ふと想起してしまう問題


ベイトソンをちゃんと理解したい。学習Ⅱの概念と、ダブルバインドの概念を私は正確に理解できていないように思う。

■学習Ⅱ

学習Ⅱは、コンテクストが身につくことをいう。しかしコンテクストとは何かという疑問が次に浮上する。

私は以前、下記のサイトで、学習Ⅱを「「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の学習が行われるということ」と定義している。

http://www.factree.org/content/01/09.html

コンテクストの具体例として、私は次のように述べている。

「過去に「おはよう」という音とともに殴る蹴るの暴行を受けたことのある人物Bは、「おはよう」という言葉と、暴力や恐怖や痛みを関連付けて、そのセットをまるごと学習しています。そうすると、別の機会で、他人Aから「おはよう」と言われた際に、あらかじめ埋め込まれた「おはよう―暴力―恐怖」という「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」にもとづいて、Bは「おはよう」という言葉を受け取り、脅えることになります。」

また次のような命題も、コンテクストの具体例として私は挙げている。

「自分は人に憎まれている」

「おはよう―暴力―恐怖」といった謎の図式と、「自分は人に憎まれている」という命題が、コンテクストの具体例として並置されている。しかし、これらは並置されてもいいものなのだろうか? 不安である。自信がない。

現時点において私は、コンテクストというものを、マインドマップのようなものとして理解した方がいいのではないかと思ったりしている。

http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/mm01/mm01a.html

とにかく私はコンテクストというものを、いまだ正確に説明できない。


ダブルバインド

ダブルバインドは、メッセージに関する概念といえる。

「こっちへおいで」と言いつつ、自分の子どもが実際に自分へ近づいてくると「しかめ面」をする親は、子どもをダブルバインドの状況に置いている。もちろん、この場合には、親へ近づいていかないことも許されない。「こっちへおいで」と言う親を、いぶかしんで遠くから眺めている子どもは罰を受けることになる。「どうしたの。私のことが嫌いなの?」と子どもは親になじられることになる。結局、子どもは苦しむ。

ベイトソンダブルバインドの概念を、これまで私は、「相矛盾する二つのメッセージを同時に他者へ発すること」もしくは「本音と建前が異なること」として、誤って理解していた。この理解には「論理階梯」と「罰」の要素が抜け落ちている。

次のような理解が正しいと今は考える。

「論理階梯」を異にした二つのメッセージが発せられ、どちらのメッセージに従っても、結局、「罰」を受けてしまうような、逃げ道のない(=つまり二重の)拘束状態。このような状況に他者を置くことが「他者をダブルバインドにかけるということ」である。

上記の現象をさらに詳細に見ていくならば、次のように説明することができる。二つのメッセージがあるとする。メッセージAと、メッセージAの内容を否定するもう一つのメッセージBがあるとする。これら二つのメッセージが、同時に他者へ発せられ、さらに他者は、自らに向けられた、論理階梯を異にする二つのメッセージのどちらをも正しく理解することが許されない。つまり、この状況は、どちらか一方のメッセージを理解し、そのメッセージが期待する言動を自分がとった際に、もう一つのメッセージに従わなかったことによって、罰を受けてしまう状況である。

確かに、よくある現象である。

「分からないことがあれば何でも質問しろ」と言いつつ、いざ質問すれば、「それぐらい自分で調べろ!」と叱り、部下をダブルバインドにかける上司。もちろんこの場合には、質問しないでいることも許されない。質問しないで自力で疑問に取り組む部下は「なぜ質問しない?」というお叱りを上司から受けることになる。結局、部下は苦しむ。

「女らしくしなさい(=とっとと結婚して子どもを作れ)」というメッセージを発しつつ、一方では、「勉強していい大学に入っていい企業に入ってバリバリ働け」というメッセージを発し、娘を拒食症にする母親。現代の日本においては、子どもをもうけつつビジネスウーマンとしての成功を収められる女性は、利用可能なリソースとしての親族の存在や、情報処理能力とたぐいまれな体力に恵まれた人のみである。「女らしく」すれば、「バリバリ働くこと」が困難になり、娘はそのことを気に病む。だからといって、「バリバリ働く」ことを選べば、「女らしく」することができなくなり、娘はそのことを気に病む。結局、娘は苦しむ。

(↑上司と部下のエピソードと、拒食症の娘のエピソードは、どちらもダブルバインドの具体例として不適切ではないか? ここには、二つの異なる論理階梯が見当たらない。単に、「相矛盾する二つのメッセージ」が発せられてるだけではないか?)

