ニーチェかっくいい


「貴方があるものを正しいと感ずるそのこと、それは、貴方がかつて一度たりと御自身について深省されたことがなかったところに、そして貴方が幼年時から正しいと教えられてきたものを盲目的に受け容れたところに、その原因がある」(ニーチェ 1993(1921):350)

「比喩」について知りたいと思い、ニーチェの『悦ばしき知識』という本を読んでいる。我々が常日頃から使用している言葉は、ニーチェによると「比喩であることを忘れられた比喩」らしい。

例えば、「顔に泥を塗る」という言い回しは「恥をかかせる」ということのたとえになっている。つまり、「顔に泥を塗る」という言い回しは、「恥をかかせる」という言い回しの比喩なのだ。

しかし、ニーチェは、「顔に泥を塗る」だけでなく、「恥をかかせる」という言い回しさえも比喩表現だと主張しているらしい。すなわち、「恥をかかせる」は「比喩であることを忘れられた比喩」なのだ。

我々が常日頃から使用している言い回しは、よく考えてみると、字義通りに理解することができないものに溢れている。「運が落ちる」や「相性が悪い」や「つきがない」という言い回しは、耳にすれば意味は分かるものの、厳密に考えてみると、違和感を与えるような代物だ。「運が落ちますよ」と自分で言いつつ、「しかし、そもそも運ってなんだろう?」と、私は不思議に思ったりする。

まさしく人類学者の浜本満ニーチェを引き合いに出しつつ、「我々は比喩が提供するところのリアリティを生きている」と述べていた。

「まさにニーチェはリアリティとは比喩であることを忘却された隠喩、字義通りの真実として通ってしまう隠喩だと我々にすでに教えてくれてはいなかっただろうか。語り口をいまだ自らのものにしていない者だけが、その比喩性にたじろぐのである。未亡人の「巣立ち」や妻の「引き抜き」といった言い方が我々を驚かせ、弟による兄の「追い越し」という表現がそうしないのは、両者に何か根本的な違いがあるからではない。単に後者の場合にはこちらも似通った比喩を用いているというだけの偶発的な事実によっている。このことは、まさにニーチェが指摘しているように我々が字義通りのものとしている言い回しが実は十分に比喩的であり、我々の目に何をたとえているのかすら定かでないように見えるとんでもない比喩的な言い回しが、当たり前の事実について述べる言い回しとして通用しうるのだという可能性を、あらためて思い出させてくれる」(浜本 2001:206-207)。

「私は、もっぱらドゥルマの屋敷の維持や修復をめぐる実践と、我々をそのあからさまな比喩性でたじろがす、その語りの問題に終始してきた。しかしそこで明らかにされた特徴、比喩性と恣意性と有縁性の組み合わせが、我々が無造作に「儀礼」的実践という合切袋に放り込んできたような種類の実践に特有の、特殊なものだと考えるとすれば、大きな過ちであろう。ニーチェが言うように我々にとってのリアリティが、比喩であることを忘却された比喩、字義通りの真実として通ってしまう比喩なのだとすれば、こうしたリアリティを踏まえた我々の日常的な振る舞いのそれぞれに──比喩の連鎖を通じて、最終的に実行可能な字義通りに解釈できるかもしれない行動に接続するとしても──根拠のない見立てが行なう認識論的ジャンプで知らぬあいだに埋められてしまっているようなギャップが無数に横たわっているとは言えないだろうか。「誠意を見せるように」といわれて、ところで「誠意」とはいったいなんだったのだろうと突如あやしくなってしまったり、「きちんとけりをつけておくように」と言われて、さてこの場合何をすれば「けりがつく」ことになるのだろうと考え込んでしまったり、社会を優雅に泳ぎ渡る技倆を突然失ったかのように自らの無様さに気付かされる瞬間ごとに、そうしたギャップがさりげなく顔をのぞかせる」(浜本 2001:403-404)。

とにかく、比喩はリアリティの問題と深く関わっているようだ。そしてそれは、妖術信仰とも関わってくるに違いないと私は思っている。だから私は今、ニーチェを読んでいる。

しかし、比喩に関する箇所がなかなか見つからない。困った。

それなのに私は、ニーチェの「愛」に関する考察にばかり注目してしまう。

ニーチェという人は、ねっからの哲学者なのだろう。なんでもかんでもどんなことに関してもとことん考えまくる人のようだ。当然、人生において大きなウェイトを占めてくる、あの「愛」とか「恋」とか言われる話題についても、考察しまくっている。

「比喩」そっちのけで、私はニーチェの「愛」論に読みふける。

特に「すべて愛と呼ばれるもの。」という書き出しから始まる断章に私は強く引き込まれた。以下その要約。


・すべて愛と呼ばれるもの。

「愛する者は、じぶんの思い焦れている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。(中略) われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、──つまり性愛のこういう荒々しい所有欲と不正が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引きだした──愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのに──という事実に、である。ここで明らかなのは、所有しないでいて渇望している者たちがこういう言語用法をつくりだしたということだ、──確かにこういう連中はいつも多すぎるほどいたのだ。(中略) だがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継承がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求がある新しい熱望と所有欲に、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの共同の高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか? 誰がこの愛を体験したろうか? この愛の本当の名は友情である。」(ニーチェ 1993(1921):80-81)

かっくいい。ニーチェかっくいい。愛の本当の名は友情なのか。

しかし、「ある新しい熱望と所有欲」や「共同の高次の渇望」という言葉、分かるようで分からないような、魅惑的な言葉だ。この点についてもっと詳しく話を聞きたいぞ。

引用参考文献

ニーチェ 1993(1921) 『悦ばしき知識』 ちくま学芸文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080783/ref=sr_aps_b_/249-8829153-2233161

浜本満 2001 『秩序の方法』 弘文堂
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4335560982/ref=sr_aps_b_1/249-8829153-2233161