ポジショナリティにまつわる疑問
加害事実の証明
ポジショナリティという言葉が、よく分からない。より正確に言うならば、この言葉を用いる人々による、「誰かが誰かを抑圧し差別し加害していることの証明」の理解が難しい。
「ポジショナリティをスルーする日本人が沖縄人を傷つける」*1と題された、野村さんによる下記の文章によると、ポジショナリティという言葉は、「政治的権力的位置」という意味の言葉らしい。
https://www.facebook.com/koya.nomura/posts/10203128520518514
分からないのは、「誰が誰に対してどのような政治的権力的位置を持っているのかをどのように証明できるのか」ということだ。
野村さんは、「沖縄人は74%もの在日米軍専用基地を負担させられています。これは過剰な負担であり、とても平等とはいえませんし、差別にほかなりません」と上記の文章中で述べる。
このことは事実であろう。
では、この差別が、どこの誰によって行われているのかを、野村さんはどのような方法で証明しているのだろうか。
「日本人」がこのような差別を沖縄に住む人々に対して行っている。
「日本人」が加害者だ。
私が読む限りでは、野村さんの文章には、このような結論が至るところに提示されてはいるものの*2、北海道に住む向谷地さんや、青森に住む「ともよ」さんや、隅田川沿いでテント暮らしをしている鈴木さんや、東京で私が働いていた会社の同期達や、祝島の住人といった、それぞれの目の前にある課題に対処しながら生きている様々な境遇の「日本人」達を、沖縄を差別する加害者として断定できる理由・根拠・証明は見当たらない。
米国大統領とその側近(軍事企業含む)、彼らを当選させた有権者、日本の内閣総理大臣、官僚、自民党の議員(沖縄出身者も含む)、彼らに投票した有権者達(沖縄出身者も含む)、その他の政治家(沖縄出身者も含む)、そして彼らの命令に忠実に動く執行機関の職員達(沖縄出身者も含む)。ここに挙げた者達が、抑圧者であり、差別者であり、加害者であるというのなら、まだ話は理解できる。なぜなら、彼らは国家に備わった行政機関としての権限を行使することができ*3、その力を利用して沖縄への米軍基地の維持と建設を積極的に推進している張本人だからである。たとえば、辺野古で新基地建設に反対する市民達に「首を絞める」や「押さえつける」などの明白な暴力を振るっている黒づくめの男達は、海上保安庁という名の執行機関に所属する職員であり、彼らのこの行いを見れば、誰が抑圧者・差別者・加害者であるのかはすぐに理解できることである。
しかし、たとえば、なぜ青森に住む「ともよ」さんまでもが、沖縄に対する抑圧者、差別者、加害者であるといえるのか。私はこれが分からない。
青森に住む「ともよ」さんというのは、下記のCocco先輩の動画で言及される人物である。おそらく、実在している人物であろう。
もうひとかた。「親密性の権力と植民地主義」と題された下記の論考を著している池田さんという方。
この方はポジショナリティという言葉を使用しつつ、自分自身を「多くの権力関係において私はすでに権力者であり差別者」と明確に位置付ける。
しかし、どのようにしてそのような結論に至ることが可能なのか、すなわちその理由や根拠については、極めて大雑把にしか説明されない。ざっと次のような具合である。
「日本人である」ということは、アジアへの支配、沖縄・アイヌへの植民地主義、在日コリアンへの植民地主義等の上に、日々の生活が築かれているということであり、「男性である」ということは、女性への差別の上に日々の生活が成り立っていることを意味する。いわゆる「“健常者”である」ことは、“障害者”の社会参加を排除することによって自身の生活が成り立っていることを意味し、“ヘテロセクシュアル”であるということは、“ホモセクシュアル”への抑圧の源泉である。もちろんここに列挙したことは、私というポジショナリティによって引き起こされる権力関係のごく一部にすぎない。
「ここに列挙したことは、私というポジショナリティによって引き起こされる」と池田さんは書いてはいるが、具体的にどのようにして引き起こされているのかは、明確に示されていない*4。現在を生きる池田さんが「日本人であること」と、アジア各国に対する植民地主義が、どのように連続し関連し結び付いているのかが明示されていない。「男性であること」自体が、どうしていきなり直接的に女性差別とつながるのかが分からない。「健常者であること」が、「障害者の排除」をなぜ帰結するのかもよく分からない。「ヘテロセクシャルであること」が、「ホモセクシャルへの抑圧」を結果する理由も示されていない。このように、池田さんの述べることは、もしかしたら事実なのかもしれないが、あまりにも大雑把な説明であるため、私は池田さんの説明に説得力を感じることができない。
