期待仮説
プラセボ効果を説明するための仮説として、第2回では「意味付け仮説」を、第3回では「学習仮説」を概観してきました。
今回は「期待仮説」という仮説を見ていきたいと思います。プラセボ効果を説明するための代表的な3つの仮説のうち、これが最後のものになります。
期待仮説の概要
1994年にハーバード大学で開催されたプラセボに関するシンポジウムにおいて、ある研究者が次のように述べたことがあります。
「If you don't believe in them, they don't work.*1」
ここでのthemはプラセボを指しています。つまり上記の発言は「信じなければプラセボ効果は生じない」ということを意味します。
これは「期待仮説」の内容そのものといえます。すなわち「期待仮説」とは、「『この治療には効果がきっとある』という期待(信仰)がプラセボ効果をもたらす」という考え方です。
治療に対して被験者が抱く期待がプラセボ効果を引き起こす。この「期待仮説」の正しさを裏付ける証拠として、ミシガン大学のZubieta博士による実験*2を挙げることができます。この研究は、プラセボ効果発動時の脳をPET*3によって観察し、脳のどの部位の活動が活発化しているのかを世界で初めて捉えた画期的なものでした。
以下より、この実験の詳細を見ていきましょう。
Zubieta博士による実験
Zubieta博士による実験は、20歳から30歳までの右利きの男性(14人)を被験者とし、以下の手順で実施されました。
<PETスキャン1回目>
- 放射能物質を含んだ検査薬を被験者達に注射する。
- 被験者達の脳をPETでスキャンしつつ、痛みをもたらす高濃度の食塩水を、コンピューター制御によるポンプで、彼らの顎に注射する(痛みは40〜60分間持続する)。
- 被験者達は0〜100のスケールで15秒ごとに痛みを評価する(これがベースラインとなる)。
<PETスキャン2回目>
- スキャン1回目の2時間後、放射能物質を含んだ検査薬を再び被験者達に注射する。
- 被験者達の脳をPETでスキャンしつつ、痛みをもたらす高濃度の食塩水を、コンピューター制御によるポンプで、彼らの顎に注射する(痛みは40〜60分間持続する)。
- 4分後、被験者達にはプラセボ(生理食塩水)が4分ごとに静脈注射される。
- 被験者達は0〜100のスケールで15秒ごとに痛みを評価する。
プラセボが注射される際には、被験者達に以下の指示が与えられました。
「痛みを取り除く薬剤の効果を我々は研究しています。この薬剤は、痛みを抑制する脳のシステムを活発化させて、鎮痛作用をもたらすと考えられています。」
<PETスキャン3回目>
- スキャン2回目の1.〜4.の手順を繰り返す。
- 実験終了後、より詳細な質問票を用いて被験者達は痛みを評価する。
Zubieta博士による実験の結果
実験の結果、以下のことが分かりました。
- プラセボ効果発動時には、μ-オピオイド受容体を介した神経伝達が脳内で活発化する。
- 脳のいくつかの部位でμ-オピオイド受容体を介した神経伝達の活性化が確認できたが、とりわけ、側坐核と呼ばれる脳内部位での、μ-オピオイド受容体を介した神経伝達の活動が、「痛みの抑制の度合い」や「痛みの感覚」と強く相関している。
Zubieta博士の実験では、プラセボによって鎮痛効果が生じることは前提とされています。そのため、プラセボによる治療効果の有無に関する統計的な裏付けについては検討を省きます。この実験で注目すべきことは、プラセボ効果発動時には、μ-オピオイド受容体を介した神経伝達が活性化され、実際に痛みが緩和されるという事実です。
μ-オピオイドはエンドルフィンとも呼ばれ、μ-オピオイド受容体と結合し鎮痛作用をもたらすとされる物質です。この結合の活発化がプラセボによって引き起こされていることを視覚的に明らかにした点が、この実験のポイントです。以下にその画像を示します*4。
また、Zubieta博士が、脳の側坐核の活動に着目したことも見過ごせません。実はこの部位は、人が何かに期待をする際に活動が活発化する箇所であり、今回概観する「期待仮説」と関連しています。
詳細は省きますが、その後Zubieta博士は、側坐核の活動に照準を合わせた実験*5を行い、「プラセボ効果が生じやすい人ほど側坐核の働きが活発である」と主張しています。
