『【日本の議論】「派遣村」にいたのは誰か?』に対する違和感と疑問

MSNのサイトに掲載されていた『【日本の議論】「派遣村」にいたのは誰か?』という記事を読んだ。

【日本の議論】「派遣村」にいたのは誰か? (1/6ページ)
【日本の議論】「派遣村」にいたのは誰か? (2/6ページ)
【日本の議論】「派遣村」にいたのは誰か? (3/6ページ)
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【日本の議論】「派遣村」にいたのは誰か? (5/6ページ)
【日本の議論】「派遣村」にいたのは誰か? (6/6ページ)

上記記事におけるいくつかの箇所について私は違和感と疑問を感じた。

以下、これらについて詳述する。

派遣村にいた人々」の内訳を列挙することの意味

実際、村に集まった人たちはどのような人たちだったのか。派遣村実行委員会が、村民354人から聞き取った集計によると、(中略) 景況悪化を理由に解雇された派遣従業員は日雇いも含め、全体の40%にあたる130人だけ。33人(9%)は従来からの路上生活者だった。

(中略) 極めておおざっぱに解釈すれば、4割程度の村民は景況悪化後、実際に契約を打ち切られ、6〜4割程度の村民には就労意志が読み取れるが、逆に言えば、就労意志のない人、村で出される食事だけを目当てに村民登録した人もかなりいたことになる。その点は実行委員会も認めている。

むろん、路上生活者であっても、寒空の下にほおっておいて良いという理屈にはならないが、それ以前まで派遣先でまじめに働いていた人と、そうではない人が一緒くたに報じられていた感は否めない。 

from【日本の議論】「派遣村」にいたのは誰か? (1/6〜2/6ページ)

まず一つ目の疑問。「派遣村にいた人々」に、「景況悪化を理由に解雇された派遣従業員」だけでなく、「従来からの路上生活者」も含まれていることに、一体どのような問題があるのだろうか? ことさらこのことを問題視することに私は何のメリットも感じない。

派遣村の開設目的は「年末年始の生活救済」と「貧困を可視化することで世間に問題提起する」の2つであると、記事にも明記されている。これらの2つの目的と、「派遣村にいた人々」に、「景況悪化を理由に解雇された派遣従業員」だけでなく、「従来からの路上生活者」も含まれていることは、全く矛盾しない。

実際、下記において湯浅氏は、「派遣切りで職を失った人も、以前からホームレス状態だった人も立場は同じです。その人たちが誰一人排除されることなく、協力して年を越せるように、皆さんも多くの人を受け入れる、誰彼となく受け入れるということで確認していただければと思います。」と述べている*1

また、2008年12月31日更新付けの派遣村のサイトにおいても、湯浅氏によるコメントとして、以下の文章が記載されている。

「派遣切りされたと言われた8万5千人は氷山の一角。既に建設業・サービス業にも余波は及び始めている。路上支援が定着している池袋や渋谷でも炊き出しに例年の1.5倍の人がやってきている。私たちも今回はじめてこの地で支援を行うが、もともとこの周辺に野宿しているなかまも、東京駅周辺のなかまも、もちろん区別なくみなさんを受け入れる。不況になったとたんに職を奪い住を奪う、こんなのは刑事犯罪ではないか!工場のある地域では派遣労働者が住まいを追い出されて空き家だらけなのに路上生活者が増えるというこんな世の中はおかしい!ということを、怒りを共有しながら来年以降訴えていこう。」

from 年越し派遣村(2008年12月31日(水) 11:14 JSTの記事)

したがって「派遣村にいた人々」に、「景況悪化を理由に解雇された派遣従業員」だけでなく、「従来からの路上生活者」も含まれていることには何の問題もないといえる。

この記事を書いた記者は、「派遣村にいた人々」を、「企業による派遣切りで職と住まいを失った人ばかり」として報道する一部の新聞やテレビの誤りを正すために、「派遣村にいた人々」の内訳として、「景況悪化を理由に解雇された派遣従業員」と「従来からの路上生活者」の2種類の人間を挙げているのだろうか?

それとも、「派遣村にいた人々」に「従来からの路上生活者」が含まれていること自体を問題視し、そのことを批判したいのだろうか?