また、池田さんは沖縄の現状について、次のように述べている。
自分から遠い問題と感じ、傍観、あるいは無知でいる状態こそが究極の差別の形態でもあるのだ。このことは、沖縄への米軍基地集中を遠い場所の問題と考え、多くの日本人が沖縄人の犠牲のうえに経済発展を続けてきたことを想起すれば充分だろう。
「多くの日本人」を沖縄への差別者として池田さんは断定している。このことは読み取れる。しかし、なぜそのように断定できるのかはここでも曖昧に説明されている。池田さんの上記文章では、「多くの日本人が沖縄人の犠牲のうえに経済発展を続けてきたこと」を裏付けるデータや、このデータが裏付けとなることを保証する根拠が示されていない。そのため、「自分から遠い問題と感じ、傍観、あるいは無知でいる状態こそが究極の差別の形態でもある」という結論に説得力が感じられない。もしかしたら事実を述べているのかもしれないが、やはりこのような書き方は分析や証明としてあまりにも大雑把すぎやしないだろうか。
また、そもそも、この「多くの日本人」には、内閣総理大臣や自民党の議員(~以下略)以外に、どのような日本人が含まれているのだろうか。もしも、再び、青森に住む「ともよ」さんのような日本人が「多くの日本人」に含み込められ、沖縄に対する抑圧者・差別者・加害者として断定されているなら、そのような断定ができる根拠を明確に示して欲しいと強く思う。
「日本人」という言葉は、日本に住む全ての人間を含む。であるならば、日本各地に住む様々な境遇を生きる「日本人」一人一人が、実際にどのようにして沖縄への差別の加害者となっているのかを、質的なデータや量的なデータを提示しつつ、明らかにするべきであろう。
日本の内閣総理大臣、官僚、自民党の議員(沖縄出身者も含む)、彼らに投票した有権者達(沖縄出身者も含む)、その他の政治家(沖縄出身者も含む)、そして彼らの命令に忠実に動く執行機関の職員達(沖縄出身者も含む)。彼らに負わせるべき罪を、その他の「日本人」一人一人にも負わせることには、どうしても納得できないものがある。
他者に対して詫びること、その動機
ところで、先に言及したCocco先輩の動画。この動画においてCocco先輩は、六ヶ所村の現状を憂う手紙を彼女に送った「ともよ」さんに対して、今まで自分が六ヶ所村について無知であったことを詫びる。これは、困っている人がいたら助けるという、実に自然な倫理感に基づいた行動だと私には映った。きっと、このような、Cocco先輩が取ったような、「知らなくて、助けようとすることができなくて、ごめんなさい」という態度で他者に接することが、野村さんや池田さんが「加害者」として名指しするところの、いわゆる「日本人」が取るべき理想の態度なのではないかと私は思う。なぜなら、このような態度で多くの人が他者に接したほうが、より多くの不幸が解消されると考えられるからだ。困っている人がいたら助ける。お互いに助け合おう。このような感覚で日本各地に住む様々な人々が、日本各地の様々な他者とつながればいいと私は考えている。
しかし、ここで注意しておきたいことは、Cocco先輩は、六ヶ所村の現状を知らなかったことと、六ヶ所村の現状を知ったからといって自分にはどうすることもできないことを「ともよ」さんに詫びたのであり*5、六ヶ所村の現状を引き起こしたことの罪を認めたのではないことである。
身に覚えのないことで詫びる必要はない。野村さんや池田さんが「加害者」として断定するところの「日本人」達は、身に覚えのないことだからこそ、詫びるということをしないのではないだろうか*6。そうであれば、「日本人」達が、自身のポジショナリティが他者に及ぼす加害行為を心から理解できるように、より詳細な説明・証明・分析を行うことが、必要なのではないだろうか(「日本人」達が、他者に加害行為を実際に及ぼしているという事実があるならばの話ではあるが)。
身に覚えがなくとも、米軍基地が集中する沖縄の現状を知ったCocco先輩が「ともよ」さんにしたように、「日本人」達が沖縄に住む人々に対して詫びることが、理想である。しかし、本当に、野村さんや池田さんが主張するように、「日本人」全員に沖縄の現状に対する罪があるのであれば、「日本人」達は沖縄に住む人々に対して、自分達が加害したことも詫びるべきであろう。ただし、繰り返しになるが、現時点で私は、どうして青森に住む「ともよ」さんのような「日本人」までもが、沖縄に対する抑圧者、差別者、加害者であると断言できるのかが分からない。したがって、「ともよ」さんのような「日本人」は、沖縄に対する加害者として沖縄に住む人々に詫びる必要はないと私は考える。身に覚えのないことに対して謝罪や反省をしても、他者のご機嫌伺いにしかならず*7、たとえ嫌々ながら沖縄の現状を変えるためのアクションを起こしたとしても、長くは続かないだろう。
