運動に対する冷たい視線─Coccoにとってのジュゴンの位置付け

稲嶺さんの落選

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稲嶺さんが落選した。しかし私は落ち込んではいない。稲嶺さんが当選しようと落選しようと、辺野古に新基地を作る動きは止まらないからだ。引き続き、今後も粛々と、自分にできる範囲で新基地建設を止める運動に関わっていこうと考えている。

かつて、現知事である翁長さんよりも、格段に優秀で信用できる知事がいた。鉄血勤皇隊の生き残りであり、大学教授を務めるほどの知識を備えたこの人物は、代理署名を拒否した。沖縄県民の多くが、彼に基地問題の解決を期待した。

しかし結局、沖縄は、最高裁で負けた。

要するに、国は最終的には、最高裁を使って合法的に、沖縄に基地を固定するのである。いくら知事が有能で経験豊富で信用できる人であろうと、国と闘えば沖縄が負けるのである。

そういうわけだから、名護市の市長が誰になろうと、私は一向に気にしない。稲嶺さんが名護市の市長になっても、結局、合法的に新基地建設は進められ、訴訟になれば、必ず沖縄側が負けるのだから。

そこで私は割り切っている。知事が誰であろうと、市長が誰であろうと、市民が直接行動で新基地建設を止めればいいだけの話だと割り切っている。首長に過剰な期待はしない。自分にできる範囲で、運動を展開する。運動こそが最も確実な方法であると考えている。

運動に対する若者からの冷たい視線

ところが、悲しいことに、運動に対する視線が年々冷たくなっているように私は感じている。運動というものを白眼視する風潮。これが着々と強まっていることを私は肌で感じている。

例えば、次の記事を読んで欲しい。ここでは、運動を「対立を深めるもの」として捉える若者が登場する。

http://www.freezepage.com/1517820169BVWNPLINFN

とある若者が、辺野古に行ったのだという。そして、運動に対して次のよう疑問を抱いたのだという。

「君は賛成なのか反対なのか」と迫ってくる人がいた。地域住民に対して威圧的な態度をとる人もいた。敵を作るような姿勢は誰のための運動なのかと疑問を抱き、足が遠のいた。 

運動に対する違和が、ここでは確認できる。この若者は、辺野古の新基地建設反対運動の現場で、運動に拒絶反応を起こした。記事からはこのことが読み取れる。

ただし、この記事の内容には致命的な欠陥がある。文脈が省略されていることがそれである。辺野古でこの若者はどのような台詞や態度で周囲の人々と接したのか。これが全く示されていない。

そのため、「敵を作るような姿勢は誰のための運動なのか」という疑問が生じたという結論は、やや説得力に欠ける。

もちろん、紙面には限りがあり、詳細を記述するためのスペースが足りないという現実的な制約がある。しかし、一人の若者の決断に影響を与えた重大な場面であるだけに、より細かな厚い記述がここではなされるべきであろう。

運動に冷たい視線を向ける若者に対する疑問

この若者は、運動から足が遠のいた後、運動が対立を深めることに胸を痛め、 「これ以上、対立を深めたくない」という理由から、稲嶺さんではなく、渡具知さんを支持したとのことである。

ここで疑問が浮かぶ。 「これ以上、対立を深めたくない」と考えているならば、対立を生じさせる諸悪の根源である基地を、なぜ否定しないのか。

新基地が名護にできたら対立はこれ以上深まらないと考えているのであろうか。そうであるならば、それは間違いではないのか。新基地が建設されることで米軍関係の事件や事故が今後何十年にもわたって発生し続けること。これにより、むしろ対立は深まるのではないか。このような疑問も浮かんでくる。

また、この若者は、「移設反対の思いは変わっていない。それでも、今のままでは前に進めないと渡具知氏の応援を決めた」そうである。この箇所には、論理の飛躍が感じられる。なぜなら、移設を事実上容認する渡具知氏を支持することを、「前に進む」ことといえる根拠が示されていないからだ。

