ひさびさの北九州
さまざまな人と会い、酒を飲み、大いに語ってきた。
以下、北九州にて特に印象に残った出来事および語りを箇条書き。
- 新北九州空港は潮の香りがする
- 旦過市場では相変わらず鯨が売られていた
- 自分は日本の近現代史を知らなすぎる(例、日中友好条約)
- 風が吹けば桶屋が儲かるメカニズム(琵琶の材料は猫の皮です)
- 傘がないときはブルーシートを傘代わりにする(目立つ)
- 自分大好きな人*1が他人に恋をすると成長せざるをえない*2
- サクティは肩こりと冷え性に効く
- サクティを出すと腹が減る
- 内部に入って、内側から敵を破壊すること
- 戦争を起すのは資本家である
- 高橋和巳を読め
- リストカッターが、自分が飲んでいる薬や手首の傷を自慢する理由
- 最近の若手劇団の演劇は「半径5メートル以内」と呼びうるような、「社会や政治や戦争」といったテーマとはかけ離れた内容のものが多い(例、恋愛における三角関係や日常の出来事などを扱った劇が多い)。伝えたいことはないのかと嘆く人多数*3。
- 暗黒舞踏にはストーリーがあったほうが見る人により何かを感じさせるのではないだろうか? それとも暗黒舞踏はストーリーを拒絶するものなのだろうか?
- 人間一度は精神科に行って、精神科医とはどんな人間なのかを調査してみたほうがいい
- 「呪術で殺すぞ」というタイ人ブローカーのセリフを前にしたときに、「呪術で人が殺せるとは思っていないんじゃないの?」と疑ってしまう人を、「「虚/実」(の構図)に捕われている」と、わざわざ表現する必要はないのではないか?
- ノミの生態について知るために、観察者がノミになる必要はない。
- パスカルボイヤーによると、通過儀礼はその参加者に「世の中は理不尽で、訳も分からず痛い目にあわされることがある」ということを知らしめるにすぎない
- 研究は動機がないと続かない。好奇心や怒りといった原動力があってこそ研究は続けられる
- 恋人や結婚相手がいたとしても、そこにときめきがなければ、やがて人はときめきを他人に求める。こういうケースはよくあることなのだろうか。そうだとすれば、人はこの矛盾をどう処理するのか? フランス人みたいに一夫一婦制の恋愛関係や結婚制度を捨て去るのだろうか?
- 髪をちゃんとセットすると、重森は格好いい
- 自分に対するインタビュー記事の掲載された大学入学パンフレットを見て、この大学へ入ることを決めた人がいたという事実は、インタビューされた人物を妙に嬉しくさせる
- 子どもを産む仲間が増えてきた。
- 北九州の空は東京のそれよりも高く、風はすこし冷たかった。時間がゆっくり流れていて、めちゃくちゃ物価が安かった。あと、女の人がとても綺麗。
- 山で熊に遭遇したら逃げてはいけない。目をそらしてもいけない。堂々と構えて咆哮し威嚇すること。熊には「逃げる動物を襲う」という習性がある。
- 相手の逃げ道をふさいではいけない。相手を追い詰めてはいけない。
*1:ナルシスト
*2:自分が自分に惚れている人物。すなわちナルシスト。このような人間が他人に恋をすると、もう一人の自分が、他人に恋をする自分に嫉妬する。他人に恋をする自分の目を、再び自分に向かせるべく、ナルシストは自分の魅力を高めることを余儀なくされる。この場合、他人は自分が成長するための手段でしかなくなっているが、「他人と自分の関係」よりも、あくまでも「自分と自分の関係」が、ナルシストにとっては重要であるため、「他人と自分の関係」にそれほど入れ込むことはなく、他人との恋愛が泥沼化することはない。これこそオトナの恋? ←ていうか、ここでの「自分と自分の関係」ははたして恋愛と言えるのだろうか?
*3:テーマが「恋愛における三角関係」でも「戦争」でも、複雑な現象が複雑なままクリアカットに提示されたうえで、とことん問題が掘り下げられて考えられている演劇ならば、これは良い演劇ではないだろうか? テーマが問題ではなく、テーマの料理の仕方が問題であるような気がする