ホームレスという可能性

いちむらさん。『ホームレスでいること 見えるものと見えないもののあいだ』をご恵贈いただき、どうもありがとうございます。

読んでいて、いちむらさんと、エノアールに集う様々な人々のことを、鮮やかに思い出していました。

本で描写される人や場面を、ありありとイメージすることができ、目の前で映画を見ているような読書体験をしました。

テント村のエノアールとの出会い

2001年から2011年までの約10年に渡る東京生活の中で、テント村のエノアールで過ごせた期間はたった3年ぐらいでした。でも、いちむらさんとテント村の方々と過ごせた3年間は、私の東京生活において、とても重要で貴重な3年間です。

大学院を卒業後、2004年に某IT系企業に就職した私は、その4年後の2008年頃に、東京の某公園のテント村でエノアールを見つけ、関わるようになりました。

そして2011年に、東電の原発事故が起きました。東京に飛来する放射性物質が怖くて、私は東京から逃げるようにして故郷の沖縄に帰りました。

それ以降、「自分だけ逃げてしまって申し訳ない」という罪悪感が拭えず、用事で東京に行く機会があっても、エノアールには一度も顔を出せないでいました。

それだけに、今回いちむらさんから新著をいただくことができて、とても嬉しかったです。

新著では、私自身も当事者の1人として関与した出来事が多数詳述されていました。宮下公園でのホームレス排除に対する抵抗活動、渋谷の国道246沿いでの路上での炊事・会食、ノラの会等がそうです。

本を紐解くと、警察や役人と対峙した際のピリピリとした緊張感と、皆でお茶しながら一緒に笑い合った安心感が、ないまぜになって蘇ってきました。

労働現場という自尊心破壊型暴力領域

いちむらさんが、ホームレスに可能性を見ていたように、私もホームレスに可能性を見ていました。それは、当時私が身を置いていたIT業界がブラックな労働環境であったことが強く関係しています。

当時は就職氷河期と呼ばれる時期でした。IT企業に就職して、毎月一定の給与を貰って生活することはできていたものの、「こんな場所から早く逃げたい」「こんなところにいつまでもいたくない」と内心思いながら、私は働いていました。

IT業界には、偽装請負パワハラや不当解雇等の、違法かつ人権侵害的な暴力が溢れていました。長時間労働が常態化しており、精神疾患や過労死で、会社から突然消えてしまう人も珍しくありませんでした。労働者は様々な暴力に晒され、子羊のように怯えながら黙々とパソコンの画面を見つめキーボードをたたき続けるだけの、人間サンドバックのような状態に置かれます。

最初に勤めた会社で、「どうしたらこんな悲惨な労働環境から抜け出せるのだろう?」と先輩にこぼしたら、先輩は不気味な笑みを浮かべながら、次のように返答してきました。

くたばればいいんだよ。そしたら楽になれる。

仕事のできる真面目な先輩でしたが、あきらめと絶望で頭の大半が占められてしまっているような、自暴自棄な発言が即座に返ってきて驚きました。暴力に晒され過ぎて無力感の塊と化しており、あからさまに自虐的でした。

これは、IT業界に限った話ではないです。建設業や運送業や教育業界等の他の業界でも、労働することと暴力を受けることが直結しています。日々の糧を得るために、労働者は、理不尽な暴力に耐えることを余儀なくされます。生活に必要な賃金と引き換えに、人間の尊厳がないがしろにされる場所。それが労働の現場です。まるで、漫画「呪術廻戦」の領域展開のように、ひとたび労働現場という空間に身を置いてしまうと、労働者は人権侵害をひたすら我慢するしかなくなるのです。