メディアによる派遣村に関する偏った報道と、派遣村実態とのズレを問題視し、前者の誤りを正したいだけであるならば、私は何も言わない。しかし、「派遣村にいた人々」に「従来からの路上生活者」が含まれていること自体を問題視するのであれば、その行為に対して私は異議を申し立てたい。「景況悪化を理由に解雇された派遣従業員」であろうと、「従来からの路上生活者」であろうと、「生活に困っている人」であることには変わりはない。彼らに対する援助を否定するような内容の主張には断固反対する。

私は、この記事を書いた記者には、「景況悪化を理由に解雇された派遣従業員」=「就労意志のある人」、「従来からの路上生活者」=「就労意志のない人」という粗雑な図式に基づいた、「派遣村に「従来からの路上生活者」が存在していることに対する強い不快感」があるのではないかと危惧している。

もしも私による上記の予測があたっているのであれば、私はこの記事を書いた記者に、「従来からの路上生活者」に対して入念な聞き込み調査*2を行うことを勧めたいと思う。そして、「記者としての社会的責任を果たせ」と強く迫りたい。「従来からの路上生活者」を「就労意志のない人*3」として最初から決め付けるのではなく、どのような経緯で彼らが路上生活者になったのかについて綿密な調査を実施し、路上生活者の実態を正確に把握するべきであろう。勝手な思い込みに基づいて記者は記事を書いてはならないはずである。

「厳しい世間の反応」「9割方」という物言いに対する違和感

だが、派遣村の村民たちに対する世間の目は、同情や理解ばかりではなかった。政党やイデオロギー色が強くなるにつれて、反発や厳しい意見が目立つようになってきた。

産経新聞のネットニュースMSN産経ニュースで、10日から派遣村に関する意見を募集したところ、9割方が村民に対して厳しい意見を寄せた。

「貯金はしていなかったのか」「職の紹介を受けているのに、選り好みしている場合か」「ゴネ得ではないか」…。「最初は同情していたけど、だんだんできなくなった」という声もあった。

坂本政務官の発言に理解を寄せる声も多く届いた。これについては12日の東京新聞で、同紙の投書欄担当者が「非難が相次ぐ一方で、一定の支持が集まった」と書いている。各新聞社とも、似たような読者反響を得たのだろう。

from【日本の議論】「派遣村」にいたのは誰か? (5/6ページ)

二つ目の疑問。「世間」や「9割」という言葉を使用し、「産経新聞のネットニュースMSN産経ニュースで行った意見募集」の結果を記載している点に違和感を覚える。

まず第一に、どのような集計方針のもとで、9割方という値が算出されたのかが不明である。もしも、同一人物による複数の意見*4を区別してそれぞれを1件としてカウントし、9割方という値を求めたのであれば、この9割方という数値を何の説明もなしに持ち出すことは問題であろう。この9割方という数値は、「10人中9人」を意味するのか、「10件の意見中9件(同一人物による複数の意見を区別してカウント)」を意味するのか、読み手が明確に分かるように配慮すべきである。なぜなら「10人中9人」と「10件の意見中9件(同一人物による複数の意見を区別してカウント)」では、意味が全く異なる*5からである。

また、上記意見募集において収集された意見は、日本全国の様々な境遇の人々から満遍なく集められたわけでもないので、この調査結果を、「世間の目」とやらを代表させるために用いることには到底無理がある。派遣切りや会社からの突然の解雇を経験したことのある人々のみを集め、ネットを使える環境を彼らに用意し、上記意見調査に協力をお願いしたならば、派遣村の人々に対して厳しい意見はそれほど出されないであろう。それこそ9割方が共感の意見を寄せるかもしれない。どのようなバックグラウンドを持つ人が意見提供者になっているのか。このことが明確にされていない意見調査の集計結果は、偏った内容のものである可能性が否定できないだろう。

どのような方針で集計したのかが示されず、かつ、偏った内容である可能性の高い集計結果を、「世間」や「9割方*6」という言葉で装飾してあざとく提示することに、私はなんともいえない気持ち悪さを感じる。

「私たちの税金」における「私たち」

都の施設を出た12日の時点で、村民は約170人。日比谷公園を出たときには約300人いたため、130人が巣立っていったことになる。この300人のうち、生活保護の受給が決まった人はこれまでに290人。申請者のほぼ全員に、しかも短期間に生活保護が認められるのは異例なことだ。実行委員会では「やる気になれば、今の法律の枠内で、生活再建の足がかりを得られることが分かったことは大きな成果」と意義を強調。

民主党菅代表代行も「後世から見れば、派遣村が日本の雇用、労働問題の転機になったと言われることは間違いない」と話すが、全国にはなかなか生活保護が認められない人や、特に地方で派遣切りにあった人の中には、日比谷公園までやって来れなかった人もたくさんいる。生活保護は、私たちの税金から拠出されているのである。

from【日本の議論】「派遣村」にいたのは誰か? (5/6〜6/6ページ)

最後に三つめの疑問。「生活保護は、私たちの税金から拠出されているのである。」とある。この「私たち」には、「従来からの路上生活者」も含まれているのだろうか? それとも、「私たち」からは、「従来からの路上生活者」は排除されているのであろうか? 

