「抑止力」あるいは「想像力の貧困」あるいは「確率の解釈」について

「抑止力」とは何か? 

要するに、「他国が東京都*1にふるう暴力を抑止する力」*2のことなのであろう。

米軍基地が沖縄の人々にふるう暴力を早急に抑止して欲しい。

上記課題が達成されないならば、「抑止力」という言葉は使用されるべきではない。

普天間基地問題を巡る一連の動きに関して、Cocco先輩が[こっこタイム。]にて以下のように書いていた。*3

ばあちゃん、ごめん。今、やさしい歌は歌えない。

じいちゃん、力をくれ。今日はまだこの体に残っている怒りで、走りたいんだ。

「怒り」という文字に目がいく。Cocco先輩が怒っていることが分かる。

Cocco先輩だけでなく、今、沖縄全体が「怒り」に包まれているようだ。

私には「怒り」が足りない。

「米軍基地が沖縄の人々にふるう暴力を早急に抑止して欲しい。」と冒頭で書いたものの、実はあまり危機感がない。基地問題はどこか遠い世界での出来事であるかのようにリアリティがない。

戦闘機の爆音で腰を抜かしたり、盛り場を闊歩する凶暴な体をした米兵に恐怖を感じたりしたことはある。

しかし、頭上にヘリが落ちてきたり、米兵にナイフで刺されたり、恋人がレイプされたりした経験は全くない。

そのため、米軍基地の脅威を心から感じることができないのである。

おそらく、私が米軍基地に脅威を感じ、心底から「怒り」を覚えるのは、もはや取り返しがつかないことを痛感するような出来事に、実際に私が遭遇した時なのであろう。

それだけ、米軍基地に対する私の想像力は貧相なのだ。

想像力が貧相であること。このことに私は危機感を持つ。

いや。普通なのだとは思う。至って私の感覚はまともなのだと思う。全然問題ないと思う。むしろ上出来だと思う。明日もいつも通りに会社に行って、いつも通りに仕事して、いつも通りに帰るのだと思う。

そうやって日々が過ぎて、夏休みとか正月とかに沖縄に帰省して、家族や親戚と時を過ごして、また東京に戻ってきて会社に行って仕事して帰って…というサイクルを、おそらくあと30年ぐらい私は繰り返すのであろう。

そして、いつか、もしかしたら、この繰り返しの過程のどこかで、頭上にヘリが落ちてきたり、米兵にナイフで刺されたり、恋人がレイプされてしまったりするのかもしれない。

しかし、このような出来事に遭遇するのは、かなりの低い確率であろう。このような出来事に遭遇する危険性はあるが、このような米軍基地絡みの事件との遭遇は、あくまで稀なことなのであろう。運が悪かったとしかいえない、滅多に起きない珍しいことなのであろう。

しかし、このような出来事に実際に見舞われてしまったならば、「確率の低さ」とやらに一体何の意味があろうか?

起きるときは起きるのである。

いくら稀にしか起きない出来事であっても、起きる時は起きるのである。

そして、起きた時はもはや避けきれない。確実に私は後悔する。確実に泣き叫ぶ。確実に怒り狂う。確率的に低いから何だというのだろうか? 

こんな確率は絶対にゼロであるべきだ。たとえ0.05未満であっても断じて許容できない。

*1:とりわけ霞ヶ関や皇居付近

*2:そのような力がそもそも米軍に備わっているのか疑問である。また、東京都に暴力をふるう他国と、米軍が戦ってくれるかどうかも疑問である。

*3:なぜCocco先輩の文章は「普天間基地問題を巡る一連の動き」についての文章といえるのか? 「たくさんの想(おも)いを束にして、全部繋(つな)いで金網に結んだ。」という記述に「辺野古の海岸に張り巡らされた金網に結ばれた折鶴」を私は想起した。Cocco先輩は「普天間基地問題を巡る一連の動き」について書いているはずである。