このような労働現場の暴力性を、いちむらさんも本の中で、次のように指摘していましたね。

「生きていくためには、決められた時間働いて、それで賃金を得なければならないと考えると、心が沈むようだった。そういった賃労働では、競争をあおられ、より「上」をめざして生きていくこと、成長していくことが価値のあることとされているようだった。(中略)学校でも職場でもそうだった。「働くことで社会に参加して、貢献するのだ」と言われながら、実際は、他人を食うようなやり方で優劣をつけるシステムに組みこまれていた。すごく嫌だったけど、わたしはそこでしか生きられないと思わされていたし、そうして自分を追い込んでいた。それが「自立」と言われていた。本当は互いに助けあったりできるはずなのに、人を単なる労働力として見て、都合よく働く機械になるように追いたてていくようなムードがあった。嫌なことを我慢してやって生きていくことが世間の掟とされて、社会全体にどっしりと横たわっていた。わたしや同じ世代の友人たちは、雇用主の要求にふりまわされ身も心もボロボロになっていたように思う。さらに、高い家賃のために食費を節約し、毎月、家賃が口座から引き落とされたあとの数字を見て血の気が引いた。

 こうして、働けば働くほど豊かになるどころか、自尊心が傷つけられ、わたしは他人に対しても自分に対しても不信感がつのって、自暴自棄になり死にたくなっていったし、働くことにも絶望していった。(12-13ページ)

いちむらさんが描く過去のいちむらさんは、IT業界で働いていたかつての私自身の姿そのものです。

こんな世界から逃げたい。逃げてもっと自由に楽しく豊かに生きたい。このような思いを抱きながらも、我慢して辛抱して働いていました。

このような生き方をしていた私は、いつしか擦り切れて、自分にも他人にも冷たい人間になってしまっていることに気付いていました。競争に勝つために己の技能・能力を高めることができない自分を、ダメな存在だと卑下することも多々ありました。

テント村のエノアールで、上記のような自分の心境を吐露すると、いちむらさんは「重森さんはダメな存在なんかではない。」と断言してくれましたね。嬉しかったです。この場面を私は今でも鮮明に覚えています。ありがとうございます。

ホームレスという可能性

働いて生きていくことで被る理不尽で人権無視の暴力から距離を置きたい。距離を置くことができないなら、せめて対等に暴力と対峙して、闘って死にたい(でも、怖くてできない)。

このようなことを常に考えながら、私は働いていました。

そんな折、日々の長時間労働がたたって、私は通勤電車の中で意識を失ってしまうことがありました。2005年頃だったと思います。

失禁してズボンを汚したまま、駅のホームに降りました。すぐに上司に電話し、有給を取ることを伝え、その足でお茶の水にある病院で脳ドックを受けました。

幸い、脳には何の異常もありませんでしたが、この時点で私は、このままでは労働に殺されてしまうと悟り、労働現場を変える力を手に入れるために、労働組合に入ろうと決心しました。

労働組合の話は、これはこれで別の長い話になるので割愛しますが、とにかく、東京で働いていた頃の私は、会社や組織に生殺与奪の権を握られていることの不快感・不安感を払拭したいという思いでいっぱいでした。

ホームレスという生き方は、このような不快感・不安感とは無縁とは言えないまでも、このような不快感・不安感から縁遠い存在に思えました。なぜなら、ホームレスは、「会社や組織に所属していないために、これらに生殺与奪の権を握られておらず、自分の生活を自分で成り立たせている存在*1」に見えたからです。

全てのホームレスがそのように自立した存在である、とはいえないかもしれませんが、ホームレスの中には、確実にそのような生き方を達成できている人がいるように私には思えました。人としての尊厳を維持しながら、創意工夫して逞しく生きている人。そういう印象を私はホームレスに持っていました。

そう。最も重要で手放してはいけないのは人としての尊厳です。下記の文章で、いちむらさんが大事なものと呼ぶもの。私はこれを人としての尊厳だと捉えています。

「ホームレスの暮らしがユートピアなわけではなく、嫌なこともたくさん起こるけど、なんというか、ホームレスでいることで、大事なものを手放さなくていいような気がするのだ。(2ページ)」

「あなたはホームレスでいることを選んだのではないの?という質問も多い。そうですよ、わたしは自分で決めたよ、と答えてみる。しかたなく、というのは、むしろ前の暮らしのほうが当てはまる言葉だ。しかたなく働いて、しかたなく人と競争して、しかたなく家賃を払って、しかたなく生きていた。屋根があり、トレイ、水道、ガス、電気があるという点で便利だったが、その暮らしを維持することは簡単なことではなかったし、他に何かもっと豊かな暮らし方があるのではないかと感じていた。(3ページ)」

