ガンジーの非暴力主義に関する覚書

ガンジーの非暴力主義の詳細を知りたいと思い、ネットで検索した。すると、以下のような動画を見つけることができた。

http://democracynow.jp/video/20120605-9

非常に興味深い内容であった。これまで私はガンジーによる非暴力主義の内容を「暴力を振るわないこと」と単純に理解していたのだが、予想の通りこれは余りに粗雑すぎる理解であった。以下、動画を視聴した感想を記す。

命を捨てる覚悟

動画に登場する研究者の報告が事実ならば、ガンジーは「非暴力主義者>暴力主義者>臆病者」という構図を念頭に置いていたことになる。そして、「暴力を使用して己の身を守ること」をあえて放棄してみせることによって、「命を捨てる覚悟」があることを敵に示しつつ抗議活動を行うことを推奨した人物、と要約できる。

暴力は自らの生存に役立つ限りにおいて価値を持つと、私は捉えている。しかし、ガンジーの場合、それはあてはまらない。なぜなら、ガンジーにおいては、自らの生存そのものに対する執着があらかじめ否定されているため、暴力が価値を持たないからだ。

一般的に、抗議活動の場において、抵抗者側が発動する暴力は、抑圧者からの暴力を停止させるため、自らの抗議活動自体を抑圧者による妨害から守るために行使されるものと考えられる*1。そして、これらの活動は結局は、自らの命を守るために行使されているものといえる。しかしガンジーの場合、そもそも自分の命を守る必要がないため、暴力を行使する必要がない。ガンジーにとって非暴力とは、単に暴力を用いないということではなく、死を恐れないということなのである。

そのため、ガンジーにとって、逃げる者や、逮捕される者は、生きたいという欲望があるという点で臆病者であり、軽蔑の対象となる。

このようなガンジーだからこそ、スパルタを崇拝し、その戦士の勇気を称えたのであろう。ガンジーの非暴力主義の真髄とは「命を捨てること」なのだ。

一般人には真似できない思想

生に至高の価値を置く人間にとって、ガンジーの非暴力主義は、受け入れがたいものであろう。ガンジーが推奨するところの非暴力主義者になるには、「生きたい。死にたくない。助かりたい」という欲望を捨てなければならないからだ。

私は街頭でのデモや抗議活動の際に、暴力を用いたことは一度もない。暴力を振るえば、報復を受けたり、逮捕されて仕事ができなくなるといった不利益を被ることが予想されるからである。要するに私は、自分の生活や身の安全や命を優先しているといえる。

このような、自分の命や身の安全に執着する私を、ガンジーは臆病者と呼ぶのであろう。

ガンジーの非暴力主義が、命に執着しないことを前提にした、暴力の否定であるならば、私はこのような非暴力主義を採用したくない。あくまでも私は自分の命に執着したい。そもそも抵抗運動や抗議活動というものを私は、最終的に自分の命や安全を確保するために行うものと捉えているため、これらの活動自体が自分の命や安全を捨てることを求めるものであるならば、即座に矛盾を感じてしまう。生きるために死ぬのでは、本末転倒であろう。

ガンジーの非暴力主義は、「インド独立」や「ヒンドゥームスリムの統合」という目的の達成に特化した、特殊かつ高水準の、悪く言うならば、命を粗末にする思想といえるかもしれない。インド独立を達成したガンジーは確かに偉業を成し遂げた人物であるが、それを可能にした非暴力主義の思想は私の趣味に合わない。私は、命に執着する抵抗思想を好む。

ガンジーの非暴力主義の逆説

ガンジーの非暴力主義は、生に執着しないことを求める。私はここに矛盾を感じる。生きるために行う抵抗が、最初から生を否定している点に私は矛盾を感じる*2

しかし、命に執着することが、逆に命を危険に晒す事態を招くことも、大いにありうる。例えば、抑圧者の力を恐れ、自らの生や安全を重視するあまり、抵抗することを躊躇し、ずるずると抑圧状態を継続させてしまうケースが考えられる。ガンジーの非暴力主義の前提である「命を捨てる覚悟」が、命を守ることにつながるということも十分ありうる(そして実際に、ガンジーらの働きにより、インドはイギリスの支配から脱することができた)。

したがって、ガンジーの非暴力主義を批判するのは難しい。

「運動の目的」と「命」のバランス─あるいは「内なる声」の謎

ガンジーの非暴力主義が前提する「生への執着の否定」を批判するには、「どうすれば運動の目的を達成できるのか」という問いと、「何を最も譲れないものとみなして運動に臨めばいいのか」という問いに取り組まなければならないだろう。

「インド独立」という目的を達成するには、生への執着を捨てることが有用と考えられる*3。もしもガンジーらの運動が、「命を重視すること」を譲れないものとしていたならば「インド独立」は失敗に終わったかもしれない*4

「インド独立」と「命を最重要視すること」。これらのうちのどちらを優先すべきなのかを、説得的に語ることができなければならない。そしてこれは難しい。どちらを優先しても、失うものがあるように思えるからだ。

「インド独立」と「命を最重要視すること」。前者のみの重視や、後者のみの重視は、どちらも大きな損失をもたらすことが容易に想像できる。両者を天秤にかけて、これらのバランスについて考えることは重要であろうが、「何かを得るには何かを失う」という覚悟を持たなければ何も進展しないような、そんな苦しい予感がする。

ガンジーは、どのような根拠に基づいて「生に執着すること」を否定したのであろう。「命を最重要視すること」をどのようにして否定することができたのだろう。私はこれが知りたい。どこかにガンジーがこの詳細を書き残しているなら、それを読んでみたいと思う。

もしかすると、ガンジーは、「インド独立」と「命を最重要視すること」のバランスを全く考慮せずに、「内なる声」という説明不可能なものに従い、前者と後者の対立を無視する形で、まさしく神がかり的に、独立を成し遂げたという可能性もあるが、「生への執着を否定できる理由」をガンジーが言葉にして残していることを私は切に希望する。

*1:「暴力を行使されたり、暴力を行使すること」自体が好きでたまらず、暴力自体がなかば目的化している人が、抵抗者側の中に含まれている可能性もあるが、そのような人は特殊な事例としてひとまず除外しておく

*2:ところで、ガンジーは臆病者に対して暴力的な発言を行ったと、先の研究者は述べていたが、これが事実だとしたら、もしかしたらガンジーによる非暴力主義の抵抗運動は、運動内部に暴力をはらんだ、矛盾に満ちたものであった可能性がある。生に執着する者を臆病者と呼ぶ指導者に、深く傷付いた運動参加者は無数にいたと考えられるからだ

*3:そしてこの選択の結果、目的は達成できたものの、多くの人が命を落としたであろう

*4:その代わり、多くの人々が死なずに済んだかもしれない