読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

近づくな

労働問題 人類学 書評


現在働いている職場は、三越前駅に近々移転する。移転までの残り少ない日々を悔いなく過ごせるよう、昼休みは散歩をしまくっている。

しかし気がつくと足は、自然に八重洲ブックセンターへ向いている。本のある空間さえあればどうやら私は満足らしい。

4階に行く。やはり人類学関係の書棚をチェックしてしまう。八切止男によるサンカの本や、赤坂憲雄が執筆している東北学にパラパラと目を通したあと、『パパラギ』という本を手に取った。

名前は知っていたが、私はこの本を読んだことがない。

『パパラギ』では、いわゆる「文明人(近代人)」に対する、いわゆる「未開人(現地人)」と呼びえる人間からの思いが表明されていた。

「私たちに近づくな」

ニートって税金払ってないんだからだめだよな。迷惑だよな。」

スタバで隣り合わせた30代の「社会人」二人のうち一人が、さも当然というような顔をして言った。もう一人の「社会人」は、「だよなー。ニートって甘えてるよな。」と同意する。

ホットココアを飲みつつ隣で私は、心の中で次のようにつぶやいた。

「人は税金を払うために生きているのではない。ニートニートとして胸を張って生きればいいのだ。」

「うっせーよ!ホームレスが偉そうな口をきくな!」

朝の満員電車で、「社会人」と思しき男が吐き捨てるように言った。「ホームレス」と呼ばれた男は、「社会人」に対する追求をやめない。「あなたは、私が並んでいたところに割り込みしたうえに、注意をした私をこづいたでしょう。一言謝ってください。」

ネクタイとスーツを身につけた「社会人」は、「ホームレス」と彼が呼ぶ男に問い詰められている。「ホームレス」と呼ばれた男の年齢は60歳くらい。白い髭を生やし、ジーンズをはいており、全体的に薄汚れた服装をしている。「社会人」は問いかけ続ける白髭じーさんに無視をきめこみ、時折「うっせーよ!」とじーさんを恫喝する。

私は現場を見ていない。「社会人」が白髭じーさんをこづいたかどうか分からない。しかし、「社会人」の態度とその差別的なセリフは、私を確実にむかつかせた。

「こんな奴が「社会人」のはずがない。こんなカッコ悪い奴の仲間になるために、私は「社会人」になったのではない。」

「分かりました。次の駅で一緒に警察へ行きましょう。あなたは割り込んできたうえに暴力をふるった。私は許しませんから。」

白髭じーさんはそう言うと「社会人」の腕を掴み、上野駅の人ごみへ消えていった。日頃から力仕事をしている人なのだろうか。薄汚れたシャツから見えたじーさんの腕の筋肉はかなり発達していた。

このじーさんが「ホームレス」かどうか私は知らない。しかしいずれにせよ、堂々と自分の意見をあくまで紳士的に伝えようとするその姿勢は、尊敬に値する。ひさしぶりにいいものを見た。

「私たちに近づくな」

なぜだか分からないが、ある種の人々は、自分の生き方や存在の仕方を、他人に押し付けたがる。他人を自分に同化したがる。他人の生き方や存在のあり方を卑下したがる。

別の生き方や存在の仕方を押し付けられても、その押し付けにまんまと飲み込まれないでいてほしい。「私たちに近づくな」と毅然と言ってほしい。

もちろん、「私たちに近づくな」というセリフにおける「私たち」という複数の人間の間においても、「私に近づくな」というセリフが堂々と使用されてほしい。この地球に生きる全ての人間によって。

参考資料

絵本パパラギの紹介
http://www.epis.com.hk/e-library/column/books/paparagi.html

付け足し

ツイアビは、パパラギの生き方や存在の仕方を嫌う。そしてパパラギの生き方や存在のあり方と、自らのそれを比較し、自らのそれが断然良いと判断する。ツイアビは、パパラギに自分の生き方や存在の仕方を押し付けたがっているように思える。