しかも、移設後に生じるであろう米軍関係者による事件や事故による被害は話題にされていない。これらは明らかに「前に進む」こととは言い難いであろう。

運動に拒絶反応を起こした若者が、渡具知さんを支持するようになった理由・経緯は、必ずしも明確ではない。

しかし、上記の記事から、運動に拒絶反応を起こした若者が渡具知さんを支持した、ということだけは明確に理解できる。

運動に対する中年からの冷たい視線

運動に対して冷たい視線を向ける者は若者だけではない。例えば、次のラジオ番組を視聴して欲しい。


この番組では、中年の方々が(アラカキヒロコさんは除く)、運動に対する拒絶反応を示している。

運動に冷たい視線を向ける中年に対する疑問

上記ラジオ番組の内容についても、疑問が浮かぶ箇所が幾つもある。

例えば、「基地建設反対派の人々が座り込みすることにより渋滞が生じて、辺野古住民が迷惑している」という発言に、まず疑問が浮かぶ。「なぜ基地反対派の人々のみを渋滞の原因として挙げるのだろう?」という疑問が浮かぶ。

あたかも、基地反対派の座り込みのみが、渋滞を生じさせているような物言いである。ここでは、渋滞という現象を生じさせる要因であるはずの「資材を積んだ何台もの大型トラック」や「道路脇に駐車されたカマボコ」や「道路で市民に暴力を振るう大勢の機動隊」等の要因が完全に無視されている。特に、「民意を無視して工事を強行する日本政府」と「沖縄に居座り続ける米軍」が無視されていることには首を傾げざるを得ない。基地反対派による座り込みだけが、渋滞の原因であるかのように語られている。

また、次のような疑問も浮かぶ。「基地反対運動に従事している辺野古住民についてはどのようにお考えなのか?」と。

上記番組では、辺野古住民を代弁するかのような、「現地の人の生活をないがしろにする基地反対運動を糾弾する」というスタイルの、正論的な発言がなされている。

しかし、注意深く視聴すると、ここでは島袋文子さんのような、「辺野古での生活を守るために基地反対運動に従事している辺野古住民」が無視されていることに気付く。辺野古住民全員が運動を迷惑に思っているかのような話しぶりであるが、果たしてこの番組に登場する中年の方々は、基地反対運動に従事している辺野古住民については、どのように考えているのだろうか?島袋文子さんに対しても「運動は迷惑だ」と述べるつもりなのだろうか?それとも、辺野古住民による運動であれば、他の辺野古住民に迷惑をかけても、部外者である自分達は何も言わない、という立場を取るのであろうか?

さらに、看過できないのが、Coccoの「ジュゴンの見える丘」について、「ジュゴンをツールとして使っているだけ(34分頃)」という発言が番組内でなされていることである。「なぜそう言えるの?」という疑問が真っ先に浮かぶ。

Coccoジュゴンをツールとして使っているか?

ジュゴンの見える丘」とは、歌手のCoccoによる次の曲である。


Coccoを「基地反対運動のためにジュゴンをツールとして利用している者」と断言できる根拠。これが番組内では一切示されていないため、この発言には説得力がない。

しかし、説得力がない発言とはいえ、ラジオで「Coccoジュゴンをツールとして使っているだけ」という根拠のないメッセージが垂れ流されることを、私は許容できない。

Coccoによる「ジュゴンの見える丘」という歌は、基地反対という目的を達成するためにジュゴン手段・ツール・二次的なもの・代替可能なものとして利用した歌ではない。その根拠は、Coccoによる著書『想い事』に見出すことができる。

『想い事』に「楽園」という題名の文章がある。これは、2006年~2007年頃に書かれたものである。長くなるが、全文引用する。

あまり知られていないがジュゴンの見える丘という
美しい場所が沖縄には在る。
実際、ジュゴンを見たというそんな人には会ったことがないけれど
それでも私は歩く力を失くした時
何度かその丘に立ってジュゴンを待った。

 

普天間基地の移設に伴い沿岸だろうと沖合だろうと
その丘の向こうにヘリポートが建設されれば
私たちはまた一つ景色を失う。
そもそも度重なる環境破壊や水質汚濁によって
ジュゴンが帰ってくることなどもう無いのだろうと
覚悟はできていたはずなのに
最後の細い祈りが断たれた気がして、泣いた。
私は基地のない沖縄を知らない。
生まれる前から基地はもうそこに在った。

