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ガタカ

映画

ガタカという面白い映画を見た。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1604237

以下、感想。

あらすじ(ネタバレ注意)

遺伝子工学の発達した未来を描いた映画。

遺伝子操作により優れた人間を作り出すことが可能になった社会では、通常の交わりで生まれた子どもは「神の子」と呼ばれ、下層階級の人間として差別的な待遇に置かれる。

寿命、疾患への耐性、視力、知能、暴力性の低さ、持久力。遺伝子操作で生まれた人間にあらゆる点で劣る「神の子」達にとって、この社会は遺伝子の質で全てが決定される望みのない社会である。彼らとは対照的に、遺伝子操作により生まれた人間には全てが約束される。この社会では遺伝子的に優れていることがエリートの条件なのである。

「神の子」として生を受けたビンセントは、宇宙飛行士になることを夢見る。しかし宇宙飛行士になれるのはエリート中のエリートのみ。ビンセントは清掃業に従事しながら、体を鍛え、勉強に励む。

ある日ビンセントは、ブローカーの助けを借り、優秀な遺伝子の持ち主であるジェロームと取引をする。ジェロームはエリート。オリンピックの水泳競技で2位の身体能力と、抜群の知能指数の持ち主。ただし彼は事故に起因した障害を足に抱えていた。

1人で生活することができないジェロームの生活を成り立たせるために、ビンセントがジェロームに成り変わるという契約が成立した。常にジェロームの血液と尿をビンセントは持ち歩き、遺伝子的に優秀な人間であることを随所で示す。この社会には遺伝子情報を開示する機会に溢れている。就職活動中の尿検査。会社のゲートでの社員識別用の採血装置。警察による身元照会機器。ジェロームの遺伝子情報を身につけたビンセントはこの日からジェロームになった。

物語が進むにつれて、この社会の矛盾が明らかになっていく。遺伝子的に優秀なはずのジェロームは、自ら車に飛び込んだことが判明する。エリートに成りすましたビンセントが潜入した宇宙センターの所長は、そこで起きた殺人事件の犯人であった。そしてビンセントを執拗に追う刑事のアントン。彼は兄のビンセントとは異なり、遺伝子操作によって生まれたエリートであるが、遠泳で勝負を挑み、ビンセントに負かされる。

物語は、ビンセントが夢を叶えて、ロケットで宇宙に飛び発つ場面で終わる。

遺伝子的に優れていることの欠点

遺伝子的に優秀なはずのエリートが、自殺未遂をしたり、殺人を犯したり、遠泳で「神の子」に負けたりする点に疑問を感じる。

考えた結果、次のような結論に達した。

ジェロームの自殺未遂

「遺伝子的に優秀なのだから、失敗は許されない。結果を出して当たり前」というプレッシャーに押し潰された。

殺人を犯した所長

70年に1度のチャンスとされる土星への有人宇宙飛行計画。これに反対する人間を所長は殺害した。「私の遺伝子データを調べろ。暴力性はほとんどない」と警察に自ら持ちかけ、終始泰然と構えていた所長は、70年に1度のチャンスを見事ものにした。すなわち、計画に反対する目障りな人間を殺害することにより、所長は自らの目標を首尾よく達成したのである。すべては所長の計画通り。目標を達成できたという意味では確かに所長はエリートだったといえる。

「神の子」である兄に遠泳で負けたエリートの弟

身体能力は確かに弟の方が上である。しかし、弟は10代の頃に1回。そして30代の頃に1回。計2度も兄に遠泳で敗北している。「なぜ遺伝子エリートであるはずの弟が兄に負けるのだろう?」と考えた結果、兄は、岸に引き返すことを考えずにひたすら真っ直ぐ泳いだことに思い至った。向こう見ずな兄と異なり、弟はしきりに「岸が見えない。このまま泳ぎ続けたら2人とも死ぬのではないか」や「岸に戻る際の体力も残しておかかなければならない」と計算しながら泳いだ。

「岸からあまりに離れすぎるのは危険だ。そろそろ2人ともあぶない。しかし兄には負けられない。しかしもう限界だ。沖に出れば流されてしまう。そしたら2人とも死ぬ。しかし負けられない」と焦っているうちに、弟は溺れた。このように考えると幾分納得がいく。

結局、努力主義の称揚なのか?

エリート達をまんまと騙し通すことに成功したビンセントは、めでたく宇宙飛行士になることができた。

ジェロームをはじめ、ビンセントに理解のあるドクターの助けがあったからこそ、ビンセントは夢を叶えることができたといえる。

しかし、ビンセントが日々の努力によりエリートを演じ続けることができたことが最も重要な点である。つまりビンセントは努力家だったからこそ、「神の子」であるにもかかわらず、目標を達成することができたのである。

映画の中で、宇宙センターの所長が「可能性は伸びない」と述べる場面がある。所長の意に反し、ビンセントは努力によって可能性を伸ばしたといえる。

努力すれば、遺伝子的に劣っていても、道は開ける。映画ガタカからはこのようなメッセージが読み取れる。

壁を乗り越えて目標を達成するビンセント。その姿には素直に感動を覚える。

しかし、である。

「努力することは素晴らしい。万歳」と素朴に喜んでもよいのだろうか?

それこそ、遺伝子操作により「努力する傾向を司る遺伝子」を持つ人間がもしも作り出されるようになれば、競争がさらに過酷になり、1位になれなかった人間は第二第三のジェロームになってしまうのではないだろうか?