これらの実験は、被験者が治療に対して期待を抱けば抱くほど、側坐核の活動が活発化し、この部位でのμ-オピオイド受容体を介した神経伝達が活性化され、プラセボ効果が生じることを示唆しています。
3つの仮説の関係について
被験者が初めて受ける治療によってプラセボ効果が生じたケースを「学習仮説」は説明することができませんが、「期待仮説」であれば、「初めて受ける治療に対する期待がプラセボ効果を引き起こした」と説明することができます。
これまでプラセボ効果のメカニズムについて3つの仮説を見てきましたが、これらのうちで最も説得力のある仮説は「期待仮説」であるといえるでしょう。
しかし、「意味付け仮説」や「学習仮説」を間違った仮説であると捉えるのは早計であるとも考えられます。なぜなら、これらの仮説は、「期待仮説」に包括することができると思われるからです。
どのような条件がそろえば、人は治療に対してポジティブな期待を持つことができるでしょうか? もしも、「有名な医師が行ってくれる治療だから。有名な大学で実施される治療だから。」という理由で、被験者が治療に期待を抱いたのであれば、「医師」や「大学」に「有名である」という意味付けがなされていたからこそ、被験者が治療に対して期待を抱くことができたと考えることができます。つまりここでは「意味付け仮説」を適用することができそうです*6。
また、「前にも似たような治療を受けて改善したから」という理由で被験者が治療に期待を抱いたならば、ここでは「学習仮説」を採用することができるでしょう。
このように、医師や施設等の「治療に関わる事物」に対する「意味付け」や、過去に受けた治療による「学習経験」を、「期待仮説」は内包することができると考えられます。「意味付け仮説」や「学習仮説」は見当違いの仮説というよりも、「期待仮説」の構成要素といえるかもしれません。
謎の多いプラセボ効果
プラセボ効果のメカニズムについて、計4回にわたり連載を続けてまいりましたが、いかがでしたでしょうか。Zubieta博士によって全て解明されたかに見えるプラセボ効果のメカニズムですが、プラセボ効果には未だ謎の面が多く、研究はまだ始まったばかりといわれています。
例えば、プラセボ効果は鎮痛作用以外の領域でも確認されます。船酔い、不眠症、鬱病、糖尿病、がん、高血圧、感染症等、プラセボ効果は様々な疾患において確認できます。これらがすべて「期待仮説」で説明できるかどうかも、今後の研究の課題といえます。
また、プラセボレスポンダーと呼称される「他の人とくらべてプラセボ効果を特に生じさせやすい人」が存在していることも明らかになってきています。この現象の解明も今後の研究の課題といえるでしょう。
最後に
プラセボ効果に関する研究は、実薬の価値の喪失や製薬業界の存在意義を脅かすことにつながるという批判がありますが、そうではないことを最後におさえておきたいと思います。
プラセボ効果のメカニズムの解明が進み、プラセボによる治療効果を自由自在に最大限まで引き出すことができれば、副作用の危険が付きまとう実薬をわざわざ使用する必要はなくなるのではないか。そうなれば、実薬が必要とされなくなり、製薬業界の存在理由がなくなるのではないか。このような懸念が表明されることがあります。
しかし、全てがプラセボで解決できるほど、人間の体は万能ではありません。プラセボは確かに治療効果をもたらしますが、限界もあると考えられます。その限界を超えて、より大きな治療効果をもたらすものが実薬です。実薬はプラセボに勝るからこそ実薬といえます。プラセボ効果の研究が進み、プラセボによる治療効果を最大限に引き出す技術がたとえ開発されたとしても、その効果を上回る実薬を製薬業界が作り出せばいいだけの話といえます。プラセボ効果のメカニズムの解明によって、より強力な治療効果をもたらすようになったプラセボと競争すれば、より優れた実薬が誕生していくことでしょう*7。
また、プラセボ研究の過程で明らかになった事実は、製薬という営みで有効利用していくことができます。
例えば、μ-オピオイド受容体の数が生まれつき多い人や、側坐核の働きが活発な人を考慮して鎮痛剤の臨床試験を行えば、このような人々がプラセボ群に偶然偏ってしまうことによって実薬との間に有意差が出なくなることを防止できます。つまり、プラセボ効果のメカニズムの解明は、臨床試験からバイアスを取り除くという点において、臨床試験の精度を高めることに寄与するのです。