 

人生において
あの人と出会っていなければ
私は今、存在していなかっただろうという出会いは幾つかある。
その人が、その一人だった。
”愛してる”だけじゃ届かない世界で
”愛すること”しか知らなかったあの頃の私に、
あの出会いは絶対だった。
父親の記憶が朧げなその人は
米国軍人と沖縄人との間に生まれたアメラジアンだった。

 

沖縄の人は皆、やさしい。
大抵の人は口を揃えてそう言う。
懐が深く、慈悲深い、と。
ところが私はその人の側で 愛する沖縄が容赦無く
彼に過す仕打ちを見てきた。
誤解を恐れずに言うなら基地の存在を否定することは
彼の存在を否定することだった。
それでも米国軍人による犯罪や事件は途絶えることが無く、
沖縄が傷付けられ虐げられてきたことも紛れも無い事実だ。

 

”YES”も”NO”も私は掲げてこなかった。
こんなの戦時中で言うなら間違いなく非国民だ。
でも、”YES”か”NO”かを問われることは
残酷だという事を知ってほしい。
返還とは、次の移設の始まりで
基地受入れのバトンリレーは終らない。
どこかでまた戦いが始まるだけのことだ。

 

生まれて初めて私は、はっきりと願った。
あの出会いを失くすとしても、
あの存在を否定することになっても。
馬鹿みたいに叫びたかった。
例えばその全てをチャラにして
能天気に鼻歌なんか歌いながら
高い高いあの空の上から
ただ”I LOVE YOU”を掲げて。
私たちの美しい島を、
”基地の無い沖縄”を見てみたいと初めて、願った。

 

じゃあ次は誰が背負うの?

 

自分の無責任な感情とあまりの無力さに
私は、声を上げて泣いた。

 

誰か助けてはくれまいか?

 

夢を見るにもほどがある。
私は馬鹿だ。
ぶっ殺してくれ。

この文章を読んだ上で、「Coccoジュゴンを基地反対運動のツールとして使っている」とのみ述べる人がいるなら、どういう思考回路をしているのだろうと、私は理解に苦しむ*1

なぜなら、Coccoは「楽園」において、①「基地の存在についてYESなのかNOなのかを決めたくなかったが(アメラジアンの友人を否定することになるから)、沖縄に対する理不尽な基地の押し付けに我慢ならず、NOという立場を否応なく選択せざるを得なかった(=基地の無い沖縄を初めて願った)」と書き、②「しかし、基地に対してNOという立場を選択することで、基地の移設先(辺野古ジュゴン)が代わりに犠牲になってしまう」と悲しんでいるからである。

Coccoの複雑性

上記内容を詳細に見ていく。まず①の内容について。ここでは、それこそ断腸の思いで、本当は否定したくないにも関わらず、Coccoは基地の存在を否定している。

すなわちCoccoは、「本当は基地建設にYESではないのに、仕方なく否応なくYESという立場を選択せざるを得ない辺野古の住民」と同じ程度に、複雑なのである。辺野古の住民を「基地賛成派であり、基地賛成という目的のもとで行動している」と単純にみなすことは誤りであるように、Coccoを「基地反対派であり、基地反対という目的のもとで行動している」とみなすことも誤りなのである。

したがって、「貴方は基地に対してNOの立場なんだな。基地反対を目的にしてジュゴンをツールとして利用することも辞さない、基地に反対することが目的の『運動家』なのだな」と簡単にみなすことを許さない複雑さが、Coccoにはあるのである*2

Coccoにとってのジュゴンの位置付け

次に、②の内容について解説する。Coccoにとってジュゴンはどのような存在なのだろうか。答えは、目的である。ジュゴンは守るべき大切な存在といえる。このジュゴンは、ジュゴンのみを指しているのではない。辺野古、あるいは辺野古における命をも指している。抽象度をもう少し上げて言い換えるなら、基地の移設先における様々な命を指しているともいえる。「楽園」の内容を根拠にすれば、そうとしか読めない。また、ジュゴンは、アメラジアンの友人と等値できる存在でもある。基地を否定することと連動して否定されてしまう存在。これらが、アメラジアンの友人であり、ジュゴンなのである。