そもそも、「努力する傾向を司る遺伝子」など想定せずとも、遺伝子的に優れている人間が何らかの事業に失敗した際には、「努力することを怠った。だから努力しろ。遺伝子的には優秀なはずなんだから、努力すればできて当然だ。足りないのは努力だけなのだから」と無限に努力することを強いられ、やはり第二第三のジェロームが生み出されてしまう可能性が容易に想像できる。

このように私は「努力することには意味はある。しかし、努力することに価値を置きすぎるのもいかがなものか」と不安に思うのである。

身の丈を知ることの大切さ

映画ガタカは感動的である。それは間違いない。映画終盤におけるビンセントとドクターのやりとりの場面は最高だ。

しかし、この映画は努力主義を蔓延させる要素も含んでいるといえるので、手放しで賞賛することができない映画である。

宇宙飛行士にならずとも、人は身の丈に合った、等身大の仕事に従事することで、十分幸せになれるのではないか?たまたま映画ガタカでは、主人公が宇宙飛行士を夢見てしまったけれど、そのまま主人公は清掃業に従事したまま、幸せになることもできたのではないか?この映画は、清掃業よりも宇宙飛行士を上に置き、結果的に清掃業を馬鹿にしてはいないか?

天邪鬼な私は、ついつい上記のような疑問を持ってしまうのである。

でも結論は

しかし、である。

この映画に込められたメッセージは「努力は素晴らしい。努力すれば報われる。だからみんなも努力しよう」ではなく、「努力してもしなくても、遺伝子的に優秀でもそうでなくても、我々は皆、塵から生まれ、塵にかえる」というものなのかな、とも思う。

映画の最後の場面だけから想像するに。

努力とは何か? 2010/02/24 22:23追記

何らかの欲望に基づいて自ら何らかの作業に夢中になっている人間を「努力している」という言い回しを用いて描写することに私は不適切さを感じる。例えば、空腹を満たすために物凄い勢いで食事をしている人に「努力している」という言い回しはそぐわない。同様に、宇宙飛行士にひたすら憧れて、体力作りと宇宙に関する知識の吸収に貪欲に従事するビンセントを、「努力している」という言い回しで描写することには違和感がある。

手許にある学研の国語大辞典では、「努力」という言葉について、「ある目的を達成するために、能力のすべてを尽くしてうちこむこと。頭を使い、身を労し、心をこめてつとめること。骨をおること。精を出すこと」という解説がなされていた。この解説文のうち「骨をおること」という言い回しに注目。「骨をおる」という言い回しに対して同辞書には「苦労して力をつくす。精を出す」という解説があてられている。

つまり、「努力」あるいは「努力する」という言い回しには、「本当は嫌だけど無理して何らかの行為に従事する」という意味が含まれているということだろうか?「苦労」という言葉が登場した時点で、私の脳裏には「もうやだー。でもこの作業をやめるわけにはいかない。でも、もうやだ。やりたくない。でも、やらなきゃ」と葛藤しながら何らかの作業に嫌々従事している人の姿が浮かぶ。

何らかの行為が「努力している」という記述の下で描写される時、上記のような葛藤が、その行為に従事する人を描写する人間によって、勝手に読み込まれているように思える。ビンセントを「努力している」と描写した私は、勝手にビンセントに「嫌だけどやらなきゃ」という葛藤を読み込んでいるといえる。

もちろん、私の読みは間違っているというわけではないだろう。ビンセンは「もう疲れた。もう嫌だ。そろそろ休みたい。目下従事しているところの作業をストップさせたい」と考えなかったわけではないだろう。

しかし、ビンセントが遠泳の時に「戻ることは考えずに全力で泳いだ」と言っていたように、ビンセントは頭が真っ白のまま、「嫌だな。もう休みたい」等とは全く考えずに、何かに没頭していたこともあったはずである。「何のために?」とビンセントに訊ねたアントンでは経験し難い精神状態。否応なく、憑りつかれたように、何らかの作業に従事すること。このような状況にいる人間に「努力している」という描写を与えることは不適切な行為に思える。

例えば今私は「ガタカのビンセントと努力に関する着想を書き付けておかねば」という一心でキーボードを叩いているが、このような私には「努力している」という表現は似合わない。もちろん他にもやることがあるのでいつまでもこの作業に従事しているわけにはいかないから、なるべく早くこの作業を終了させたいのではあるが、胸の奥から際限なく横溢する何かに促されて今私は、ブログに文章を書き連ねている。文字通り自発的に。誰にも強制されることなく自分から勝手に。

このような「自発的になされる行為」と「「嫌だけどやらなきゃ」という思いの下でなされる行為」は、簡単には区別し難いが、あえて区別しておいたほうが良いように思う。前者には「遊び」、後者には「仕事」という言葉があてはまりそうであり、私は「遊び」こそ愛し、「仕事」を可能な限り放棄したいと考える人間であるから。これらの区別は実は難しく、この両極端の間を揺れ動きながら生きているのが人間ではないかという直感があるから。どちらに振れ過ぎても良いことはなく、どちらに傾いているかを絶えず俯瞰しながら自分のあり方を適度に調整できる技能を高めていくことが、より良く生きることにつながるという直感があるから。どうもこのバランスを取ることがあまりうまくできていないから私は、「努力しない人を実はそんなに好きになれない私」あるいは「能力が低い人を「努力していないからだ」と決め付けて軽蔑する私」になってしまっている可能性があるから。