もしも後者の意味で「私たち」という言葉が使用されているのであれば、私は怒りを表明したい。「私たち」から「従来からの路上生活者」を排除して考えるのは不当である。なぜなら、「従来からの路上生活者」も税金を払ったことがあるはずだからである。「(就労意志のない)従来からの路上生活者は、本来は生活保護を受け取る資格がないにもかかわらず、今回の派遣村の活動により生活保護を受け取っている」と書きたいのであれば、私は猛烈に反発する*7


以上が、MSNのサイトに掲載されていた『【日本の議論】「派遣村」にいたのは誰か?』という記事に対する私の違和感と疑問の内容である。

この記事を私は、会社でお昼休みにMSNのサイトで目にした。多くの会社員がこの記事を昼休みに読んだのではないだろうか。この記事はかなり人目につく場所に掲載されていたと考えられるので、この記事に対して私が強い違和感を持ったことを、やや危機感を抱きつつ、ここに書き留めておきたいと思う。

*1:ところで、あまり本題とは関係ないが、映像の最後で行われるシュプレヒコールに私は胡散臭さを感じる。なぜか自分でも分からない。「運動」というものに対する警戒心が働くからであろうか。考えてみれば、コンサート会場における歌手と観客との間でも行われる行為である。ことさら警戒する必要はないはずである。しかし明らかに、単独で自分の思うところを大声で述べていた湯浅氏が、シュプレヒコールをはじめた途端、私は湯浅氏に近寄りがたさを感じた。この感覚は一体何であろうか?

*2:記者であるならば、このような調査ぐらい仕事として当然のように行ってしかるべきであろう。この作業を省き、「従来からの路上生活者」=「就労意志のない人」という図式を無根拠的に掲げるのであれば、私は次のようにこの記者に言いたい。「本当にまじめに働こうとしているのだろうか?」

*3:ここでの「就労」という言葉の意味も、記者は掘り下げて考える必要があると思われる。またこの概念と生活保護との関係性についても熟慮するべきと思われる。「就労意志のない人」や「日本国籍を持たない人」や「一定の収入のある人」は生活保護を受給すべきではない根拠、あるいは、「就労意志のない人」や「日本国籍を持たない人」や「一定の収入がある人」も生活保護を受給できてしかるべきである根拠について、「政府の予算」や「税金徴収システムの仕組み」や「憲法で保障された生存権」との関係において思考し、これらの是非について合理的な結論を導くよう、生活保護について文章をものする記者は、努力してしかるべきであう。日々の出来事を報道する人間には、世界を語ることの特権を保持することによって負った責任がある。書こうとする対象に関する十分な知識と思索なしに、記者は文章を書いてはならない。記者とは、それだけ責任重大な仕事であろう。

*4:メールで意見を募集したのだろうか? それとも掲示板上で意見を募集したのだろうか? 意見の集計方法だけでなく、意見の募集方法についても、記事上のどこかでしっかり明記をしておくべきであろう。

*5:2人の人間が意見を提供してくれたとする。そのうちの1人は派遣村に対する9件の批判的な意見を提供してきたとする。意見の数は合計で10件となり、そのうちの9件は批判的な意見である。このとき、同一人物による複数の意見を区別してカウントするならば、「10件中9件」が批判的な意見ということなり、募集した意見のうち「9割」の意見が批判的であったと主張できる。しかし、ここでの「9割」は、「10人中9人」という意味ではない。しかし、あたかも「10人中9人」という意味であるかのように、この9割という数字が用いられているならば、これは間違いなく悪質な詐欺である。

*6:しかし、仮に全国調査を実施し、ランダンムサンプリングにて意見収集を行ったとしても、6〜7割方の意見は、派遣村に否定的なものであるかもしれない。もしもそうであれば、我々は、「派遣村に集う人々をなぜこうも日本国民は非難するのか?」という問いを立て、その原因究明を急ぐべきであろう。もしも、「嫌々ながら働く人間が国民の大半を占めていることがその原因」ということが判明すれば、「日本という国における労働の場がいかにそこで働く人々に過剰なストレスと理不尽さを強いているのか」を分析し、早急に対処策を講じるべきであろう。

*7:最も厄介で唾棄すべきなのは、就労意志はあるにもかかわらず、いざ就職できたならば、職場でまったく仕事をしない輩や、仕事を他人に押し付けることを仕事にしている輩ではないだろうか? 「仕事をしない人」や「仕事を他人に押し付ける人」が、仕事をしている気になっていたり、周囲からも「仕事をしている」とみなされる状況は問題ではないだろうか? そもそも「自分だけ楽をしよう」と考える人間は、就労意欲があるとはいえないのではないだろうか? このような人々にあるのは、就労意欲ではなく、就職意欲であろう。我々は、「就労意志のあるなし」を問題にするのではなく、「実際に仕事をしているかどうか」を問題にすべきではないだろうか?