「「標準」「普通」とされている暮らしの中には、さまざまなしきたりや制度が組みこまれている。家に属し、学校に通い、働いて、何をめざして生きていくのかにも。でも、属するべきとされている「ホーム」「標準」「普通」に収まらなくて、ホームレスでいたいことってあるのではないか。自分の中の、孤独で、切なくて、やるせなく、どこにも収まらないことは、自分でも見えないことにしていたりする。(3ページ)」

そういった自分の気持ちをないことにしないでほしい。自分の中のホームレスなことが、一時的な衝動ではなく、なにか大事なものを求める気持ちだとわかったとき、それは自由につながるかもしれない。そして、「ホーム」を出て、ほかの「ホームレス」たちとつながったとき、お互いの自由を実現していけるかもしれない。(3ページ)」

いちむらさんも、本書で具体例を挙げていましたが、ホームレスには様々な人間がいます。廃材を利用して立派で頑丈な家を建て畑で野菜を栽培している人。朝早く起きて街を回り缶を回収し、それを売って生計を立てている人。日雇いの肉体労働をしている人等、その多様性は枚挙に暇がありません*2

私は、他人に生殺与奪の権を与えずに、自分で自分の生活を成り立たせて、人としての尊厳を維持して生きているホームレスに可能性を見出し、彼らに強く憧れていました。

異議申し立てできる身体

自分で自分の生活を成り立たせることができるのであれば、人権侵害を受けても堂々と正面から立ち向かえます。評価権や人事権のある他人に管轄されたホームレスは存在しないので、他人による人権侵害にひたすら耐える必要はありません。だから私はホームレスに可能性を見ていました。

ホームレスを実践するいちむらさんを身近で見ていて凄いと思ったのが、まさにこの点です。

いちむらさんは相手が誰であっても異議申し立てを行っていましたよね。見るからに暴力的なチンピラに対しても、話の通じなさそうな役所の人間に対しても、おかしいと思ったら丁寧に言葉で自分の考えを伝えて交渉していましたね。「それしかできない」といちむらさんは本に書いていますが、私は会社で「それさえもできない」人間でした。

また、いちむらさんは精神的にインディペンデントな存在でもありました。「仲間外れにされることを恐れて傍観者になる」こともありませんでした。尊厳を貶める行為を許さず、たとえ同じホームレスの仲間であっても、おかしいことにはおかしいと言い、問題をないことにはしませんでした。

例えば、テント村で郷田さんという男性のホームレスに黒崎さんという女性が意見の違いが原因で殴られた時、いちむらさんは次のように動いています。

「黒崎さんは、郷田さんに殴られたことをまわりの多くの人たちに伝えて自尊心をとり戻そうとしたけれど、「郷田さんがそんなことをするなんて黒崎さんがよほどのことをしたんじゃないか」とか「愛の鞭だよ」と言う人までいて、なぜ暴力を問題視しないのかとわたしはとても腹立たしかった黒崎さんとわたしは何人かについてきてもらって、郷田さんに「あなたがやったことは暴力なので謝ってください」と言ってみた。すると郷田さんは黒崎さんに「もうあんたを殴らない。約束する。俺も男だ、約束したことは守る」と言って謝った。郷田さんは「男らしさ」という自らの流儀で謝ったのであり、法律などで縛られるより、自分が大切にするものに自ら誓うほうが自主性がある。黒崎さんはさっそく「もうやらない、約束するって言ってた」とみんなに言いまわった。これで郷田さんの約束はテント村中に知れわたり、みんなにその約束が試されることになって、郷田さんの縛りになった。(28ページ)」

このような行動を取れる「社会人」はとても少ないです。他人が暴力を受けているのを見かけても、見て見ぬふりして、傍観に徹する。自分よりも強い者に自尊心を傷つけられたら、異議申し立てをするのではなく、押し黙ってひたすら我慢する。そして、自分よりも弱い者の尊厳を貶めることで、自分の自尊心を取り戻そうとする。「社会人」には、そんな人が多い印象があります*3

