沖縄昔話:臆病で視野の狭い冷たい私に、影響を与えた同級生と某先輩の話

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高校生の頃、「米軍基地に対する自分の関心のなさ」を話すと、隣の席の同級生が、次のような話をしてくれた。 

小学生の頃、歩道橋のそばに米兵が立っていた。服装を見ればすぐに分かる。ニヤニヤしながらずっと立っていた。下半身を露出させながら。とても怖かった。 

彼女はその後、走って逃げたのだそうだ。無理もない。小学生の女の子の前に、下半身むき出しの米兵が立てば、それは恐怖だろう。

沖縄と一口に言っても、基地のある町とない町では事情は大きく異なる。同級生が住む町は基地のある街だった。そこでは基地絡みの犯罪や事件が絶えない。彼女にとって米軍基地は生活に根ざした重大な問題の一つであった。

しかし当時の私は、その話を聞き、「確かに嫌な出来事だけど、だからどうした」としか思えなかった。あまり危機感を持てなかった。「変質者が一人、下半身を露出しただけ。基地がなくてもそんな奴大勢いるぞ」とひねくれた感想を持っただけであった。 

私は、自分の身近な出来事に関心が持てないような、どこか壊れた子どもであった。使い古された言い回しであるが、「偏差値の高い大学に行くことだけが生きる目標」の人間であった。おまけに私という人間は、成績の悪い自分を呪い、対人恐怖で日々おどおどしているヘタレであった。

本土国公立大学を目指す進学校として、県下に名を馳せていた私の高校は、馬鹿みたいに授業時間の多い高校だった。私は「成績の悪い人間は生きる価値なし。努力して努力して努力して価値ある人間に人はなるべき」という信仰の持ち主だったため、毎日必死に暗記に励んだ。それが義務だと信じていた。責務だと感じていた。それが「正しい生き方」だと思っていた。信仰は怖い。「何のために大学に行くのか」なんて全く考えず、ただただセンターテストの点数をあげることだけに集中した。とにかく高得点を取って、とにかく偏差値の高い大学へ。親も教員もそれを望み、私はその期待に応えようとした。 

そんなある日、芸術科の人たちが、『石の声』というイベントを開催した。私の学校は、理数科と英語科と芸術科で構成されており、前者の二つが受験勉強一直線なのに対し、後者の芸術科はいつも怪しげなイベントを企画していた。石の声という企画は「沖縄戦で亡くなった人の数だけ石を積んでみる」という内容の企画であった。

「石の声に参加する?」という話を、誰彼ともなくしだした。しかしその日は模試の日であった。「模試はちゃんと受けなければ」という考えに背くことができず、結局ほとんどの人たちが模試を受けた。優等生集団によくある光景である。

しかし、模試の休憩時間に、友人が「やっぱ俺達模試なんかやってる場合じゃないんじゃねーの?」と言い出した。「物事には優先順位がある」といきなり言い出したのである。

私はアホかと思った。過去の戦争のことなどどうでもいいだろうと。それよりも模試だろうと。受験だろうと。内申だろうと。大学合格だろうと。そのために進学校にきてんだろうと。「戦争? 確かに恐ろしい出来事だと思うよ。でも、石並べたところで、何も変わらないし、何のメリットもない。単なる自己満足だ」と、心の中で気持ち悪い声でつぶやくだけであった。

しかし同時に、とても羨ましくもあった。なぜ模試をさぼって石の声に参加しなければ、と思えるのか。不思議に思うと同時に、その友人が格好よく見えた。視野狭窄で頭でっかちのヘタレな自分とは違う仕方で、世界を把握しているようにその友人は見えた。そいつは成績も良く、ルックスも良く、スポーツ万能の奴であった。だからなおさら羨ましかった。

私は自分を呪った。受験のことしか頭にないうえに、そのこと自体を疑うことさえ怖くてできない自分を、ひたすら呪った。

そう。私は本当は気付いていたのである。自分が日々していることや、自分が身を置いている場の不健全さに。何かが腐っていることを知っていたのである。しかしそれを見て見ぬ振りし、黙って流されていることが賢明だと、自分に言い聞かせていたのである。

そんな卑怯な自分を呪いつつ、義務であり責務である受験勉強に全てを奉げる学校生活を送る私の前に、ショッキングな輝きを放つ、とんでもない人物が現れた。

あれは、朝礼かなにかの催しだったと思う。いきなり壇上に登場したその先輩は、自分の「想い」を、文字通り叫んだ。 

髪が赤いからといって黒に染めるように強制した○○! 

ぜったいくるす! 

この先輩は、髪を高校生らしく黒く染めるよう強制した教員を名指しし、その教員に対して「くるす!(ぼこぼこにしてやる、ぐらいの意味。殺すとは微妙にニュアンスが異なる)」と沖縄口で叫んだのである。

何というか。神霊的な何かが乗り移って怒っているような、超自然的な迫力があった。

体育館全体がシーンとした。

私は驚いた。多分、私の瞳孔は開いていたのではないかと思う。

とにかく、すげー!と思った。

かっこいー!!と思った。

そして同時に、深く落ち込んだ。

先輩と私は、あまりにも対照的だったからである。

先輩は「生きる力」に溢れていた。システムの問題を告発する勇気を備えていた。私は単なるヘタレであった。システムの中で汲々とするしかない臆病者であった。「自分は絶対にあんなふうにはなれない」と、その場で私は絶望し、うなだれた。

ほどなくして、先輩の顔が印刷された某音楽雑誌が教室中で話題になった。私は先輩が東京で歌手としてデビューしたことを知った。

先輩の歌に、とても晴れた日の教室で母親譲りの赤毛をハサミで切り落とすという趣旨のものがある。学校で受けた許しがたい暴力をなかったことにせず(なかったことにできなかったと言うべきか)、歌にして世に出した先輩に、益々私は畏敬の念を抱いた。

あれから、20年以上経った今、あらためて高校生の頃の自分について考えてみると、ただただ恥ずかしさだけが蘇る。

あまりにも視野が狭い。自分の行動を俯瞰できていない。どのような大きな見取り図のもとに、現在の自分の作業を位置づけたらいいのか、全く見えていない。あの頃の私は本当に、偏差値の高い大学に入ることしか考えていないのである。それ以外、頭にないのである。大学合格が人生のゴールになっていたのである。どこかで違和を感じつつも、「受験勉強して合格しさえすれば全てが安泰」とでもいうような、甘くて間違いだらけの世界に生きていたのである。

馬鹿である。

この国と、自分が住む地域である沖縄の、経済状況や産業のあり方や労働の現状について全く知らない。大学に行けば全てが解決すると信じているアホ。それが私であった。

学校にただただ従順で、それが持つ問題やエラーについて無知なヘタレ、問題やエラーの存在に気付いていたとしても何もしないであろうヘタレであった。もちろん、ブラック企業思いやり予算等の重大な問題やエラーについては、それらの存在さえも知らない情弱野郎であった。

あの頃よりも今の私は、多少はマシになれただろうか。