ダブルバインドの概念は、コミュニケーションにおいて人が遭遇する苦境の典型例に、我々の注意を向けさせるものといえる。まさしくダブルバインドは、「二重拘束」と訳すのがふさわしい。

ところで、ベイトソンによれば、ダブルバインドは「見かけ上の矛盾」なのだそうである。私はこのことが理解できていない。

(↑今、『精神の生態学』に目を通してみたのだが、「見かけ上の矛盾」に関する部分を見つけることができなかった。したがって、「ベイトソンによれば、ダブルバインドは「見かけ上の矛盾」なのだそうである」という文章は、私の思い違いである可能性が大。)

(↑ 『精神と自然』の167ページに「見かけ上の矛盾」という言葉を見つけることができた。イルカがクラスとメンバーの違いを認識する話において、ベイトソンは、「見かけ上の矛盾」という用語を使用している。円と楕円を区別することを学習させられた犬が、限りなく楕円に近い円(=限りなく円に近い楕円でもある)が果たして楕円なのか円なのかを区別することができない状況で、神経症的な症状を呈し始めるのに対して、イルカは、目下自らが対峙している論理階梯の上位に存在する論理階梯に気づくことができる。そのため、イルカは神経症にならない。この際に、「見かけ上の矛盾」は解消されるという。私は、上記の犬のエピソードを、ダブルバインドの具体例として捉えていた。だからこそ、今回、「見かけ上の矛盾」という話題に触れてしまったのであろう。)

二つの相矛盾するメッセージを同時に発せられているために、子どもや部下や娘は苦しんでいるように思える。しかし、メッセージは相矛盾しておらず、矛盾はあくまでも「見かけだけ」とベイトソンは述べているのだ。

この部分に、論理階梯が関係してくるのであろう。

例えば、「死ねかつ生きろ」と言われたとする。このメッセージに従うことは不可能である。このメッセージは矛盾しているといえる。しかしベイトソンは、このようなメッセージを、次のように分解して理解するよう勧めているような気がする。

「死ね」

「「死ね」というメッセージに従うな」

つまり、「死ね」というメッセージAは、このメッセージAが存在する論理階梯とは異なる論理階梯に存在する「生きろ」というメッセージBによって、禁止されている。ここには、「死ねかつ生きろ」という相矛盾したメッセージがあるのではなく、「死ね」と「「死ね」というメッセージに従うな」という論理階梯を異にしたメッセージがあると理解したほうがよい。ベイトソンはこのように述べているように私は思う。

ベイトソンによると、上記のようにメッセージを論理階梯に注意しながら理解することができれば、ダブルバインドの「見かけ上の矛盾」から人は解放されるのだという。矛盾は、あくまでも見かけだけというのだ。いままで矛盾として捉えられていたものは、実は、矛盾ではないらしいのだ。

私はこの部分が理解できていない。なぜ、論理階梯を意識できれば、ダブルバインドから逃れることができるのだろうか? 矛盾は相変わらず矛盾として存在しており、けして解消されてはいないと私は考えてしまう。

私はダブルバインドの概念をいまだ正確に理解できていない。

(↑ もしかしたら、ベイトソンは、「矛盾というものは、論理階梯を同じくする二つのメッセージが確認できる際に生じる現象である」と考えていたのかもしれない。だとしたら、「二つのメッセージがそれぞれ異なる論理階梯に存在する場合には、矛盾という現象は発生しない」ということになる。しかしたとえそうだとしても、ダブルバインドにかけられた人は、苦しみから逃れられないのではないか? 自らに発せられているメッセージが、論理階梯を異にする二つのメッセージであることが明らかになったとしても、ダブルバインドにかけられている人は、身動きがとれない状況に居続けることを余儀なくされ、苦しみ続けるのではないか? やっぱりダブルバインドに捕らわれた人は、狂うしかないような気がする。拒食症になったり、分裂病になったりすることが、唯一の逃げ道であるような気がする。)