青森の「ともよ」さんのような、日本各地でそれぞれの課題に対処して生きる様々な境遇の「日本人」一人一人が、「困っている人がいたら助ける。お互いに助け合おう」という感覚で、沖縄に住む人々のことに思いをはせてくれるだけで十分ではないだろうか*8。そして、もしも余力があれば、沖縄の現状を変えるためのアクションを取ってくれたら、沖縄に住む人間として、非常に嬉しく思う。
*1:シリーズになっており、2014.12.30現在において、4回目までが確認できる。2回目、3回目、4回目のリンクを掲載しておく。
*2:もちろん、「日本人」が沖縄にとっての加害者という結論は、部分的には正しい。「日本人」には、日本の内閣総理大臣、官僚、自民党の議員などが確実に含まれているからだ。しかし、後述するように、「日本人」は、日本に住む全ての人々を含む概念であり、内閣総理大臣、官僚、自民党の議員以外の人間も当然含むことになる。この点に私は疑問を持っている。なぜ全ての日本人を加害者と断定できるのだろうか。
*3:大統領や議員を選出した有権者にはこのような権限はない。国家に備わった行政機関としての権限を行使できるのは、私が挙げた人々のうち、「有権者と執行機関」以外の人々である。
*4:野村さんと同じく、池田さんも大学教員のようである。そうであるならば、自身の大学教員としてのポジショナリティについて詳細に語ったほうが、ポジショナリティという概念の内容を、読み手に分かり易く伝えることができるのではないだろうか。なぜなら、大学教員を、学生や、経済的に恵まれない人々に対する、構造的な差別者・抑圧者・加害者として説明することは、十分可能に思えるからである。たとえば、以下のような形で。
日本におけるほとんどの企業は、大卒資格を採用条件に課す。近年、応募者個人の才能や能力を測る以前に、リクナビなどの就職活動支援サイトにおいて大学名でフィルタリングをかけることで応募者を絞る企業が問題視されているが、出身大学の偏差値に注目し、これを指標にして事前に応募者を限定する企業にとっては、応募者が大卒であることはもはや前提になっており、今更疑義を挟む余地のないことといえる。つまり、日本において大卒資格は、就職試験に参加するために保持すべき、最低限の通行手形となっているのである。このような日本社会の構造上、今日も多くの人々が大学への進学を余儀なくされているといえる。
大学教員のポジショナリティについて語るには、上記のような文脈の把握が必要不可欠である。大学教員は、大学卒業に必要な単位を学生に与える権限を持つ。そのため、大学教員と学生の間には、上下関係、権力関係、支配被支配関係が否応なく発生する。これは、冒頭で説明したように、学生の目標が大卒資格の取得であることによる。大学居員と学生という権力関係は、日本社会の構造上、否応なく発生してしまうものだといえる。将来の就職のために必要な大卒資格という通行手形を求めて大学に進学した学生が、大学教員の顔色を伺い、論文・レポート作成や飲み会等の様々な場面で大学教員の機嫌を損ねないように行動せざるをえなくなるのに対し、大学教員は、評価対象である学生にそのような配慮をする必要はない。大学教員と学生という関係は最初から、大学教員に対する感情労働を学生に強いる、根本的に非対称なものなのである。大学がこのような土壌の環境であるからこそ、大学教員は、様々なハラスメントを学生に振るうことが可能となる。
実際、アカデミックハラスメントに関する報告は枚挙に暇がない。たとえば、最近では、北九州市立大学に務める50代の大学教授が処分されている。また、東北大では指導を放棄された院生が自殺するという痛ましい事件が起きている。さらに、私自身が、大学教員が学生にハラスメントを行う場面に遭遇し、猛烈な批判を行ったことがある。酒の席で、とある大学教授が、彼のゼミに所属する学生の男女関係を執拗に問い詰めたことがあった。教授の質問に答えることを拒否することが、学生という立場上、難しいからであろう。問い詰められていたゼミ生は黙って苦しそうな表情をし続けた。いくら酒の席とはいえ、大学教員と学生という権力関係における、大学教員から学生に対するプライベートな領域に関する詮索はハラスメントである。このように判断した私は、その教授にそのような詮索はやめるように訴えた。しかし、その教授は「研究者というものはスケベなものなんだよ」という趣旨の台詞を述べ、自らのハラスメントを正当化した。書いていて嫌な気分になってくるが、この、あまりにも終わっているとしか言いようのない現象が、大学では起きるのである。これは、大学教員と学生の関係が根本的に非対称であることに起因する。
