所詮我々はカテゴリー化してしまう生き物なのだろうけれど
今日は御茶ノ水でSASのadvancedの資格試験を受けてきた。ちょっと上級コースの資格だったのだが、合格であった。良かった良かった。試験料が約2万円もするので落ちると痛い。自分へのご褒美として、御茶ノ水付近を飽きるまで散歩することにした。
御茶ノ水は、アテネフランセだとか明治大学だとか美術学校だとかが立ち並んでおり、文化芸術の香り満載な地域である。
青空の下、やや強めの風に吹かれつつ、散歩する。
中央線を右手に眺めながら、ゆるやかな坂を下りていくと、左手に本屋が見えたので、本を物色。
以下の本を立ち読みした。
- 作者: 片桐雅隆
- 出版社/メーカー: 世界思想社
- 発売日: 2006/07
- メディア: 単行本
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興味深い内容だった。
私は時々、「かつて人類学者は植民地主義に手を貸した。かつて明らかに人類学者は植民地統治に関与していた。その責任を取れ」*1と、「自分のことを人類学者ではないと自認している人」に言われることがある。
私はいつもこの手の物言いに違和感を持つ。ここでは、「私とは異なる人物」が過去に行ったことの責任を、私が取らなければならないことが主張されている。この主張を三段論法の形で定式化すると、例えば次のようになる。
- 重森は、人類学者である。
- かつて日本による台湾の植民地統治に関与した古野清人は、人類学者である*2。
- したがって、重森は古野清人であり、かつて古野清人が関与した植民地統治的活動がもたらした災厄の責任を取らねばならない。あるいはこれについて反省しなければならない。
私は、この手の論理に出会うたびに、考え込んでしまう。「この手の論理はどこまでその正しさが保証されるものなのであろうか?」「このような論理に沿って物事を考察することに、何かメリットなり意義なりがあるのであろうか?」という疑問が頭を巡る。
前置きが長くなってしまったが、私が言いたいのは、上記のような論理に内在されている「事象をカテゴリー化してものを考える」という傾向について書かれた本が、今日、本屋で手に取った学術書であった、ということである。
◆
- 重森は、人類学者である。
- かつて日本による台湾の植民地統治に関与した古野清人は、人類学者である。
- したがって、重森は古野清人であり、かつて古野清人が関与した植民地統治的活動がもたらした災厄の責任を取らねばならない。あるいはこれについて反省しなければならない。
という論理に素直に従うことはできる。そして「すいませんでした。責任とります。何をしたらよろしいでしょうか?」と迷惑を被ったと訴える人(←もしいるのならば)に、尋ねることはできる。
しかし、私はこのような論理で物事を考えていいのかどうか、躊躇してしまう。先ほども言ったように、「この手の論理はどこまでその正しさが保証されるものなのであろうか?」「このような論理に沿って物事を考察することに、何かメリットなり意義なりがあるのであろうか?」という疑問がわいてしまうのである。このような仕方で何かを理解し行動することに、違和感を覚えてしまうのである*3。
下記のように、この論理は様々に応用できる。
- タモリは、日本人である。
- かつて琉球処分を担当した松田道之は、日本人である。
- したがって、タモリは松田道之であり、かつて松田道之が関与した琉球に対する植民地統治的活動がもたらした災厄の責任を取らねばならない。あるいはこれについて反省しなければならない。
- なだいなだは、医者である。
- かつてロボトミー手術を行った中田瑞穂は、医者である。
- したがって、なだいなだは中田瑞穂であり、かつて中田瑞穂が行ったロボトミー手術によって不利益を被った人々に対する責任を取らねばならない。あるいはこれについて反省しなければならない。
- マイクタイソンは、アメリカ人である。
- かつてアメリカ先住民を強制移住させたアンドリュー・ジャクソンは、アメリカ人である。
- したがって、マイクタイソンはアンドリュー・ジャクソンであり、かつてアンドリュー・ジャクソンが実行を命令したアメリカ先住民強制移住がもたらした災厄の責任を取らなければならない。あるいはこれについて反省しなければならない。
なにかおかしくないだろうか?
ここでは、人物Aが過去に行ったことの責任を、人物Bが取らなければならないことが主張されている。この点に私は論理の飛躍を感じる。
おそらく、この飛躍を保証するのが、カテゴリー化であろう。例えば、マイクタイソンとアンドリュー・ジャクソンの話においては、以下のことが確認できる。
- マイクタイソンはアメリカ人という集団のメンバーとしてカテゴリー化されている。
- アンドリュー・ジャクソンも、アメリカ人という集団のメンバーとしてカテゴリー化されている。
- 両者は同じアメリカ人であり、同一の存在とみなされている。
上記に見られるような「事象をカテゴリー化する」という傾向が働いているおかげで、「かつてアンドリュー・ジャクソンが行ったアメリカ先住民強制移住の責任を、マイクタイソンが取らねばならない」と主張することが可能になっているといえる。マイクタイソンがアンドリュー・ジャクソンが行った行為の責任を取るべき人物として糾弾されることは、我々が持っている「事象をカテゴリー化」する傾向によって、はじめて可能になるといえる。
◆
このような論理を聞かされると、狐につままれたような感覚に、私は陥る。
しかし、このような論理を「当たり前のことじゃん」という態度で私に話してくる人物が現に存在することを考えると、違和感を感じる私がおかしいのではないかと思ってしまう。
私が感じる違和感は、「事象をカテゴリー化してものを考える」という我々の傾向に対するものである。
しかし、これは、我々が世界を認識する仕方そのもののようにも思える。
したがって、この傾向に対する違和感に拘泥することは、日常生活を送る上で障害になってこないだろうか? 違和感ばかり表明していると、「人の話を素直に聞けない天邪鬼」として、私は馬鹿扱いされてしまいかねない。
違和感を感じる私は間違っているのだろうか? もしも、間違っているのならば*4私はこの論理を受け入れる努力をしなければならないのだろうか?
◆
といった問いに対する答えを探している私にとって、本屋で偶然見つけたこの本は、何らかの示唆を与えてくれるものに思われた。
しかし、ざっと目を通したところ、この本では、「人は事物をカテゴリー化してものを考える」という事実だけが記述されており、私の問いに対する答えは載っていないような印象を受けた。
といっても、ざっと目を通しただけなので、今度、図書館でじっくり読んでみたい。
*1:「どのような資格あるいは属性を備えた人間が「人類学者」と呼びうるのか?」という疑問もあるが、「人類学者」を自認したり、「人類学者」と呼ばれたりする人たちは現に存在していたので、「人類学者」なるものは存在すると考えてみる。そのうえで、例えば次の資料を読んでみると、いかに植民地(ここでは台湾)において人類学者は植民地統治に関与していたかを伺い知ることができる。http://www-soc.kwansei.ac.jp/kiyou/83/83-ch5.pdf (82ページの「3 植民地での人類学」参照のこと。) 確かに「関与」という言葉も、「どのようなことをすれば関与したことになるのか?」という疑問を生じさせるが、「植民地を日本の支配下に置くという目的を持って研究していた」ならば「植民地経営に深く関与した」と操作的に定義することにする。以上の前提を踏まえるならば、次のように結論できる。「人類学者は植民地主義・統治に関与していた。」
*2:「植民地主義・統治に関与していた人類学者」として、ここでは古野清人氏を取り上げる。
*3:私が異常だからかもしれないが
*4:どのような基準に照らし合わせたうえで「間違っている」といえるのか?