私はこれまで、大学院とIT企業と学校(小学校と特別支援学校)に身を置いたことがあります。ハラスメントや暴力を受けても泣き寝入りする人が大半でした。いちむらさんのように正面から堂々と異議申し立てを行う「社会人」はほとんど見たことがありません。皆、自分よりも強そうな人間に粛々と従うのが常です。そういう意味では、「社会人」のほとんどは、精神的に自立できていない未熟で弱い存在といえると思います。

ホームレスが、自分の生活を自分で成り立たせることができるが故に、他人の評価や裁定に怯える必要がないのであれば、ホームレスであることは、誰に対しても異議申し立てができる人間になれる土台となるのではないか、と私は考えています*4

先天的に性格的に最初から、誰に対しても異議申し立てができる人間が、人に理不尽な従属を強いる会社や組織を見限って辿り着く先、それがホームレスなのだ。

という考え方もできるかもしれません。

しかし、生活を人質にされた賃金労働から解放されている度合いが高ければ高いほど、つまりホームレスであればあるほど*5、ハラスメントに対して正面から反対できるようになるのではないでしょうか。

最後に

日本の労働現場が人権侵害満載の悲惨な環境になっている現状を変えるには、どうすればいいのでしょう。ホームレスに憧れを持たないですむような社会は、どうすれば実現するのでしょう。

おかしいことをおかしいと言って異議申し立てし、現状を変えていける、精神的に自立した個人を増やしていくしかないと私は考えています。

でも、それは、いかにして可能になるのでしょう。

ホームレスでいること 見えるものと見えないもののあいだ』を読了し、このようなことをつらつらと考えました。

私は、勇気がないのでホームレスでいることはできていないのですが、自分が身を置く場所では、「社会人」の義務として可能な限り、理不尽な暴力に対して異議申し立てをしていこうと努めています。

また、テント村とエノアールでいちむらさん達に会って、色々語り合いたいです。

いちむらさん達が、テント村でホームレスとして生き続けていることは、私にとって大きな救いです。

*1:ホームレスは自営業者と変わらないじゃないの。会社や組織が嫌なら、独立して自営業者になればいいのに。というコメントがありえると思います。私はホームレスを尊敬するのと同じように、自営業者も尊敬しております。両者とも、自分で自分の生活を成り立たせているからです。しかし、焼き肉店経営者や塾経営者や行政書士等の自営業者になるよりも、ホームレスになるほうが、費用や労力が少なくてすむという点で魅力的です。尊厳を維持して生きていくという目的を達成するにあたり、自営業者になるという手段は、なかなかにハードルが高い手段です。子育てや、高額な医療を受けることや、車の所有や、海外旅行等の贅沢は、断念しなければなりませんが、自営業者になるよりも、ホームレスになるほうが、働く時間を最小限に抑えて、人としての尊厳を維持したまま、ゆとりをもって自分のペースで生きることができるでしょう。

*2:ホームレスの自由で独創的で発明的な在り方については、坂口恭平さんの『TOKYO 0円ハウス 0円生活』に詳しい。

*3:ホームレスを襲撃する「社会人」がまさにそれです。彼等は、自分よりも弱く見える人に暴力を振るうことで、自分の自尊心をかろうじてキープしているのでしょう。ハラスメントによって誰かに奪われたものを、ハラスメントを誰かに行ことで取り返している。そんな構図があります。

*4:会社・組織に属して賃金労働している時のいちむらさんが、会社・組織の上層部に異議申し立てをせずに、ただただ疲弊していったのは、生活・賃金を人質にされていたからだと考えられます。

*5:重森が憧れているのは、ホームレスにではなく、いちむらさんになのではないかという突っ込みが考えられます。ホームレスだからといって、どんな他人にも異議申し立てができるかというと、そうとは言い切れないからです。しかし、いわゆる会社員等の組織人よりも、ホームレスの人のほうが、精神的に自立していてどんな他人にも異議申し立てできる人が相対的に多いのではないかと私は感じています。いちむらさん以外にも、どんな他人にも物怖じしない精神的にインディペンデントなホームレスに、私は実際に出会ったことがあります。