を批判していた。ギャング映画やエルビスプレスリーに嬉しそうに言及し、いかに資本主義が素晴らしいかを説き、それを否定する「共産主義者」をひたすら卑下していた。このようなアンワルのようなプレマンにとって、資本主義を否定する「共産主義者」は、「殺してしかるべき人間、殺してもなんら問題ない人間」であった。

アンワルは自他共に認めるプレマンである。プレマンとは、フリーマン(自由人)という英語から生まれた造語であるが、要するに「ごろつき」である。賭博等の非合法な活動に手を染め、華僑からショバ代をせしめ、地域を仕切る「チンピラ」、あるいは、「ならず者」とも言ってもよい。しかしプレマンは単なるごろつきではない。プレマンとは、パンチャシラ青年団と呼ばれる、300万人規模の右翼的民兵組織の構成員なのである。アンワルは、資本主義を志向する国家の忠実な僕として、「共産主義者」を抹殺する活動に従事していた。かつて行った虐殺は、国家のために行ったことなのである。アンワルはかつて自らが行った虐殺をこのような記述のもとで捉えているからこそ、この虐殺を誇らしげに語ることができていた。

映画を作り始めた当初のアンワルは、「共産主義者」を殺してきたことに、当然のことながら、罪の意識を感じていない。かつての事務所の二階で行った、針金を用いた「共産主義者」の虐殺を、笑顔で演じてみせるアンワルに、罪悪感は見られない。この場面でのアンワルは、「殺してしかるべき者を殺したまでだ」と言わんばかりの自信に満ちている。

おそらく、アンワルの心境に変化が生じはじめたターニングポイントは、「共産主義者」の継父を虐殺で失った華僑系の隣人が、己の経験を撮影中に語り出した場面であろう。

プレマン役の人間によって、針金を首に巻きつけられて、「カムハラスマティ(お前は死ななければならない)」と凄まれた「共産主義者」役の華僑系の隣人は、心底怯えているような「演技」をした。いや。私には「演技」には見えなかった。華僑系の隣人は本当に怯えているように見えた。顔を鼻水とよだれでぐちゃぐちゃにし、殺さないでくれ、やめてくれと嘆願する華僑系の隣人は、演技ではなく、本当に心から嘆願しているように見えた。

この隣人は、この演技に入る前に、「自分の継父が共産主義者として虐殺されたこと」や「共産主義者のレッテルを貼られ、学校にいけなくなったこと」などを、引きつったような笑顔でアンワルらに語った。「あなたたちを批判するわけではないが、このようなこともあったのだ」という語り方で、アンワルらプレマン達に、己の生々しい経験を語った。この後で、虐殺される「共産主義者」の演技を、この華僑系の隣人は行ったのである。

この場面で、果たして、現実と演技を、人は器用に切り離せるであろうか?

切り離せるわけがない*1

この、アクト・オブ・キリングという映画の中で、最も緊迫した上記場面から、かつての英雄達の態度に変化が生じ始めていく。

アンワルの親友のような男がいる。名前を忘れてしまったのだが、彼は上記の華僑系隣人が虐殺される場面において、次のような、どっちつかずの混乱した語りを披露する。

「この映画は、残酷だったのは、共産主義者ではなく、我々であったことを明らかにしてしまう。映画のせいで、俺達の立場が変わる。でも、これはあくまでイメージの問題だ。」

この男も、プレマンである。アンワルと同じく、何人もの「共産主義者」を虐殺してきた人物である。その人物が、上記のような、アクト・オブ・キリングという映画を作ることの危険性を警告するようでいて、一方ではそこまで気にすることはないとも言っているような、どっちつかずのコメントを行っているのである。これは一体どういうことか。

私は、この人物も、アンワルと同じく、演技を通して、自らの行ってきた虐殺を、虐殺として認識し始めたのだと考える。自分達の行った「共産主義者」狩りが、正当化し難いものであることに気付いたものの、そのことをそのまま自分の中で事実として認めてしまうことには耐えられない。だから、「この映画は危険だ。しかしたとえそうだとしても、たいしたことはないのだ」というようなごまかしの言葉を駆使して、自分自身の動揺を鎮めようとしている。自らの内部に生まれた罪の意識を、罪の意識として素直に認めてしまうと辛いから、罪の意識を感じないで済むように、言葉で取り繕おうとしている。このような語りを、この人物は行っている。自分が感じた罪の意識を、そのまま罪の意識として認めることはしたくないからこそ、アクト・オブ・キリングという映画の危険性に気付いていながらも、この映画の制作の中止を求めるというような、野暮なことはしない。映画の製作の中止を求めることは、己の感じているところの罪を、明らかな罪として認めたことになるからだ。罪悪感を罪悪感として認めたくないからこそ、この人物は、アクト・オブ・キリングという映画の危険性に気付いていながらも、自らのその気付きに蓋をして、アクト・オブ・キリングを不問にする。結果として、矛盾した、どっちつかずの、混乱した語りを披露してしまっている。

後日、この人物は、極端な方向に己の態度を硬化させる。「あの虐殺は当時は非合法ではない。犯罪ではない。」や「国際法に違反する?なぜ国際法に準じなければならないのだ?ジュネーブ条約に違反するなら、こちらでジャカルタ条約を作ってやる。」や「殺人を描きたいなら、カインとアベルからやれ。」と述べ、過去に行った虐殺を頑なに正当化しようとする。このような態度も、罪悪感を感じたからこその防衛機制といえるだろう。アンワルが、虐殺の演技を通して罪の意識を感じ、悪夢にうなされるようになったこととは対照的に、この人物は、ひたすら己の行為の正当化に走るが、結局は、両者とも、あの虐殺を、非難されてしかるべき罪深い虐殺として、認識するようになっているといえる。

この「加害者」の変化は、アンワルが「被害者」役を演じる場面で頂点に達する。明らかに、アンワルが苦しそうなのだ。首を針金で絞められる「共産主義者」の役を演じるアンワルは、演技の途中で「もう限界だ…。」と力なく述べる。本当に苦しそうな表情をして、肩を落とし、脱力して椅子に座りこむ。

この苦しみは、かつて自分が殺人を行った事務所の二階で、今度は「嘔吐」の形で現れる。アクト・オブ・キリングの撮影当初は、嬉々として針金で「共産主義者」の首を絞める行為を、この事務所の二階で再現してみせたアンワル。しかし、もはやその面影はない。当時行った自分の行為にアンワルは吐き気を催し、頻繁に嘔吐する。アクト・オブ・キリングという、虐殺行為の演技に従事することにより、明らかにアンワルは、罪悪感に苛まれるようになったのである。

人の認識はこれほどまでに変化しえるのかと、私は素朴に驚いた。自らの行為を、「殺してしかるべき人間を殺しただけのこと」という観点から眺めていた人々が、その演技を通した己の行為の客観視・対象化により、「私はなんて理不尽で恐ろしいことをしてしまったのだろう」と苦しむようになったのである(あるいは躍起になって正当化するようになった)。アクト・オブ・キリングという映画は、演技の可能性・威力・不思議さ・恐ろしさと、人間の認識の柔軟さ・単純さ・はかなさ・頼りなさを感じさせる、非常に興味深い映画であった。


映画『アクト・オブ・キリング』予告編 - YouTube

*1:演技は面白い。「己の行為を客観視・対象化することができるようになる」という効能だけでなく、「目の前の人間の行為を、異なるコンテクストから眺めることを促し、これによって獲得できた「新たな見え方」を、一時的もしくは半永久的に、真に受けさせる」という効能を、演技することは演技者にもたらす。