重森 2005/08/31/08:19:56 No.99

イルカは、「尾びれで水面を叩く→エサ」と「水槽に入る→エサ」という二つの個別のコンテクストの上位に存在するコンテクスト、すなわち「なにか新しいことをする→エサ」というコンテクストに気づくことができた。これがいわゆる、論理階梯のジャンプである。

しかし犬は、「目の前の図形が円ならばこれこれの行為を行う→電気ショックなし」と「目の前の図形が楕円ならばこれこれの行為を行う→電気ショックなし」という二つの個別のコンテクストの上位に存在するコンテクスト、すなわち「目の前の図形が円なのか楕円なのか区別する→電気ショックなし」というコンテクストに気づくことができなかった。そのコンテクストを自分が学習してしまっていることに意識的になれなかった。自分の思い込みから逃れることができなかった。そして、「目の前の図形が円なのか楕円なのか区別する」というコンテクストと同じ等級のコンテクストである「目の前の図形が円なのか楕円なのか区別せずに、あてずっぽうで臨む。賭けにでる。」というコンテクストに気づくことができなかった。これがいわゆる、論理階梯のジャンプの失敗である。そしてその帰結が、神経症である。

「見かけ上の矛盾」とは、いままでは尾びれで水面を叩くとエサがもらえたり、水槽に入るとエサがもらえたにもかかわらず、二度目には、どちらの行為を行っても、エサがもらえない状態を指している。イルカは「なぜ水面を尾びれで叩いたのに、今はエサがもらえないのだろう?」と悩む。つまりイルカは矛盾に直面しているといえる。

しかし、新しいことをすれば再びエサがもらえることに気づいたイルカにとって、「尾びれで水面を叩いたのにエサがもらえないこと」や「水槽に入ったのにエサがもらえないこと」は、もはや矛盾ではない。これらはいまや「見かけ上の矛盾」にすぎない。


重森 2005/08/31/21:03:40 No.100

「見かけ上の矛盾」という言葉は、イルカの論理階梯ジャンプの話においてのみ使用されている言葉であり、ダブルバインドという現象に観察することのできる「相矛盾するメッセージ」とは、全く関係ない言葉のように思えてきた。

いつものように、創造的誤読をしていたようだ。

うー。でも果たしてそうだろうか。

「異なるメンバーを集めた一つのクラスが設定される中で、初めてそこに共通する規則性が引き出され、見かけ上の矛盾が超克されるのである。パブロフの犬も、実験方法次第では同様のステップを踏むこともできたはずなのだが、あの場合、イヌは当て推量を行うべきコンテクストに自分がいるのだということを学習する機会がまったく与えられていなかった。」(ベイトソン 2001:167)

「哺乳動物も遊びを認識していると認識していた私は、二十年ほど前、カワウソを使った実験で、動物も行為のやりとりを分類しているということ、したがってコンテクストの変化を認識し損ったために罰せられたパブロフのイヌや、行為の組織の仕方が悪かったのに個別の行為に対してのみ苦しみを与えられる囚人たちの陥るような精神異常をきたす可能性をもっているということを認識するに至った。カワウソの遊びの観察から、さらに私は、人間による行動の階型づけはどのようになされているかという問題に研究を進めた。そして精神分裂病と呼ばれる人間の病の症状のいくつかは、やはり論理階型操作のミスに由来するという考えに行きついた。これが<ダブルバインド理論>である。」(ベイトソン 2001:169)

「こっちへおいで」と言いつつ、実際にそばへ近づくと「しかめ面」をする人物Aに対して、「あのー。あなたの「しかめ面」は、「こっちへおいで」というメッセージに私が従うことを暗に禁止するメッセージなっています。つまり、「しかめ面」と「こっちへおいで」というメッセージは、異なる論理階梯に存在しています。非常に困ります。」と述べたところで、ダブルバインドにかけられれている人物Bが置かれた苦しい状況は、変化しないのではないか? 結局、人物Bはたとえ論理階梯を正しく正確に識別できたとしても、相変わらず人物Aによって、苦しまされ続けるのではないか? 矛盾は矛盾として、依然として存在しており、けして「見かけ上の矛盾」になることはないような気がする。

(↑またこんなことを書いてやがる。「見かけ上の矛盾」は、ダブルバインドとは関係ない。やはり「見かけ上の矛盾」は、イルカによる論理階梯ジャンプのエピソードとのみ関連のある言葉だ。このように考えたほうがスッキリする。筋が通る。気分が良い。)