ベイトソンとマルクス─エラーの産物としての貨幣、あるいは、社会の存立に不可欠なエラー

先日、大学院時代の友人から、「マルクスは、エラーの産物である貨幣を、一掃しようと考えていた」と聞かされました。

恥ずかしながら、マルクスの本を一度も読んだことがない私ですが、貨幣の性質を、クラスとメンバーの秩序を無視する存在であるとマルクスが理解していたことは、様々な論考を通して知っておりました。

例えば、マルクスが貨幣を論理階型の混同の産物であることを見抜いていたことを、次の論考を通して、私は学びました。

■物象化論とその射程:マルクス廣松渉柄谷行人しかし、マルクスが貨幣を「諸悪の根源として消し去ろう」とまで考えていたことを今回聞かされ、私は非常に驚きました。

それをすると、世の中が成り立たなくなるのではないか、それはやってはいけないことではないかと、瞬時に思いました。

上記の話を私にしてくれた友人は、論理階型理論に対して、「上から目線」「何が正しいかを勝手に決めるな」「曖昧でグレーでファジーであることの何が悪い」というような違和を、ラッセルの論理階型理論に基づく評価*1に対して日々感じている人物です。

私も、上記の違和を共有しています。我々の生きる現実は、実はこのようなパラドックスに下支えされており、もしも「このようなエラーは修正してしかるべきという価値観」が蔓延し、実際に修正が行われてしまった場合、我々の社会生活は、根底から、悪い意味で崩壊してしまうのではないか、とさえ思います。

ただ、我々が生きる現実というものを理解するために、もしくは、人間の認識の仕様を把握・理解するために、上記のような現象を、不思議で興味深く面白い現象として取り上げることは、実り多いことだと私は考えています。人類学者が、ラッセルの論理階型理論を参照して何かを語る時は、えてして、不思議な現象に遭遇した時であり、修正の必要を訴えるという意図はそこには全く含まれていない、と私は捉えています。

実際、ベイトソンは、ニューギニアで遭遇したングランビという神秘的な概念について、論理階型理論から逸脱するものとしての不可思議さに気付いていたようですが、だからといって、それを直すべき、修正するべき、正すべきという論は全く展開していません(ングランビについては、浜本先生による下記論考をご参照ください)。

■不幸の出来事 : 不幸の語りにおける「原因」と「非・原因」私の友人は、以前から、浜本先生に、「論理階型の混同」という表現は、「このように表現される何らかの現象を修正すべきもの・劣ったものとして眺める視点を感じさせる」という指摘を何度も直接行っておりました。そのため、浜本先生は、誤解を避けるために、「論理階型の縫合」という言葉を使うようになったという経緯があります(もちろん、浜本先生は、論理階型の混同は修正すべきという意見を持ってはいませんでした)。

PS:マルクスと論理階型理論の関わりについては、浜本先生による下記の文章を読まれた方が、より理解し易いかもしれません。

*1:例えば、「貨幣」や「妖術」や「相性の悪さ」や「日本人」といった概念を「論理階型の混同」と評価すること