唾棄すべき輩としての相対主義者─あるいは、怒りの人類学者ボアズの精神について

怒れる人類学者ボアズ

怒れる人類学者ボアズ

「全ては相対的であり絶対的なものはない」という考え方

「全ては相対的であり絶対的なものはない」という前提を掲げて、「ああ。それはあなたの考え方ですね(私はそれを強く否定はしないが、それに強く賛同もしない)」と言わんばかりの態度を示す人がいる。

上記のような態度は、「物事は白黒決められない」や「善悪の区別は難しい」等の物言いを伴い、権力者に異議申し立てを行う人や、自分自身の言動を批判する人の気勢を削ぐ形で示されることが多い。

このような類の物言いは、判断保留を推奨しつつも、「なんか一生懸命、あんたは主張してるけど、それ、絶対的に正しいわけじゃないから」という否定的な意味合いを含んでいる。

所説存在するところではあるが、「全ては相対的であり絶対的なものはない」という考え方は、一般的には「相対主義」と呼ばれる。この考え方を掲げる「相対主義者」は、どのような価値判断や主張に対しても無敵であるように見える。

相対主義者に必要な覚悟

しかし、「相対主義」の立場を取るなら、それ相応の覚悟が必要だ。

なぜなら、「相対主義者」は、「全ては相対的であり絶対的なものはない」という前提を掲げる以上、「こちらの説得に全く応じない暴力的な他者」の存在を、必然的に受け入れなければならないからだ*1

例えば、「いきなり路上で他人に殴られて、「暴力だ!犯罪だ!(だから殴るをのやめろ!)」等と騒いだのにも関わらず、相手は殴るのをやめてくれない」というような事態も、「相対主義者」ならば、甘んじて受け入れなければならない。

これは、「全ては相対的であり絶対的なものはない」という前提がもたらす論理的な帰結である。「殴ることは暴力であること」や「暴力を振るってはならないこと」等の価値感や主張や道理に、他人が強く賛同してくれるとは限らない。「全ては相対的」であるなら、「ああ。それはあなたの考え方ですね(私はそれを強く否定はしないが、それに強く賛同もしない)」とでも言いたげな涼しい態度で、このことを受け入れなければならない。

他人はこちらの言い分を受け入れなくてOK(もちろん自分も他人の言い分を受け入れなくてOK)。このことを最初から全面的に認めてしまっているのが「相対主義者」なのだ。

だから、「相対主義」の立場を取るなら、それ相応の覚悟が必要である。

相対主義」がもたらす「絶対主義」

相対主義」は、他人の考えや主張を無意味なものにすることができる無敵の万能の最高の考え方のように思えるが、実はそうではない。

相対主義」は、「全てが相対的」と述べた時点で、敗北が運命付けられてしまっている、非常に残念で悲しい考え方といえる。

なぜなら、先に挙げた暴力的な他者の話で確認したように、「相対主義」は「暴力的な他者を説得できないこと」を必ず受け入れなければならない、という条件付きで採用できるものだからだ。

相対主義」を標榜すれば、全ての価値判断や主張から自由になれるかと思いきや、問答無用の圧倒的な暴力にさらされた場合に、なす術がなくなる、というわけである。

「全ては相対的であり絶対的なものはない」という「相対主義」のもとでは、あらゆる価値判断や倫理や道理が「あなた個人の特殊な考え方(同意する必要なし)」とみなされ、無視可能な、取るに足らないものとなる。

そして、「相対主義」という考え方さえも、「あなた個人の特殊な考え方」とみなすことができ、無視することが可能な、取るに足らないものであることになる。

ぜなら、「相対主義」においては、「全て」は相対的であるから。

結果、「相対主義」を掲げると、「相対主義」という立場まで相対化され、毒が毒で無毒化されて裏返り、野蛮で危険な無法地帯の振り出しに戻ったような「何でもありの世界」を招いてしまうことになる。

このような世界では、個々の人間が完全にバラバラに独立した、絶対に分かり合えない他者となり、それぞれの価値判断や主張が絶対化する。これは、一人ひとりが国家となったような世界である。そこでは70億あまりの国家がひしめいている。

このような「何でもありの世界」は、武力のみが力を持つ自然状態である。「相対主義」を標榜するなら、暴力に対して暴力で対抗するしかない世界に、甘んじて生きなければならない。

そうなると、待っているのは万人の万人に対する闘争状態である。これをいかに制御して封じ込めるかが、ホッブズやルソーやロック等の哲学者・思想家達の課題であった(そして彼等が思索した結果生まれたのが、人権や法や国家等の概念であった)。

相対主義」を徹底することの難しさ

善悪の判断、物事の是非。これらのあり方は、確かに地域や時代や集団によって異なる。

例えば、出生後の赤子をその場で殺せば、日本では罪に問われるが、アマゾンのヤノマミの間では罪とはならない。

ここには絶対的な分かり合えなさがある。

しかし、ヤノマミの間でも、赤子が成長し一人前の人間として認められた後に殺せば罪になる。殺すことはやはり罪なのである。一人前の人間をどのように決めるのかという点では、我々とヤノマミの間に差異が確かに存在しているが、全てが絶対的に分かり合えないというわけではないのだ。