確かに、大学教員に最初から及び腰になっている学生が、大学教員の横暴さを引き出しているという見方も可能であるかもしれない。大卒資格欲しさに、学生が大学教員のハラスメントをすすんで黙認してしまうという、大学教員と学生との間の共犯関係・共依存関係を指摘することができるかもしれない。単位さえもらえればいいと割り切り、理不尽な仕打ちに耐えるという計算が学生にあってもおかしくはない。これが事実なら、大学教員は、自らのハラスメント的行為を監視・注意する他者を完全に欠いてしまったことで、彼らにとっては楽園のような、ぬるま湯のような環境で、お山の大将のような、甘やかされた存在として、自己形成してしまった、「大学教員━学生」という権力関係の被害者でもあるといえるあろう。大学教員は、大学における「大学教員━学生」という最初から非対称的な関係に身を置き、学生との日々の相互作用の過程で、ハラスメントをハラスメントとして自覚することのできない人間になってしまうということである。
しかし、たとえこのような共犯関係・共依存的な関係が存在しているのだとしても、全ての学生が、このような関係を、大学教員との間に形成するわけではない。たとえば、大卒資格や就職にあまり興味がなく、自ら起業したいと考える自立心の高い学生や、海外の大学の情報に詳しく、人権意識の高い学生にとっては、このような日本の大学における、大学教員と学生の共犯関係・共依存関係で許容されてしまっているハラスメントは、ハラスメント以外の何物でもなく、もしも自らにその矛先が向いたならば、猛烈に反発してしかるべきものであろう。全ての学生が、大学教員と共犯関係・共依存関係にあるのではないのだ。また、たとえ大学教員と共犯関係・共依存関係を形成していた学生であっても、限度を超えたハラスメントを大学教員から受けたならば、死に物狂いで反発するであろう。そして、おそらく、ハラスメントをハラスメントとして、もはや自ら検知することができなくなった大学教員にとっては、ハラスメントをハラスメントとして告発する学生は、自らを不当に糾弾する加害者に映るに違いない。これは比喩ではない。ハラスメントを告発された大学教員は、身に覚えのない仕打ちをされていると感じると私は分析する。なぜなら、ハラスメントをしているという自覚がないからこそ、大学教員は、ハラスメントを堂々と行ってしまうと考えられるからである。ハラスメントの加害者であるはずの大学教員が、ハラスメントを指摘されて、被害者意識を募らせることは、当然の帰結なのだ。大卒資格に価値を生じさせる日本社会の構造が支えている「大学教員━学生」という権力関係が、大学教員を、ハラスメントをハラスメントとして検知できない存在に仕立て、かつ、ほとんどの学生をハラスメントに徒に寛容な存在に仕立てるのである。やはり、ハラスメントはハラスメントとして、常日頃から周囲がしつこく指摘しなければならないものだといえる。
長々と書いてきたが、このように、他者の生殺与奪の権限を持つ人間が、その他者よりも優位になれることは、大学における大学教員と学生の、様々な場面でのやり取りを、具体的に描写することによって示すことが可能であろう。
ところで、大学教員が加害者になるという話は、大学教員と学生という二者間に留まらない。大学教員は経済的に恵まれない人々に対しても加害者となっている。経済的格差が、個人の学歴と収入に及ぼす影響を重視するならば、諸外国の大学の学費と比較して、各段に高い学費の必要な日本の大学は、経済的格差を固定化している差別的な機関といえるからだ。「少子化によりどんな馬鹿でも大学に入れる」という物言いがあるが、これは間違っている。「少子化によりどんな馬鹿でも裕福であれば大学に入れる」が正しい。裕福な者しか通えない大学に大学教員として務め、その運営と維持に従事し、経済的格差の固定に加担することの罪は重い。
以上に述べてきたように、大学教員のポジショナリティは、「大学教員━学生」や「大学教員━経済的に恵まれない人々」という権力関係として説明でき、大学教員は、学生や経済的に恵まれない人々に対する、抑圧者・差別者・加害者であるといえる。大学教員がハラスメントを学生に行う時に限って、「大学教員━学生」という権力関係が指摘できるというわけではない。大学教員が大学教員であること自体が罪なのである。大学教員として学費の高い日本の大学に務め、大学を運営・維持し、結果的に、大卒資格に代表される学歴重視の日本社会の構造を存続させていくことに加担していることが、罪なのである。
