運転免許証更新のお知らせと一五一会

運転免許証更新のお知らせが届く。

「大気中における車の排気ガスの増加を抑止したい」という思想上の理由から、免許証取得以来、重森さんは一度も車を運転したことがない。都内での移動の際には、電車の利用や徒歩を重森さんは心掛けている。また、たとえ「引きこもり」や「根性なし」という言葉を浴びせられたとしても、友人との交流の際にも、自らに課した大義を想起し、車の運転や車への乗車がからむ活動には、重森さんは極力関与しないようにしている。また、「免許があって車持っている男性ってポイント高いよね」等と話す女性には重森さんは目もくれない。「免許がなくても車がなくても人を好きになってくれる人」にしか重森さんは興味がない*1

以上のことから、重森さんに運転免許証は必要ないという結論が導き出せそうである。

しかし、運転免許証には身分証明書としての利用価値がある。

もちろん、運転免許証を保持することにより、国家に住所や顔や生年月日等の個人情報を管理されてしまうという事態も発生するが、管理されることにより、日本という国における重森さんという人間の存在・輪郭・信用度についてある一定の保証が得られるというメリットには、捨て難いものがある。

私が何者であるのかを雄弁に語ることができるのは、住民票や戸籍謄本や健康保険証を除けば、運転免許証ぐらいであろう。なにしろ国家のお墨付きであるのだから。その点において、私は国家に感謝しなくてはならない。国家という容れ物がなければ、私は他にどのような手段を用いて、私自身が安全な人間であること、まともな人間であること、一定の信用を置ける人間であることを、他人に伝えられるのだろうか? 
例えば、TUTAYAにおいて、「私がTUTAYAから借りたものを返してくれること」を保証するものは、私の人柄や外見、TUTAYAの定員の私に対する認知度ではなく、運転免許証である。運転免許証さえ出せば、TUTAYAの定員はすぐに会員カードを作成してくれる…。

などと、運転免許証更新のお知らせハガキを握りしめつつ妄想しながら、「では、土曜に府中試験場まで免許の更新に出かけようか」と重森さんは計画した。

しかし、土曜日は試験場がお休みであることを土曜の朝に知り、結局重森さんは運転免許証更新を断念した。

運転免許証更新というイベントが延期となった代わりに、重森さんは、建築家に飲み会へ誘われ、JP御徒町駅近くのとあるお店に足を運んだ。

そこで重森さんは、謎の楽器「一五一会」の開発者の一人である歌手から、なぜか「一五一会」の弾き方レッスンを受けた。「でしょ。ほとんどの曲が指一本で弾けるわけ。すごいでしょ。やってみて、まず1、次5、次6…」と指導してくれる歌手に、終始重森さんは、「なんか、この人は台風みたいな人だな…。有無を言わせないスピード感がある…。直線的であり、かつ、散発的…。」という言葉を想起してしまったのだという。

音楽理論など無視して、まずは好きなように、好きな曲を弾いたり歌ったりすればいーよ。」と、その歌手が別の歌手に話しているのを聞き、「なるほど。音楽理論は無視していいのか。そういえば私も四分休符とか八分音符とかの勉強が大嫌いだったな。」と重森さんは回想した。

普段食べることができない八重山そば石垣牛サシミや舞富名を堪能し、重森さんは、終電で北千住に帰った。

「あんたも「うちなーんちゅ」ね?」と、件の歌手が、その場にいた人に声をかけ、気軽に八重山そばを振舞っていたのが最も印象的だったそうである。

声をかけられた色の白い男性はは「うん…」と微かに頷いただけであったが、ちゃんと「うちなーんちゅ」として認められたようであった。

それを見てなぜか重森さんは、ホッとしたのだという。

*1:重森さんは思ったよりもヘタレのようである。どこかに「満たすべき条件を何も課すことなく、自分をそのまま受け容れて欲しい」という欲望があるようである。所詮、無理な願いだとは思うが。