「イエスかノーかの単純な問題ではありません。」
件の自民党からの立候補者が、自身の宣伝資料の中で、述べていた言葉である。
私は、この種の、「物事の良し悪しを判断しないこと」や「曖昧でグレーな態度」を是とするような言説に警戒心を抱く。とりわけ、この言説が、「批判されてしかるべきことを行った者」によって、用いられている場合には。
物事には良い面と悪い面の両方があると述べて、物事の良し悪しを判断すること(白黒つけること)を戒める人に、私はこれまで何度か出会ったことがある。特に、学校教育や戦争や基地や暴力などの話題について、たしなめるかのように、やんわりと、良し悪しの判断を禁止してくる人が多かったように思う。ろくにデータを収集せず、すぐに目につく限られたデータのみに基づいて、ありきたりの安易な答えに飛びつくことを戒めることには、納得できる。物事の良し悪しを判断する際には、慎重かつ丁寧に行うこと。このことを受け入れることにやぶさかではない。
しかし、「良い悪いを明確に判断することで招いてしまう周囲からの批判を回避したい」という意図や、「批判されてしかるべきことを行ってしまったが、そのことに対する周囲からの批判を封じ込めたい」という意図のもとで、「物事の良し悪しを判断すること」が戒められている場合には、話は別である。
前者については、「情けない」と素朴に思うだけであるが、後者の場合、すなわち、「批判されてしかるべきことを行った者」が、物事には良い面と悪い面の両方があるという理由で、物事の良し悪しを判断すること(白黒つけること)を戒める時、私は強い怒りを覚える。
普天間基地の「県外移設」の公約破りの罪を正式に認めぬまま、「辺野古新基地の建設」と抱き合わせの「普天間基地の危険性の除去」を推進し、これを「米軍基地が残された形での沖縄の復帰」となぞらえるようにして*1、「イエスかノーかの単純な問題ではありません。」という、「物事の良し悪しを判断しないこと」や「曖昧でグレーな態度」を是とするような言説でまとめあげてしまう人間。私はこのような人間を心底軽蔑する。
これは、誰がどう見ても、イエスかノーかの単純な問題であろう。第一に、公約破りを正当化しようとする厚顔無恥な自民党の人間に対しては、「ノー」の評価が妥当である。嘘を付いたら、どのような理由があるにせよ、嘘を付いたことを認め、そのことを謝るのが筋であろう。そして、基地のたらい回しが行われようとしている現在の沖縄。この状況に対しても「ノー」の評価が適切である。辺野古新基地を作ることなしに、普天間基地を除去すること。これがベストだ。沖縄県民の命を重視するのであれば、普天間基地の除去の条件として、辺野古新基地の建設を認めることなど、絶対にできないはずだ。