お互いの生き方や存在の仕方を、対等に押し付けあえたら一番いいと私は思う。

そしてさらにいい状態とは、様々な「生き方や存在の仕方」を、まるで洋服を着替えるかのように、自由自在に身につけることができるようになることではないだろうか。

しかし、このようなことができるのは、狂人か仙人のどっちかだろう。そして私には、このような芸当を行う能力はない。

「社会人」として存在していることに、私は謎の安堵感と充実感を感じてしまっている。修士の院生の頃とは大違いだ。このことに私は悔しさを感じている。

なぜ、修士の院生の頃には持つことができなかった安堵感と充実感を、私は今、得ることができているのであろうか?

「自分の生活費を自分で稼げること」が可能になったからではないだろう。修士の頃は、育英会からお金を借り、それを生活費にして生きていた時期もあった。すなわち、親の世話になっていない時期も確実にあった。にもかかわらず、私は自己不全感を感じていたのである。

「就職して社会人になったこと」が、現在の私に安堵感と充実感をもたらしているような気がしてならない。

私が勤める会社が倒産しないという保証はない。会社が置かれてる経済的状況や借金について私はまったく知らない。会社の財政的状況について無知なくせに、自分の会社がつぶれる可能性についてはこれを私は全く考慮していないのである。

それに、よく考えてみると、私は会社に依存しているとも言える。受注をとってくるのは、会社の他の誰かだ。私は自力で受注を獲得しておらず、単に与えられた仕事をこなしているだけだ。私は、エサを求めてアーンと口をあけるひな鳥のように、仕事を待っているだけだ。にもかかわらず、私は修士の頃とは異なり、妙な安堵感と充実感を得ているのである。

私は「社会人」の言説にまんまと飲み込まれていると言える。「ネクタイ」締めて、「スーツ」を着て、いわゆる「会社」と呼ばれる組織に所属していること自体に、安心感を覚えているのである。

まるで、「結婚できない女は女として半人前だ」という言説に縛られ、「結婚をした」ことによって安堵に陥る「かわいくてお利口さんな女の子」のようだ。

「自他ともに社会人として認識されたこと」によって、安堵している私は、問題だ。「自他ともに日本人(あるいは「沖縄人」)として認識されたこと」によって、安堵している「沖縄人(あるいは「日本人」)」は、問題だ。

「私はあえて「社会人」あるいは「日本人(あるいは「沖縄人」)」として振舞っている。私は「社会人」や「日本人(あるいは「沖縄人」)」のコスプレをしている。」という意識が持てればいいのだが。今の私は自分自身を「社会人」としてしっかり認識しており、そのことによって安堵感と充実感を得ている。この状態に、私は胡散臭さを感じる。


f 2005/09/18/03:14:54 No.108

 主に後半部に対するコメントです。
 お金というものは、やはり社会的にかなりの程度認められている価値です。それゆえに、何らかの代償を提供する見返りとして、そのお金を獲得しているということは、重森くんが社会に存在していていいという許可を与えられているものであると思われます。
 お金を借りていたり、あるいは代償なしに与えられている状態とは、おそらくは違うなにかが「会社勤めで自分自身の身を削って」お金を獲得しているという事実から得られるのでしょう。となると、お金は「喰っていく」ためだけに存在しているというモノではなくなってきますねえ。
 「社会人」として働くことでお金を「獲得」する。そのことによって「社会」に認められなければならないという脅迫観念的な欲求が満たされる。だから、学生のときに親から養われていたよりも、奨学金を貸し与えられていたときよりも、生きやすい。のでしょうか。
 かくいうワタシも、借金ではない「研究のためのお金をもらう」ようになってから、かつて奨学金を貸し与えられていたときとは異なる(経済的な)心理状態を持つようになったような気がします。それはある意味で充足したものですが、こちらが払っているものが空手形であるということもあるので、逆に切羽詰まったものであるような気もします。


