白い皮膚・黒い仮面

成城トランスカレッジ経由で、興味深いテレビ番組のことを知った。

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060313

特殊メイク技術により、「白人」は「黒人」へ、「黒人」は「白人」へ変身し、それぞれ日常生活を送るという内容。

この番組がどのような展開を見せているのか分からないが、私は次のような予想をしている。

「白人」から「黒人」へ変身した家族は、「黒人差別」に苦しむ。

一方、「黒人」から「白人」へ変身した家族も、苦しむ。

いくら外見が変化しても、彼ら家族たちにはそれぞれ「自分は○○人だ」という意識があるはずだ。「白人」には「自分は「白人」だ」という意識が、「黒人」には「自分は「黒人」だ」という意識が、それぞれ存在しているはずだ。

この意識が彼らの精神に変調をきたさせるのではないかと、私は危惧している。

「白人」から「黒人」に変身した家族は、彼らになされる「黒人差別」により、苦しむ。

しかし苦しみはそれだけではない。「自分は本当は「白人」なのに!」という、「自分を「白人」として自明視しているからこそ被ってしまう苦しみ」が、次に彼らを襲うはずだ。

また、「黒人」から「白人」に変身した家族も同様である。「白人」として周囲から接されることは、彼らに束の間の幸福をもたらすであろう。しかし「自分は本当は「黒人」なのに!」という、「自分を「黒人」として自明視しているからこそ被ってしまうことになる苦しみ」が、今度は彼らを襲うはずだ。例えば、「黒人」に仲間はずれにされるという「白人差別」を彼らが経験することによって。

「白人/黒人」という区別、あるいは、「白人」や「黒人」というカテゴリーがある限り、苦しみは再生産され続けるのではないか? 色を白くしても、黒くしても、どっちみち苦しむのではないか? 

人々は、人をその人の名前において認識せず、「白人」や「黒人」というカテゴリー名で理解しようとする。そして、他ならぬ自分自身も実は、そのようにして自分自身を規定してしまう。この引力には逆らいがたい。「私は○○人だ!」という確信。これが苦しみを引き起こす。

私は、「白人」などというカテゴリーも、「黒人」などというカテゴリーも、全部一斉に消えてしまえばいいと考える。そうすれば、「白人」も「黒人」も、互いに苦しむことはなくなるだろう。そしてなによりも、「白人」でもなく、「黒人」でもない境界的な存在も、苦しみから解放されるだろう。

「白人」でもなく「黒人」でもない境界的な存在は、安住できる場所がない。なぜなら両方のカテゴリーの成員から、彼らは半端者扱いされるからである。境界的な存在は、どっちつかずの蝙蝠のような存在として、気味悪がられる。

気味悪がられるだけならまだよい。より厄介なのは、彼らが被る苦しみが、中途半端扱いされることにだけでなく、悲しいことにどうしてか、どちらかのカテゴリーに自分は帰属するものと、この境界的な人物が信じて疑わないことに起因するということだ。最初からどのカテゴリーに対しても帰属感を持っていなければ、余計に苦しむ必要はないのに。

「白人と黒人」そして「白人と黒人の境界人」に関しては、既に人類学の分野において蓄積がある。

そういえば、passing(境界線上の人)という専門用語についても、私はS先生の講義で初めて知ったのだった*1

する必要のない心配を私はしているのかもしれない。

例の番組において、私の予想がはずれることを、私は願う。

*1:参考資料 http://www.cla.kobe-u.ac.jp/Kohou/jikanwari/syllabus2005/c430701.html