現時点においては、μ-オピオイド受容体の数や、側坐核の働きを因子として踏まえた治験デザインは存在しないと思われますが、もしかしたら近い将来には、このような治験デザインのもとで新薬開発が行われるかもしれません。
以上のことから、プラセボ効果のメカニズムに関する研究は、実薬の価値や製薬業界の存在理由になんら抵触せず、むしろこれらを洗練させることにつながるといえるでしょう。
今後もプラセボ研究からは目が離せません。
*1:精神科医Godehard Oepen博士による発言。Morris,D.B., “Placebo, pain,and belief:A biocultural model” In Harrington,A.(ed), The Placebo Effect: An Interdisciplinary Exploration. 1999 Harvard University Press
*2:Zubieta JK, Bueller JA, Jackson LR, Scott DJ, Xu Y, Koeppe RA, Nichols TE, St ohler CS. “Placebo Effects Mediated by Endogenous Opioid Activity on μ-Opioid Receptors” The Journal of Neuroscience, August 24,2005• 25(34):7754 ‒7762 http://www.jneurosci.org/cgi/content/full/25/34/7754
*3:Positron Emission Tomographyの略称。ポジトロン断層撮影法。体内の様子を写真画像にする画像診断法の一種。ポジトロン(陽電子)という放射線を出す放射能物質を含んだ検査薬を注射し、そこから出る放射線を外部から検出することにより体内の様子を画像化する技術。
*4:Kara Gavin 2005/08/23 “Thinking the pain away? U-M brain-scan study shows the body ’s own painkillers may cause the placebo effect” University of Michigan Health System http://www.med.umich.edu/opm/newspage/2005/placebo.htm
*5:David J. Scott, Christian S. Stohler, Christine M. Egnatuk , Heng Wang, Robert A. Koeppe, and Jon-Kar Zubieta “[http://www.cell.com/neuron/abstract/S0896-6273%2807%2900462-X:title=Individual Differences in Reward Responding Explain Placebo-Induced Expectations and Effects]” Neuron, 19 July 2007, Volume 55, Issue 2, 325 ‒ 336
*6:ここでの「意味付け仮説」には若干変更が加えられています。「意味付け仮説」が問題にしていたのは「病気に対する意味付け」でした。しかしここでは「病気」だけでなく「治療」に対する意味付けが問題にされています。今回の連載では「意味付け仮説」の適用範囲を「病気」に限定して話を進めましたが、「意味付け」は病気だけでなく治療に関わる様々なものになされると考えられるため、その適用範囲は拡張されるべきであると私は考えています。「意味づけ仮説」の射程もしくはプラセボ効果における「意味」の重要性については、人類学者Moermanによる以下の論考を参照のこと。[http://www.annals.org/content/136/6/471.full:title=Deconstructing the Placebo Effect and Finding the Meaning Response]
*7:プラセボ研究の進展により、プラセボに実薬を凌ぐ絶大な治療効果が期待できるようになれば、プラセボによる治療効果を限界まで引き出す実薬の開発が行われるかもしれません。