アメラジアンの友人やジュゴンは、Coccoにとって決してツールではない。Coccoにとって、重要で大切で掛け替えのない守るべき存在である。基地を否定することで、これらの存在を否定してしまうこと。これらが代わりに犠牲になってしまうこと。このことを、Coccoは「楽園」において問題にしている。

話が回りくどくて分かりにくくなっているかもしれない。「楽園」の内容、とりわけ②の内容について、以下に端的なまとめを掲載する。

【②のまとめ1】

「楽園」では、基地にNOを示し、その返還を促せば、アメラジアンの友人やジュゴン等の別の犠牲が生じるため、基地にNOを示した自分自身を、Coccoは全否定している。

基地を普天間基地に限定し、抽象度を下げて上記を言い換えるなら、次のようにまとめられる。

【②のまとめ2】

「楽園」では、普天間基地にNOを示し、その返還を促せば、辺野古(≒ジュゴン)という別の犠牲が生じるため、普天間基地にNOを示して辺野古(≒ジュゴン)を犠牲にする残酷な自分を、Coccoは「馬鹿だ」と呼び、「ぶっ殺してくれ」と書いて、全否定している。

もちろん、基地を普天間基地に限定する必要はない。どこの基地であっても基地の返還には移設が伴うはずなので移設先の別の命が犠牲になる。「楽園」では、このことが問題視されている。そして、ここで犠牲になる命が、普天間基地の返還に話を限定した場合に、ジュゴンという言葉で表現されているのである。

『想い事』における「楽園」を読み、「へー。Coccoジュゴンを「基地反対という目的にとって都合の良い道具」とみなしているんだー」と言い放つ人がもしもいるなら、私はこの人に堂々と「フリムン!」と言ってあげたい。Coccoにとってのジュゴンの位置付けを、完全に見誤った読みである。ジュゴン手段ではなく、目的である。他の目的を達成するための道具ではなく、守るべき大切で重要な命、目的そのものである。だからこそ、基地に対してNOの立場を選択することでジュゴンが犠牲になってしまうことを、「ぶっ殺してくれ」とまで書いて、Coccoは悲しんでいるのである。

Coccoジュゴンをツールとして使っているだけ」といえる根拠が示されない理由

『想い事』における「楽園」という文章を踏まえるならば、「ジュゴンの見える丘」という楽曲におけるジュゴンは、ツール等という二次的・手段的・代替可能なものではないことが理解できるだろう。繰り返しになるが、ジュゴンとは辺野古、あるいは、辺野古における様々な命の象徴であり、基地移設に伴って代わりに犠牲となる様々な命ある存在を指している。

Coccoジュゴンを、基地に反対するという目的に合致した便利なツールとして使っているだけと断言できる根拠。これが上記ラジオ番組で語られることはない。なぜ語られないのだろうか。語れないからであろうか。勝手な想像。思い付きでしかないからであろうか。

根拠を示さないまま、「Coccoジュゴンをツールとして使っているだけ」と断言する人を見ていると、この人が語る運動には、単なる想像にすぎないものが多分に含まれているのではないかと私は推測してしまう。

このように断言する人は、 「基地に反対する運動のためなら、地元の生活を破壊することや、ジュゴンをツールとして使うことも厭わない、単純で馬鹿で白黒決めたがる頑なな、自己満足したいだけの左翼」とでも表現できるような想像上の運動家の幻影を、勝手にCoccoに投影してはいないだろうか?

一方的にこのような投影をしているからこそ、根拠を述べることができないのではないか?

あるいは、「ジュゴン等どうでもいい。死のうが滅びようがどうでもいい」と考えている冷笑的な自分自身を、勝手にCoccoに投影しているから、根拠を述べることができないのではないか?