重森 2005/09/18/12:38:20 No.109

世界中、どこに逃げたとしても、お金からは逃れられないように思います。

Fさんが仰るとおり、「何らかの代償を提供する見返りとして、お金を獲得しているということは、社会に存在していていいという許可を与えられていること」であると私も思います。「そんなことはない!」と口では否定できますが、私も「社会と関わることでお金を稼げるということ自体が、社会に存在してもよいという証そのものであること」を肌で知っております。確か谷川俊太郎という詩人も似たようなことを述べておりました。

http://www.1101.com/tanikawa/02.html

しかし、たとえ自分で社会と関わることによってお金を稼ぐことができるようになったとしても、今度は、「いくら稼いでいるか?」ということが問題にされるように思います。

知り合いの「社会人」が、「俺の同期で年収1千万円稼いでいる奴がいる。俺も負けていられない。」と熱く語っておりました。「生活できるだけのお金を稼げればそれでいいじゃん。なんだかアッパーな人だなあ。がんばってね」という感想を私はそのとき持ちました。

次から次へと、目指すべき目標が設定され続けるこの社会は、生きにくい社会であるような気がするのは、私だけでしょうか。

目指すべき自分の「存在の仕方」を、目標という形で自分でわくわくしながら設定することは好きなのですが、世間(って何だ?)によって半強制的に特定の「存在の仕方」を設定させられるのは遠慮したく思っております。

また私は、「お金の稼ぎ方」に対する世間の一般常識に関しても、違和感を覚えています。

例えば、①風俗嬢が客のペニスをしゃぶってひねりだすお金と、②私のようなSEが休日出勤してPCの画面と12時間見つめあってひねりだすお金と、③都心に土地を所有していた親から土地を相続したお坊ちゃんがその土地を有料駐車場にしてひねりだすお金と、④いわゆるニートが親や親戚やきょうだいに要求してひねりだすお金と、⑤皇居と呼ばれる場所に住んでいる人々が「皇族」として存在していること自体によってひねりだしているお金の額がすべて同額であった場合、どうして②と③が一般常識的にまっとうな「金の稼ぎ方」とされ、①と④は不適当な「金の稼ぎ方」とされ(注1)、⑤についてはそもそも問題にされること自体がないのでしょうか(「皇族は個々具体的な活動によってお金がひねりだしている」という言い回し自体がなされることがそもそもない)。

このような問いを立てると、「そういう風に社会はできているのだ。疑問を持つな。つべこべ言わずに働け青二才。」と世慣れた人にお叱りを受けてしまいそうです。しかし、やはり私は疑問に思います。

「お金を稼いでいるかどうか」という問いは、「お金をどのようにして稼いでいるか」という問いに言い換えたほうが、適切であるように思います。または、「どうしてその活動は「お金を稼いでいる行動」としてみなされないのか?」と言い換えたほうが面白いように思います。

専業主婦による家事全般にまつわる活動が、「不払い労働unpaid work」という言葉によって、「本来は賃金が発生してもおかしくない労働」という位置づけを与えられたように、ニートやホームレスやフリーターや院生や「未開人(現地人)」といった存在の、日ごろの活動そのものが、金をひねりだすに値するものであると主張することはできないだろうか。社会に存在するに値するものであると主張することはできないだろうか。などと、考えたりしております。

注1

①と④に関しては、「「金の稼ぎ方」として、その方法では長続きしない。効率的ではない。安定していない。」という批判の仕方ではなく、「道徳的倫理的にその「金の稼ぎ方」はよくない」という批判がなされているように思います。

① は「セックスは「愛(←なにこれ?)」とともに教」の信者により、「性を売り物にする人間はそれだけで異常」と判断され、「男性のペニスをしゃぶること」はまっとうな「金の稼ぎ方」とはみなされません。「道徳的にいけてない」とみなされます。「セックスは「愛(←なにこれ?)」とともに教」の信者に反論することは、不可能に近いので、私はあえて反論しません。自分の「思い込み」を相対化することは難しいでしょうから(私も「セックスは「愛(←なにこれ?)」とともに教」の信者なので、この「思い込み」から逃れることが困難であることはよく分かっています。)。

