2008年5月のGW

電脳コイル鑑賞

電脳コイルというアニメが気にかかり、いっきに26話まで鑑賞する。話がなかなか複雑である。

日常生活において擬似現実の知覚を可能にする電脳メガネ。このアイテムにより物理的な物体の上に、まるでレイヤーをかぶせるようにして、プログラムで作り出された物体が織り込まれる。いわば世界全体がパソコンの画面のようになったような状態。もしくは、目に携帯の液晶画面が張り付いたような状況。人々は、生の現実と電脳的現実が重なり合った上記のような世界で、インターネットや電話に代表されるような様々なツールを利用して生活している。


電脳コイルの世界観の概要と登場人物の紹介的チャプター


24話において、本物と偽物の区別が強化されてしまうという展開にややあせる。本物と偽物の区別自体を無化することができそうな電脳メガネというテクノロジーが、むしろ本物と偽物の区別を強化してしまうのはつまらない。

しかし、電脳ペットであるデンスケを喪失した、自分自身が感じる胸の痛みに注目し、主人公がその痛みを中心にして再度世界を把握していこうとしたので、安堵する。


ラストの場面で、主人公たちはメガネなしでもデンスケの姿を認めることができた。この場面に、「リアルであればそれが本物。」というメッセージを私は読み込んだ。

世界観・映像の見せ方・キャラの設定*1等、多くの点で非常によくできた面白いアニメだと思う。特に、お化けやお札といった事物が、プログラムの産物やプログラムそのものという視点で読み替えられているところが興味深かった。本物のお化けや幽霊が入り込む余地がなさそうであるが、この視点はこの視点で面白いと思う。

「意識や魂というモノがある」という前提の存在に少し不満を感じるけれども、全体的にこのアニメは面白かった。

ジュンク堂で立ち読み

はじまりとしてのフィールドワーク』を立ち読み。石井先生が「小人を見てしまったこと」について長文を書いている。「妖術を見た」EPにも、本格的な言及がなされている。

しかし、やはり「小人を見ることができるようになったメカニズム」は不明のままであった。読んでいて非常にもどかしくなる。

しかし、はたと思う。石井先生だけでなく、超常的な存在を知覚することができたと述べる人は、私の周囲に実は結構いる。そのことを考えると、むしろ超常的な存在を知覚することができない私自身が、問題であるかのように思える。「なぜ私は超常的な存在を知覚することができないのか?」 まず私はこの問いに向き合い、このメカニズムを明らかにするべきではないか?

幽霊を枯れ尾花として見ることは実は簡単なことで、むしろ、枯れ尾花を幽霊として見る能力が私には欠けているのかもしれない。私は、アヒルにもウサギにも見ることができる図を、アヒルとしてしか見ることのできないアスペクト盲ともいえそうである。説明されてしかるべきなのは、私のほうなのかもしれない。

少林少女

弟が見たいというので、見に行った。

くっだらない。ぜんっぜん駄目。ストーリーが陳腐すぎる。出来事と出来事のつながりが無理やりすぎて全然入り込めない。リアリティが全くない。つまらない。本気で金返せと思った。あまりのつまらなさに腰が抜けた。

ただ、岡村が不気味だったのが良かった。唯一岡村の演技がいい味を出していた。

キャッチボール

弟と公園でキャッチボールをする。本当に久しぶりに運動をした。約7時間後、筋肉痛に襲われた。

まだまだ私は若い。

芸術家との対話

銃弾で出来た白い椅子。この作品の製作者である沖縄出身の若い芸術家と話をする。例の白い椅子は、金網で覆われたブースの中に置かれていた。近くに立っていた芸術家に、その場で思いついたことを口にしてみた。

  1. 銃弾で出来た白い椅子は、沖縄の矛盾を表現しているという。しかし、この作品は、「沖縄人の強さ・したたかさ」を表現しているものとして、受け取られる可能性があるのではないか? 例えば、ビギンが歌うような「爆弾鍋」や、沖縄の民家でよく見かける「植木鉢の代わりにされた砲弾」と同様のものとして。
  2. どうせやるなら、この椅子を一つだけどこかに展示するのではなく、沖縄中の公的な建物に、密かに大量に設置したりしたほうが、よりメッセージが伝わるのではないか?
  3. 白い椅子の傍らにさりげなく置かれていた、ハブとマングースのチェスは、沖縄の現状の非常にうまいアナロジーだと思う。この手作りのチェスは、「沖縄に住む者」と「沖縄の外から来た者*2」が、何者かによって「対立させられていること」を明確に示す、よい象徴だと思う。

建築家と編集者と巡る夜の裏渋谷

私に白い椅子の存在を教えてくれた建築家から、某出版社の編集者の方を紹介される。ずいぶん前から編集者は白い椅子を追っていたらしい。彼らと『野菜畑』という名の居酒屋で、芸術やその効果的な表現手法について語り合う。

編集者は、某憑依系占い師の友人であることが判明。私と意外な接点があったため、非常に驚く。閉店後、次の店を探して徘徊。浜崎○ゆみが住むという超豪華FF的マンションや深夜2:00まで店内の衣服をたたむ人がいるGAPの店などを観光しつつ、青山から渋谷駅まで夜を徘徊。結局、渋谷のマクドナルドで話の続きをする。

かなり有意義であった。編集者という仕事をしている人間の、世界に関する情報量には目を見張るものがある。新たな情報を摂取した私は、かなりアップデイトされてしまった模様。未知の言説空間に住む人と会話することは、知らない国を旅することと似ている。話の流れで、編集者から靖国という映画のチケットを購入*3

人類学的な飲み会

新宿にて人類学者だらけの宴会に参加。若い人々ばかりなので、やはり恋愛をめぐる話に突入。露悪的な私は相変わらず極論を展開。合言葉は「チョロQ」。あるいは、「ひとりでできるもん」。

*1:「ぼく、サッチー。よろしくね♪」は強烈だ。夢に出てきそうだ。

*2:その大部分は、アメリカの貧しい若者たち。

*3:次の土日はこの映画を見に行こう。