認知言語学の学び方
東大の駒場キャンパスにて、「認知言語学の学び方」というワークショップに参加した。
http://gamp.c.u-tokyo.ac.jp/~tohori/manabi.html
その場にいた言語学者のひとりが、チョムスキーの生成文法の影響から、そろそろ我々は脱するべきではないか、と述べていた。
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これまで言語学者たちは、自らの論文において、自分の考えとチョムスキーのそれとの違いを記述することを、常に余儀なくされていたらしい。必ず言及しなければならないほど、チョムスキーの生成文法には存在感があったのだという。
しかし、チョムスキーの独断場であった言語学のフィールドに風穴を開けたのが、かの有名なレイコフだった。
レイコフはメタファーという視点を導入し、言語学に新たな展望を開いたのだという。
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しかし、ワークショップを聞いていて私は、レイコフの主張に違和感を覚えた。
その場で発表を行った西村義樹という言語学者によって配布された資料には、レイコフの考え方に深く影響を受けた佐藤信夫氏による下記の記述が掲載されていた。
「隠喩を通して経験を理解する能力は、視覚や触覚や聴覚と同じように、一種の感覚であるかのようであり、世界には隠喩によってはじめて知覚したり経験したりできる物事が多々ある」(佐藤 1992:239)
私は疑問を禁じえない。
「はじめて知覚したり経験したりできる物事が多々ある」ということをレイコフはどのように証明したのだろう?
あるなんらかの隠喩を使用していなかった人物が、いつしかその隠喩を使いはじめることによって、いままで一度も得たことの無かったリアリティを獲得していく過程を、あたかもレイコフは観察することができたかのようである。
つまりレイコフは、自らの主張を裏付ける証拠を提示していないのではないかと私は思うのである。
この点を是非調べてみたいと、私は会場で思った。
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参考文献
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061590294/250-8282154-4978624
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4759914269/qid%3D1088224999/250-3438649-6705020