上記の文章は、ポジショナリティという言葉を用いる人々による「加害事実の証明」を理解できない私が、手持ちの情報を用いて適当に作成した「加害事実の証明もどき」の文章であるため、裏付けとなる数値的なデータや、文章の稚拙さなどの欠点が目立ち、説得力にかなりの疑問があるが、基本的にはこのような路線で、大学教員のポジショナリティを描くことができるのではないか。
もしも、上記のような描写が実際に可能であるならば、大学教員というポジショナリティが引き起こす「大学教員─学生」や「大学教員─経済的に恵まれない人々」という権力関係についての、野村さんや池田さんの意見を是非ともお聞きしてみたいと思う。
しかし、そもそも、このような権力関係が実際に存在しており、野村さんや池田さんが自らを加害者として自覚していたならば、彼らは大学教員を辞めるか、あるいは、大学における単位制度の抹消や、学費引き下げを目標に掲げて、何らかのアクションを起こしていることであろう。加害者が罪を償うことは当然の行為だからだ。現時点において、大学教員という自らのポジショナリティを、ポジショナリティという概念の説明の際に彼らが取り上げていないということは、野村さんや池田さんは自分自身が大学教員であることに、問題を全く感じていないということなのであろう。権力関係は一切存在せず、加害者も被害者も存在しない。自分達が大学教員であること自体には何の問題もない。このように彼らは考えているのであろう。身に覚えのないことを反省したり謝罪したりする必要はない。したがって、野村さんや池田さんが大学教員というポジショナリティに言及しないことは、論理的に正しい態度だといえる。
ちなみに、私自身は、大学教員のポジショナリティに、問題があるとは思わない。ハラスメントを学生に行う大学教員は解雇してしかるべきであり、ハラスメントが指摘し易い仕組みを大学に構築することは重要だと思うが、大学教員であること自体がすなわち、誰かを加害していることになるとは全く思わない。なぜなら、大学教員が従事する、学生の能力を評価するという仕事が、そのまま直接的に、暴力や加害行為とみなせるのなら、この社会において、評価することが全く存在できなくなるからである。大学だけでなく、小中学校や塾も全否定しなければならなくなる。何らかの知識や技能を伝えるにあたり、評価することは避けて通れない行為である。評価することが全否定された社会は果たして、社会として機能しうるのだろうか。また、日本の大学の学費の高さについてであるが、諸外国のように、学費が無料であることが好ましいのは言うまでもない。日本の大学の学費が高いことは、経済的に恵まれない人々にとって障壁になっているのは事実であろう。したがって、学費の高い大学に勤務している大学教員は、経済的に恵まれない人々に間接的に暴力を振るっているということも否定できないことだとは思う。しかし、大学教員とはいえ、大学のあり方を変革することは困難である。組織の内部にいるからといって組織のあり方をがらりと変えることができるわけではない。そのような裁量権を与えられている人物ならともかく、一介の大学教員が、研究の合間に運動を行うことで、日本全国の大学の学費を無料にできるわけがない。日本の大学の学費が高いことの責任は、国立大学の法人化を推進した主体(文部科学省の大臣?大蔵省の大臣?)のような、裁量権のある人物に負わせてしかるべきだと思うが、どうであろうか。日本の国立大学の学費が高い状態にならざるをえない政策を実際に行った人物をこそ、抑圧者・差別者・加害者として断罪すべきだと私は考える。
*5:そして、「ともよ」さんを労わった。
*6:日本の内閣総理大臣、官僚、自民党の議員(沖縄出身者も含む)、彼らに投票した有権者達(沖縄出身者も含む)、その他の政治家(沖縄出身者も含む)、そして彼らの命令に忠実に動く執行機関の職員達(沖縄出身者も含む)は除く。彼らは己の行為の意味を十分に理解しているはずだ。
*7:自らの業績を作るために、沖縄に住む人々に対して反省や謝罪のポーズを取って見せて、そのことを論文や執筆物や作品のネタにし、結局は沖縄を自分のために利用している研究者や物書きや芸術家も、中にはいるのではないだろうか。身に覚えがあるから謝罪や反省をするのではなく、「この状況でこのような人々に対してはこのように振る舞うのが無難であり得策だ」と計算し、とにかく形だけの謝罪と反省を行うような輩は、単に土下座の技術を磨いているだけの、処世術に長けた欺瞞的な人間に思える。自分が沖縄に対する加害者である理由を理解できていないくせに、理解している振りをして、反省と謝罪を行い、沖縄の人々に取り入って、結局はお為ごかしをしている輩がいるとして、そのような輩が沖縄の人々に受け入れられているという状況があるなら、これは何とも薄気味悪い状況だ。