Coccoジュゴンをツールとして使っているだけ」と根拠なく断言する人について、私はこのように推測してしまう。

何が運動に対する冷たい視線を強めるのか?

他にも疑問点は列挙できるが*3、ここで重要なのは、このラジオ番組からも、運動に対する冷たい視線が読み取れるということである。

特に、「(Coccoは)ジュゴンをツールとして使っているだけ」という根拠なき物言いからは、基地反対運動に対する敵意・悪意・憎悪とも呼べるような、マイナスの感情がありありと読み取れる。

「なぜ基地反対運動をここまで拒絶するのか?」

「この、基地反対運動に対するアレルギーのような反応は、何に起因するのか?運動そのものに原因があるのか?それとも、個人の好みや性格や気質に起因するものなのか?あるいは、この両方に基づくものなのか?」

「運動を拒絶する人に共通する心性や特徴があるとしたら、それはどのようなものなのか?例えば、いわゆるネトウヨと呼ばれる人々と、上記の若者や中年はどう違うのか?」

運動に冷たい視線を向ける若者や中年に関し、上記のような疑問が浮かぶ。

「もしかしたら、運動が抱える改善すべき重要な問題が実際にあるのかもしれない。だとしたらそれは何なのだろう」という考えも頭の片隅に置きつつ、上記のような疑問に取り組み、運動に冷たい視線を向ける人々の心理を分析すること。

この作業が、今後の沖縄における運動を実り多いものにするために、必要不可欠であると私は考える。

*1:歌の背景や周辺情報や、アーティストが歌に込めた思いを調べもせずに、根拠なく単なる思い込みで「(Coccoは)ジュゴンをツールとして使っているだけ」と述べているなら、あまりにも酷い。このような行為はCoccoに対する侮辱である。デマばかり拡散するネトウヨと同じではないか。

*2:辺野古住民やCoccoに限らず、沖縄県民の少なからずが基地に白黒つけがたい複雑な思いを抱えているはずである。YES・NOのどちらの立場を取る人でも、程度の差はあれ、仕事や交友関係や姻戚関係等に絡めとられ、その是非を即断できない複雑さの中にいると思われる。

*3:(1)なぜ辺野古を「ただの街」や「普通の街」といえるのか?米軍基地がある街を「ただの街」や「普通の街」といえる理由は?米軍関係者による犯罪や事故のリスクがある街を、例えば、米軍基地のない北千住や国立市や日野市等のような街と同じと言い切れる根拠は?(2)辺野古の住民に可能な限り迷惑をかけないようにすることは、運動を行う上で大切であるが、辺野古住民の生活を最優先し、基地の建設を許した結果、沖縄を含む世界各地に様々な災厄がもたらされた場合、その責任についてはどう考えるのか?例えば、辺野古新基地所属の米軍関係者による犯罪や事故で家族を殺された沖縄の人間から責任を追及されたら、どう対応するつもりか?あるいは、もしも中東等の外国を訪れた際に、辺野古新基地関係の米軍に家族を殺された現地の人から責任を追及されたら、どう対応するつもりか?「自分の生活が大事だから、貴方達のことは知らない」と言い切るつもりか?それとも、「必死で反対運動したけど、力が及ばなかった。許してくれ」と嘘を付くつもりか?それとも、無視して逃げるつもりか?(3)「現地の人の生活を重視すると言いましたね?であれば、現地の人である私の、沖縄での生活も重視して下さい。沖縄に生活拠点を持つ私が沖縄での生活をよりよくするために行う運動に、本土に生活拠点を持つ人は口を出さないで下さい。」と私が言えば、本土に生活拠点を持つ人は、沖縄で生活している私の当事者性を尊重し、素直に黙ってくれるのか?(4)何故日本政府や米軍を批判しようとしないのか?反対運動ばかりを批判し、日本政府や米軍を批判しないのは何故か?日本政府や米軍に逆らっても負けてしまうから、彼等を批判しないのか?それとも自己保身から、日本政府や米軍に忖度を行っているのか?あるいは、仕事の関係で、基地建設を容認する辺野古住民に忖度を行っているのか?等々。