④は「税金を払ってない」や「親に依存(←って何だ?)していると本人のためにならない」という理由により、まっとうな「金の稼ぎ方」としてみなされません。これも「道徳的にいけてない。人として恥ずべき生き方」とみされていると思います。上記の批判に対しては、下記のように個別に反論できるように思います。

ニートは親から稼いだお金で「税金」を払えばいい。」
「親に依存(←って何だ?)するかどうかを決めるのはあくまでもニートであり、自己責任に基づいた彼らの判断を批判するのはお門違い」

親が死んで、もはやニートが親に依存(←?)できなくなったならば、あとはニートが自分で自分の行く末を決めるでしょう。きっと大部分のニートはホームレスになると予想されます。

そしてホームレスになるのを楽しみにしているニートも中にはいるかもしれません。もしもそのようなニートがいるならば、彼らがホームレスになる権利を認めてあげてもいいのではないでしょうか。

ニートやホームレスを批判する人々の多くは、「労働力の減少により日本経済が衰え、かつ、国民年金制度が破綻し、自分の取り分が減ること」を真っ先に心配しているだけにすぎず、ニートやホームレス自身のことを本気で心配している人は全くいない可能性があります。また、「あいつら働かずにうらやましい」という妬みから、ニートやホームレスを批判する人もいる可能性があります。ニートやホームレスは、「自分の都合のために」彼らを利用しようとしている人々に注意したほうがいいかもしれません。

ところで、⑤に関しては、「金の稼ぎ方」や「仕事」といった言葉との関連でそもそも⑤が問題にされることが全くありません。「にこにこ微笑んで独特なポーズで手を振って、400字ぐらいのセリフを人前で口にすること」が彼らの行っている活動の大部分を占めています。きっと子どもの頃から練習させられるのでしょう。あの笑顔と物腰は、まさに芸です。もしかしたら皇族とは、伝統芸能集団なのかもしれません。まさに国宝です。国家の宝です。そうであるならば、国の宝は国民の税金によって保護してあげなければならないでしょう。

しかし私は、彼らの芸を国宝級とは認めません。あれぐらい私でもできます。いやむしろ私の笑顔の方が、好印象を相手に与えるように思います。だから私の納める税金を彼らの生活保護に回すことはやめて欲しいと思います。


重森 2005/09/19/19:39:18 No.110

近くの図書館で、ニートあるいは引きこもり関係の本に目を通してみた。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140808438/qid=1127125314/sr=1-12/ref=sr_1_2_12/250-5977602-9543431

ニートや引きこもりと呼ばれる人たちの中には、「社会」に出たがっている人が多く含まれているようだ。

つまり、好きでニートや引きこもりをしているわけではないのだ。

そうであるならば、なんとかしなければならない問題だと思う。

ニートな状態が大好きでたまらない人を、お節介な世間の人々が「外に出ろ!」と無理強いしているのなら、話は別だが。

(↑ 本当か? 「外に出ろ!」と無理強いすることによって、医療保険国民年金制度を本当に必要としている人々の生活を保証することは必要ではないか? 介護疲れにより心中するお年寄りの事件を見るたびに、「国民年金の支給額がもっと多ければ、介護ヘルパーを頼むことができたのではないか?」と私は悲しくなる。確かに、国会議員による国民年金の未納や、国民年金制度そのものの破綻といった、第一に考慮すべき根本的な問題はある。しかしもしも、「税金」を払う人間が減少することによって、本当に困っている人が放置される可能性が高いならば、ニートや引きこもりを「社会」に出すことは重要な課題になってくるように思う。とはいえ、仮に日本中のニートや引きこもりが「社会人」になったとしても、国民年金制度は遅かれ早かれ破綻するのではないだろうか? やはり一番の問題は「少子化」であるような気がする。労働人口と税収がどれくらい確保できれば、国民年金制度は破綻しなくてすむのだろうか? 具体的なデータが欲しい。)