つまり、「絶対的に正しい」ことは存在するのである。

どのような地域や時代や集団においても、人間にとって食物や水は必要である。睡眠も必要である。性の営みがある。激しく傷つけ合えば血が流れ、その量が多ければやがて動かなくなる。これらに伴う喜怒哀楽の感情のほとばしりがある。

このような生物学的な土台を共有しているため、いくら他者同士とはいえ、分かり合えてしまう部分(「絶対的に正しい」とお互い認めざるを得ない前提)がある。生物学的な共通性のゆえに、「相対主義」を徹底することはむしろ難しいのである*2

相対主義」が問題になる局面は、これはアウト(悪・非)だろうと自分でも薄々分かっている事柄を、自己保身のために等閑視ないし強弁して、「何の問題もないもの」あるいは「セーフ(善・是)」と言い立てる時であろう。

自分の主張を相手が否定できないように、あえて「何でもありの世界」を到来させ、「なんか一生懸命、あんたは主張してるけど、それ、絶対的に正しいわけじゃないから」という否定的な意味合いを仄めかすことで、相手の主張を「あなた個人の特殊な考え方」に格下げ・無意味化するのである。

それ相応の覚悟もないまま。

そもそも「相対主義」とは

かつて「相対主義」は、人類学の分野では、様々な人間集団が持つ世界観や物の見方を、西欧におけるそれに劣るものと前提する西欧人への対抗手段として用いられた。

これを行った代表的な人類学者がボアズである。

彼は、全ての文化が最終的には西欧のそれに発展していくとする進化主義と対決するために、「相対主義」を掲げた*3*4

相対主義」の悪用

しかし現在、「相対主義」は悪用されている。

相対主義」という言葉をわざわざ口に出さずとも、一見して自分でも直感的にアウト(悪・非)と分かっている事柄が、「相対主義」的な態度のもとで、何の問題もないものとして野放しにされている(あまつさえ(善・是)と言い立てられることもある)。

しかも、大抵の場合、「こちらの説得に全く応じない暴力的な他者」を受け入れる覚悟がないまま、にである。

端的に言って、卑怯である。

相対主義」を使うなら、それ相応の覚悟をしろ。

その覚悟がないくせに、「相対主義者」を気取る者は唾棄すべき卑怯な輩である。

相対主義者」であることを確認させていただいたのちに、万人の万人に対する闘争の世界で、相まみえたいものである。

*1:相対主義者」は、「自分に暴力を振るう他者に対して、その行為をやめさせるべく拒否の意思を示しても、暴力的な他者はその表明された意思を無視してOK」ということを認めなければならない。もちろん、「相対主義者」は、暴力的な他者に対して法的措置を取ることは可能である。この出来事が、日本という国家内で起きたのであれば、暴力的な他者は傷害罪で逮捕されるであろう。しかし、法というルールと暴力以外に、「相対主義者」は、このような暴力的な他者による暴力を抑止する手段を一切持てない。言葉を用いた交渉・説得が一切できない。なぜなら、「全ては相対的であり絶対的なものはない」世界では、交渉・説得に応じる絶対的な必要性や義務は全くないからだ。これは恐ろしいことである。しかし、それにしても、「全ては相対的」という立場を取りながら、人権尊重や合理性重視の価値観や考え方に立脚した法というルールをちゃっかり利用する「相対主義者」ほど、情けない者はいない。「相対主義者」であるならば、「全ては相対的」という言葉に従って、人権尊重や合理性重視の価値観や考え方からも距離を取ってみせるべきだろう。「全ては相対的」と言いつつ、人権尊重や合理性重視の価値観や考え方だけを採用するのは、都合良すぎである。だったら最初から、「全ては相対的」等と言わずに、人権尊重と合理性重視の価値感に賛同を示した上で、他者と正面から向き合え。

*2:例えば、「食物と水なしでは人は生きることができない」という主張に対しては誰もが頷かざるを得ない。このような主張に「相対主義」を適用することは不可能である。適用して餓死するのは自由であるが。

*3:ボアズ自身は「相対主義」という言葉を使用していなかったようである。

*4:ボアズの「相対主義」は、「ああ。それはあなたの考え方ですね(私はそれを強く否定はしないが、それに強く賛同もしない)」というような、相手をはねつけて無視する冷たい物言いとは無縁である。なぜなら、ボアズは、文化それぞれの価値を認め、文化の序列化を否定することを目的としていたからである。ボアズの相対主義を言葉にするなら、次のような、他者を包み込んで尊重する温かいものになるであろう。「ああ。それがあなたの考え方なのですね(私はその考え方の存在を認め、優劣の判断は保留します)」 さらに、もしもボアズがフィールドワーク中にいきなり現地人に殴られたら、「暴力だ!犯罪だ!」と騒がずに、その理由や文脈を把握しようとするであろう。その現地人が生きる世界を正確に理解するために。